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第九章 聖域 1

 都は酷い有様だった。

 街路には人馬の糞尿に塗れているし、水路は汚物で詰まって腐った水があふれ出している。そこいら中で元・傭兵が酒を飲みながら騒いで、「女神の子万歳! 祝いの酒を振る舞え!」と、無銭飲食に耽っている。


 粗末な毛織の被布をかぶって密かに王宮へ戻ったイラージュは、よく朝の日の出までに、北岸の橋の前に《朋友隊》すべてを集めるようにとタフムーラスに命じた。

「すべてと仰いましても、王宮の門の守備をしている者たちはそのまま残しませんと」

「じゃあそいつら以外だ。動ける奴は全員集めろ」

 イラージュの言葉は頑なだった。

 タフムーラスは諦めて命令に従った。




 翌朝はまだ薄暗いうちから、淀んだ河面に霧が立ち込めていた。

 日の出の前に集められた一六〇弱の騎兵が、体にも馬にも微細な水滴を凝らせながら、橋の向こうから来るはずの彼の王子を待ち受けていた。

 宮の厩舎から漆黒の《(セターレ)》に乗って橋を進んだイラージュは、一同の前に進むなり、冷ややかに醒めきった声で告げた。


「聖域に踏み込む。場合によっては刀を抜く」


 言葉が終わるなり沈黙が落ちた。

 一拍おいてざわめきが生じる。

 皆が戸惑っているようだった。

 

「聖域って王子殿下(シャーザーデ)、女神の聖域ですか?」と、栗毛のテディウスが困惑しきった声で訊ねてくる。「そこに踏み込むって、フェリドさまがそんなことを?」

心底親を頼りにする子供みたいな声で訊ねてくる。

 イラージュは怒りを感じた。


「俺の判断だ! フェリドは関係ない! 子が母の住処を訪ねるだけだ! 来たい奴だけ来い!」

 苛立ち交じりに怒鳴りつけるように命じるなり、真っ先に一騎が進み出てきた。

 赤毛のパルメニオンだ。

 いつも陽気で子供っぽい貌に暗く厳しい表情を浮かべている。

 次に美男のカンブージャが進んできた。

 一騎、二騎と前に進み出る者が増えてゆく。

 みな尾根越え以来の十数騎――二年半前に《山の民》の殲滅に加わった面々だ。


 彼らが全員進み出たあとで、テディウスが『畜生!』と、小声のギリシア語で吐き捨ててから、馬を進めて親友のパルメニオンの隣に並んだ。

 それを皮切りにして、アマノス以来苦楽を共にした五十数名が進んでくる。

 イラージュは淡々と頭数を数えた。

 六十一人目に、アルガノスではせ参じた元・小姓の若いカパネウスが蒼褪め切った顔で進んできたところで、イラージュは右手をあげた。

「これでいい。他は残って王宮の門を護れ」

「――は、はい王子殿下!」

 ありありと安堵を感じさせる声が戻ってくる。

 残留者はみな身なりが良かった。都近郊の領主貴族(アリヤーン)の子弟たちだ。

 そういう生まれの連中のなかでは、母祖女神アナーヒターの権威はまだまだ強力らしい。


 イラージュは内心で舌打ちをしてから、ふと気づいて、ずっと右後ろに控えている忠実な領主貴族を見やった。

「なあタフムーラス、お前も来るのか?」

「ええ、お供いたしますよ」と、タフムーラスは諦めたように笑って応えた。

「……――残るなら、残ってもいいんだぞ?」

「いいえ。お供いたします」と、タフムーラスは忠実な猟犬の顔で応えた。

「そうか」

 イラージュは微かな失望とともに頷いた。


 タフムーラスは共に尾根を越えた仲間だが、あの《山の民》の襲撃には加わっていない。

 サルム殺しのときも傍にはいなかった。

 彼はいつでも明るい場所に――陽のあたる美しい戦場にだけいた。


 できるなら、イラージュは彼をそのまま明るい場所にだけ置いておきたかった。

 

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