第九章 聖域 3
嘲るように告げるなり、女は――アルドヴィ・スーラーの母祖女神アナーヒターの巫女は、息子とそっくりの表情で忌々しげに鼻を鳴らした。
「おぬしか。何の用だ」
その声からは一片の愛着も感じられなかった。
イラージュはまた鼻を鳴らした。
「お前には何の用もない。マヌシュチフルはどこだ? 玉璽はどこにある?」
「そんなものは知らん。聖域は俗世の争いとは関わりないものだ」
「なら確かめさせろ」
さらに足を進めようとした瞬間、鳥のように鋭い声が叫ぶ。
「踏み込むなと言うておろうが!」
「お前に命じられる筋合いはない!」
間髪入れずに怒鳴り返し、イラージュは目の前の小柄な女の顔を、あらんかぎりの憎しみを籠めて睨みつけた。
濃い睫に縁取られた切れ長の眸と形良い赤い唇。
お互い認めたくはなかっただろうが、母子はよく似ていた。
巫女はその息子によく似た美貌を憎々しげに歪めて吐き捨てた。
「どこまでも礼を知らん。それが母への言葉か」
「母?」と、息子は嘲り笑った。「ずうずうしい女だな! わが母は不死なるアナーヒターその方だ。お前は単なる肉の器だろうが」
「不死なるお方? おぬしの母が、か?」
「間違いないだろう? その穢らわしいお前の胎から生まれた以上はな。分かったらそこをどけ!」
「断る」
巫女が平然と答えた。
イラージュは憤怒にかられた。
「女。口の聞き方に気をつけろ。俺は女神の子だぞ?」
「女神の子? 女神の子とな?」
巫女が赤く塗りたてられた唇を歪めて嗤った。
その笑みのあまりの歪さにいイラージュが一瞬怯んだとき、巫女は甲高い鳥のような声で叫んだ。
「……――女神の子でなどあるものか! 紛れもなくおぬしは私の子よ! この胎から生まれた王家の忌み子よ……!」
「忌み子? どういう意味だよ」
「分からんか?」
巫女がニタリと笑った。
イラージュは思わず後ずさった。
歪んだ笑みを浮かべた貌が鼻先に近づいてくる。
長身の息子の顔を下からのぞき込むようにして巫女が言葉を続けた。
「どこまでも愚かな息子よ。説かれなければ分らんのか?」
「だから何をだ!」
「なに、簡単なことよ」よ、巫女がまた顔を歪める。「祭の夜、私は王とは臥所を共にしてはいない」
「ならどうして俺が生まれる!」
「ふん。血のめぐりの悪い」と、巫女が舌打ちをし、腐った水でも吐き出すように告げた。「おぬしの種はその前に蒔かれた。蛮族どもが聖域を侵した夜に」
イラージュは相手が何を言っているのか咄嗟に理解できなかった。
呆然としたまま立ち尽くしていると、巫女がまたにたりと嗤った。
「分かったか? おぬしは王の子ではないのだ。女神を宿した巫女の子でもない。おぬしは単なる――」
「……――黙れ!」
イラージュは耐えかねて叫ぶなり、手にしたままだった抜身の新月刀を振りかざして、目の前の女の細首を右横からはねようとした。
しかし、白刃を振り下ろした瞬間、左手の横合いから人影が滑りこんできたかと思うと、カッと激しい音を立てて刃を刃で受け止めた。
「お前、なんでいる」
イラージュは凍り付いた表情のまま訊ねた。
目の前で大きく足を広げて立ち、額に汗を浮かべてイラージュの刃を自らの刀で受け止めているのはタフムーラスだった。
眉間に深い皴をよせ、まるで慟哭を堪えるかのように口元を歪めている。
「退け」
「いいえ王子殿下。決して退きません」
「お前、今の聞いていたんだろう?」と、イラージュは全身の力を刃に籠めながら訊ねた。「俺は王子殿下じゃない。どうやらそういうことらしいぞ?」
自分でも意外なほど醒めきった声で告げるなり、領主貴族が泣きむせぶような声で応えた。
「いいえ、あなたは王子殿下です! わたくしの王子殿下です!」
額に汗を浮かべたタフムーラスの顔に、ふと二年半前の逃亡の夜の彼が思い出された。
――そうだ。こいつは忠実だった。いつだって俺に忠実だった。
そう思うなり、息苦しいほど激しい怒りが静かに引いていった。
イラージュが刀に籠める力を抜くと、渾身の力で受け止めていたタフムーラスがよろめいた。
場合にもなくイラージュは微かに笑った。
すぐ鼻先で巫女が棒立ちになっている。
イラージュはつかつかと歩み寄って左手で彼女の肩を掴むと、体勢を立て直したばかりのタフムーラスのほうへと乱暴に押しやった。
「抑えておけ。殺すなよ」
言い置いて小アーチの向こうの祭壇へと進んでゆく。
「――ご無礼、仕ります」
タフムーラスは巫女の華奢な胴体に左腕を回し、抜身の刀を細首の前に水平にかかげながら詫びた。
巫女は鼻を鳴らした。
「礼節を弁えた侵略者だな! おぬし名は?」
「タフムーラスと」
「領主貴族か?」
「はい」
「あの忌み子に仕えるものか?」
「……はい」
タフムーラスが掠れた声で応えると、巫女はため息をついた。
「できるなら、あれを王にはしたくなかった。だが、これだけ手を尽くしても追えないということは、あれが王座につくことが不死なるお方の思し召しなのであろう。タフムーラスといったな。よく仕えろよ。そして秘めろよ。王あるかぎりな」
「……――はい」
答えるなり、忠実な領主貴族は肩を震わせて泣いた。




