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第十章 運命 2

 暗い控えの間をよぎって柱廊へ出ると、巻き毛の小姓が全く変わらない様子で篝火のあいだに立っていた。

「王子殿下? あれ、もうお戻りですか?」

 アマノスでの亡命時代と同じように気安く声をかけてくる。

「ああ。お前はいつまでそこに?」

「もうじき交代です。ここ一日で意外とよく奥仕えの小姓が戻ってきたのです」と、少年はイラージュの初めて見る熟練の官吏みたいな顔で答えた。

「そうか。良かったな」

 イラージュは機械的に笑って少年の頭を撫でた。


 雨が激しくなっていた。

 棕櫚苑を囲む廊を抜けて南の棟まで戻ったところで、イラージュは唐突にロクサーネに会いたいと思った。

 彼女の暖かな赤砂糖色の髪に顔を埋めて、汗と陽射しとジャスミンの薫りを吸い込みたかった。


 昔からフェリドゥーンの暮らしていた棕櫚苑の付近は迷宮じみた王宮のなかでもよく知る一画だ。イラージュは人目につかない抜け道を選んで南の厩舎へと向かった。

 入口に一対の篝火が灯され、見覚えのない若い男が番をしている。

 番人は雨の中を進んでくるイラージュを認めると不審そうに声をかけてきた。


「どなたでございますか?」

 イラージュは一瞬だけ考えてから答えた。

「――《朋友隊(ヘタイロイ)》のタフムーラスだ。私用で荘へ戻る」

「あ、ああ、それは失礼をいたしました!」と、番人が焦り切った声で応じる。「どうぞお入りください」

 番人は全く疑わずにイラージュを導き入れた。

 イラージュは嗤いたくなった。



 ――俺はあいつにも似ているのか?



 厩舎のなかは暗かった。


 まっすぐに伸びる土のままの通路の両側に獣たちの気配がある。

 背後から射す火明かりがぎりぎり届くあたりから小さな嘶きが聞こえた。

 見れば、暗がりの中に、たったひとつの星のような白い斑が浮き上がっていた。


「《(セターレ)》」


 イラージュは思わず呼んで、額に白い斑のある愛馬へと歩み寄った。

 縋りつくようにその首を抱いて鼻面に顔を押し当てていると、

「あのう――」と、番人が躊躇いがちに声をかけてきた。「相すみませんが、そちらは王子殿下のお馬で」

「分かっている。悪いが適当な馬を見繕ってくれ。愛馬が足を挫いているんだ」

「それはお気の毒です」と、番人が本当に気の毒そうに言う。「すぐにお支度いたします。しかし、こんな夜中に雨の中、何かよほどの御用でも?」

 探るように訊ねてくる。

 イラージュはしばらく考えてから答えた。

「妻に子が生まれるんだ」

「ああ、それは大事な御用ですね! お待ちください。すぐにお支度いたしますから」

 待つほどもなく馬の支度が調った。

 ほっそりとした若い月毛馬だ。

 タフムーラスになり切ったつもりで礼を告げて手綱を受け取ると、番人が黒っぽいフード付きの外套を差し出してきた。

「雨除けが御入用では?」

「ああ、ありがとう」

 有難く受け取ってフードを被り、大人しい月毛馬を引いて戸外へと出る。


 雨が激しくなっていた。

 空が砕けて一斉に降り注いでくるようだ。


 表門の前まで出ると、また誰何の声がかかった。

 聞き覚えのない声だった。《朋友隊》の成員ではないようだ。

「《朋友隊》のカンブージャだ。王子殿下の命令で隊長殿の荘へ向かう」

 今度はそう名乗ってみる。

 するとまた容易く納得された。

 イラージュは不安になった。



 --今の俺は本当に俺の姿をしているんだろうか? ロクサーネは俺を見て本当に名前を呼んでくれるんだろうか?



 そこまで考えたところでハッとする。

 彼女は名前は呼ばない。

 きっと「王子殿下」と呼ぶ。


 そうと思った瞬間、イラージュは大声で泣き叫びたくなった。



 ――駄目だ。駄目だ。ロクサーネには会えない。あの娘は誇り高い女神の子のものだ。

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