第八章 王の印 3
強靭な足と愛馬をもつ女神の子は、「都へ戻る」と言い置いてその日のうちに出立してしまった。
おそらくは都で《朋友隊》を集めてそのまま聖域へ向かうつもりなのだろう。タフムーラスも勿論同行する。
生真面目な領主貴族は出立前、申し訳なさそうな表情を浮かべながらフェリドゥーンのところへ挨拶にきた。
「フェリドゥーンさま、王子殿下から急のお達しがありましたため、わたくしも急遽都へ戻ることとなりました。家人にはよく申し付けておきますから、ロクサーネさまともども、どうぞ我が家と思って寛いでご滞在ください」
「ああ、ありがとう」
フェリドゥーンはどうにか平静を取り繕って応え、ついに堪えかねて付け加えた。
「なあタフムーラス、頼みがあるんだ」
「何でしょう?」
「――この先何があっても、あの子の傍を離れないでくれ」
「あの子?」
タフムーラスは一瞬戸惑ってから、すぐに目を細めて笑った。
「お言葉ながらフェリドゥーンさま、わたくしは《朋友隊》の隊長ですよ? 何があろうと王子殿下のお傍におりますとも。当然ではありませんか」
「あの子が母を殺しても? 身内の血に手を汚しても?」
縋りつくように訊ねるなり、タフムーラスは表情を曇らせ、諦めめいたため息をつきながら頷いた。「ええ。わたくしの主君ですから。あの方が冥府の闇へとお下りになるならわたくしも下ります。《朋友隊》たちもみなついてくると思いますよ」
「そうか」
フェリドゥーンは辛うじてそれだけ応えた。
つまり、彼らはこれから起こるだろうイラージュによる聖域侵犯の抑止力にはならないということだ。
都からタフムーラスの領地までは馬なら半日ほどだ。
イラージュがタフムーラスを伴って出立した翌日の午後、入れ違いのようにカシュタリティが訪ねてきた。フェリドゥーンは早くも定位置となりつつある中庭の葡萄棚の下で迎えた。
「どうしたフェリドゥーン。あんたにしては随分と意気消沈しているが、原因はやはり王子殿下の非公式なあの聖域訪問か?」
「あいつやっぱり行ったのか!」と、フェリドゥーンは舌打ちし、常と変わらず飄々とした顔つきのカシュタリティを剣呑に睨み上げた。
「お前はどうして止めなかったんだよ?」
「止めてとまると思うか? 殺していいなら別だが」
途端、フェリドゥーンの顔が怒りに歪む。
カシュタリティは声を立てて笑うと、不意に真顔に戻って訊ねた。
「しかし、実際どうして駄目なんだ? 俺の配下は三〇〇いる。あっちの《朋友隊》は一六〇ってとこだ。聖域侵犯を冒すとなったら従うのは半分以下だろう。数からしても大義名分からしても、不要になった操り人形を片付けるには、むしろちょうどいい機会だと思うか」
「冗談じゃない。あいつは必要だ。これからもずっと必要なんだ」
「なぜ?」
「あいつがいなくなったら、他に誰が王座につく?」
「もう一人いるだろう」
「アルガノスにか? あれは無理だ。扱いきれん。馬鹿だが本物の王族だ」
「本当にあんたはアーブディーン殿下がお気に入りだな! もちろんあのお人は無理だ。しかし、先々王陛下のお子ならもう一人いるだろうが」
と、カシュタリティはやや焦れたように言い、手を伸ばしてフェリドゥーン自身の肩を叩いた。
フェリドゥーンは瞬きをした。
「俺か? ますます論外だ」
「なぜ」
「馬にも乗れん《戦士の長》なんぞ美意識に反する」
カシュタリティは答えを聞くなり苦笑してため息をついた。
「そういうとは思っていたが。ところでわが聡明なる殿下よ、都があなたを必要としているのですが」
「何の用だ?」
「上下水道が花びらで詰まっています。駅馬は宿駅におりません。財務官たちが新宰相から命じられるまでミスラ神殿の建築費はびた一文出さんと言い張るため、職にあぶれた傭兵どもが市街で暴れて剣呑です。つまり、我々はみなあなたの戻りを心から切望しているのです」
カシュタリティが真面目な顔で告げる。
フェリドゥーンは苦笑した。
「そりゃ有意義な雑用だ! 足が無くてもできる」




