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第十章 運命 3

 どこへ向かうともつかないまま市街地を抜けて南の市門へと向かう。

 門衛は知らない兵士たちだった。

「王子殿下の《朋友隊》のカパネウスだ。主命で外の陣営へ向かう」

 今度はギリシア系の名前を名乗ってみたのに、門衛たちは馬の尻に押された王宮の印の焼き印を見ただけですぐに恭しく通した。



 雨脚に泡立つ河に架かる長い橋を渡れば、その先はもうハイファの野だ。

 右手に微かな火明かりが見える。

 散り切らない傭兵たちが今もまだ野営をしているのだ。


 イラージュは激しい雨のなか、火明かりに引き寄せられる羽虫のように火の傍へと近づいていった。



 いくつかの天幕が並んだ一画までつくと、垂れ幕の隙間から細く零れる光とともに内側の喧騒が聞こえてきた。

 みな共通ギリシア語で話しているようだ。

 賑やかで温かそうだ。


 馬から降りてぼんやりとその物音を聞いていたとき、

「おい。何をしているんだ?」

 不意に背後から女の声に訊ねられた。


 ぎょっとして振り返ると、すぐ真後ろに小柄な人影があった。


 小さな天幕の入り口に立って、片手で幕を上にあげ、もう片手に明かり皿を持っている。


 顎の尖った卵型の輪郭と滑らかそうな蜂蜜色の膚。

 艶やかな黒髪をひとつに束ねて、簡素だが清潔そうな生成り色のチュニックの右胸に垂らしている。


 あの女だ。

 あの《山の民》の女。


 イラージュは長いこと見続けてきた悪夢の中に迷い込んでしまったような気分で訊ねた。

「お前、俺が誰だか分かるのか?」

 途端に女の顔が歪む。

「分からないはずがないだろう。お前は目立つ。どこにいても分かる」

 相変わらずの憎しみが籠った声だ。

 イラージュはほっとした。



 ――こいつにとっては関係ないんだ。俺が王子だろうが奴隷だろうが。



 女がますます不愉快そうに眉をしかめた。

「なんだ。何を嗤っている。今度は何を殺してきたんだ?」

「叔父だ。殺し損ねたが」

 答えてしまってからハッとする。



 ――そういえばあの人は叔父じゃなかった。



 見ると、女が妙に納得した様子で頷いていた。

 イラージュは眉をしかめた。

「なんだよ、その訳知り顔は」

 途端、女が気まずそうに顔を逸らしながら言う。「夕べから天幕の兵士たちが噂していたんだ。お前がとうとう母親を殺しに行くのかと」

「ああ、なるほど」と、イラージュは納得した。「殺していない。会っただけだ」

「それはよかった」

 言ってしまってからハッとしたように女は顔をしかめた。

 そして、何を思ったか言った。


「入るか? 雨が止むまで」


 イラージュは有難く入った。

 いよいよこの女に殺して貰えるときが来たのかもしれない。




 幕の内は洞穴じみていた。


 何とも知れない何かの革の襞が暗い火明かりに照らされている。

 真ん中に石を丸く並べただけの炉で馬の糞を燃やしている。

 おかげでひどい臭いだ。

 右側に古びた鹿皮が叱れて、周りに細々とした品が並んでいる。 

 白っぽい小さな石の鉢。

 黒ずんだ草の束。

 素焼きの皿や鉢や椀。

 干からびた果物のようなもの。


「持ち物が増えたな」

「けが人が多いからな」

 片手で促されるままにイラージュは火の傍に坐った。途端、頭上にフェルト布を投げ渡される。

「拭け。敷物を濡らすな」

「敷物ってほどの皮かよ」

「大事なものだ。そのうえで人が死ぬ」

 なるほどそれは大事かもしれない。

 イラージュは言われるままに真新しい水を滴らせる黒髪を解いて拭いた。

 これもじっとりと濡れた外套を脱いで入り口の近くに広げてから、鹿皮の上に坐りなおしたとき、痩せた腕が素焼きの鉢を差し出してきた。

「飲め」

 イラージュは言われるままに呑んだ。

 てっきり毒かと思ったのに、中身は当たり前の乳酒だった。

 薄く白く酸い飲み物を半分ほど干したところで、唐突に、アルガノスでアーブディーンと交わした会話を思い出した。



 ――ああなるほど。あの男は俺に毒杯を賜ったと思ったのか。



「殺せよ」

 気が付くと声を出していた。

 女が眉をしかめる。

「は?」

「俺を殺したいんだろう?」

 彼は疲れた獣の目で火の向こうの女を見た。

 艶やかな黒髪が火を浴びて輝いている。

「髪が伸びたなあ」

「……気でも違ったか?」

 女が本気で気味悪そうに訊ねてくる。

 イラージュはまた思わず笑った。

 女が顔をしかめる。

「何を嗤う。何があった。今度は何を殺したんだ?」

「殺していない。知っただけだ」

「何を」

「俺は王の子ではなかった」

 イラージュはぼそりと答えた。


 女が眉をあげる。

「どういう意味だ?」

「そのままだ。俺は王の子ではなかった。あの女が蛮族に犯されてできた子だ」

「――聖域の、女神アナーヒターの巫女が?」

「そうだ。あの女は俺を憎んでいる。――憎んで当たり前だ」

 口にするなり、イラージュはたまらない寒気を感じた。


 体が芯から冷たかった。

 堪えがたく唇が戦慄く。

 じきにその唇が内側から押し広げられて、自分のものとは信じられない獣じみた泣き声が零れた。



 ――俺が泣いているのか? 女みたいに背を丸めて、肩を震わせて。



 その事実にイラージュは愕きを感じた。


 ひとしきり泣いてから顔をあげると、火の向こうで女が薬草の束をほどいて枯れた葉をむしっていた。伏せた睫が頬骨の上に濃い影を落としている。

 イラージュは縋りつくように頼んだ。

「なあ殺せよ。今ここで。毒でも盛ってくれればいい。お前なら簡単だろう?」

「ああ簡単だ。だが、まだ盛らない」

「どうして」

「私はまだお前を助けていない」

 女の口調に迷いはなかった。

 イラージュは喉を鳴らした。

「それは無理だ。諦めろ。俺を助ける機会なんかこの世が果てるまでない」

「いくらでもあるさ」

「なぜそう思う」

「お前はいつも戦っているからな。兄だの叔父だの母親だのに、いつも陥れられて」

 女が淡々と答えた。

 横顔を赤い火が照らしていた。

 むき出しの痩せた腕が動いている。

 イラージュは不意に女の顔に燃えるあの憎しみが見たいと思った。

 にじり寄って女の手首を横からつかむなり、びくりと肩が強張る。

 しかし、その体からはすぐに力が抜けてしまった。



 ――なんだよ。お前も同じなのか。



 イラージュは舌打ちをした。

「なんで抗わない」

「抗って敵うと思うか?」

 女がつまらなそうに答える。

 イラージュは失笑した。

 ついさっき一語一句同じ問答を交わしてきた気がする。

「なあ、どういう気分なんだ?」

「なにが」

「力で抗えないのはさ」

 女が一瞬眉をよせてから答えた。

「腹が立つ」

「俺に?」

「いや。何かに」

 女の声が哀しげだった。

 手首を握る指の力を緩めても女は逃げなかった。

 ためしに肩に掌を置くと、またびくりと体が強張る。

 イラージュは殆どおそるおそる女の頬に右手を当てた。

 滑らかな頬だった。

 想像よりずっと熱い。


 不意に、何を思ったか女が掌を重ねてきた。

 黒い眸が涙で潤んでいる。


「何で泣くんだ?」

 訊ねても女は答えなかった。

 細い肩を震わせ、頬にポロポロと涙を零している。

 イラージュがその涙を舌で嘗めとっても、女は抗わなかった。




 王紀181年第四月十六日、不運なるアーラシュの子イラージュはアルドヴィ・スーラー二代目の国王として即位した。アケメネス朝の昔から王国の北部に聖なる火を護ってきたザーラーの《神官の一族》が国王イラージュに《王環》を戴冠させた。母祖女神アナーヒターの巫女は僭王サルムに与したために祝賀には招かれなかった。


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