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第八章 王の印 2

その事実にイラージュが奇妙な安堵を覚えたとき、フェリドゥーンが低く掠れた小声で呟いた。

「《王の印》がないんだ」


「王の印?」

 イラージュはおうむ返しに応えた。

 フェリドゥーンが微苦笑する。

「要するに玉璽だ。黄金製の」

「……印璽なら俺が預けただろう?」

「ああ。官印はすべて一そろいあったが、そこに国王の玉璽だけなかったんだよ。隠し場所は――」

 と、フェリドゥーンは一瞬口ごもってから続けた。

「王宮内になかったとなれば、十中八九、女神の聖域だろうな」

 その言葉を聞いた瞬間、イラージュは全身の血が煮え立つような憤怒を思い出した。


「聖域は不可侵だろう? もしそうだったら、どうやって取り戻せばいいんだ?」

「婚礼を急ぐんだな」

「婚礼? 誰との」

「誰ってそりゃお前、麗しのビルマーヤ姫とに決まっている。姫は今どこに?」

「母親が都の外の別邸に逃げていたらしい。今はそっちに行った」

「なら早いところ迎えにいってやれ。できるだけ盛大な行列でな。ビルマーヤ姫を正妃として迎え直せば、聖域の巫女は謹んで《騒動のあいだお預かりしていた》玉璽をご献上くださるはずだ。ま、だいたい予想通りの成り行きだ。代価はできれば先払いでお願いしたかったが」

 フェリドゥーンは大勝した盤上競技(チャトランガ)の駒運びを後から説明するみたいな朗らかさで話した。

 その顔は何とも楽しそうだった。

 イラージュは胸の奥がチリっと痛むのを感じた。

 同時に、最後に聞いたビルマーヤの疲れ果てたような呟きが思い出された。



 ――貴方がたはいつも忘れていらっしゃる。わたくしにも心はあるのですよ……



「――取引だな、まるで」

 思わず口にするなり、フェリドゥーンが声を立てて笑った。

「取引だよ、まさに」

 イラージュはその顔に反発を覚えた。

「フェリド、そのやり方は俺は厭だ」

「じゃ、どうしたいんだ?」

「聖域にあるならじかに取りにけばいい」

「正気か? 聖域だぞ?」

「だからどうしたよ」と、イラージュは舌打ちした。「子が母の住まいを訪ねるだけだ。俺はあの女と取引はしない。あいつは偽の神託で《山の民》を皆殺しにさせたんだ」

「落ち着けイラージュ、巫女はお前の母親だろう?」

「あいつは母じゃない!」と、イラージュは眉を吊り上げた。「俺の母は不死なるアナーヒターだ」

「ああ悪かった、確かにその通りだ」と、フェリドゥーンはおざなりに詫びると、華奢な手を伸ばしてイラージュの肩を掴んできた。

「なあ、落ち着けイラージュ。正妃にビルマーヤ姫を迎えるのがそんなに不服か? だが仕方ない。それだけは妥協しろ。ロクサーネどのだってそこは分かっている」

 イラージュはハッとした。

 ロクサーネの名を口にしたとき、フェリドゥーンの顔に一瞬だけ、なんとも優しく物柔らかな、慈愛としか言いようのないような表情がよぎって見えたのだ。


 同時に、なぜかまたあの幻影の声が浮かんだ。



 ――フェリドは、まさか。



 イラージュは改めて目の前の若い叔父の顔をみた。

 繊い栗色の髪に縁取られた美しい象牙色の貌。

 その顔は祭壇のサルムと似ていた。


 イラージュはそのとき唐突に、相手が男なのだと意識した。



「どうしたんだ一体」と、フェリドゥーンが苛立った声で訊ねてくる。その声は完全に男のものだった。

「姫に夫の仇とでも怨まれたのか?」


「いや全く」と、イラージュは短いため息をついた。「外でサルムが殺されているってのに、あいつは薔薇苑の奥で完璧に身づくろいして待ち受けていたよ」

「結構じゃないか。もともとお前の妃になるはずだった姫だ」

「俺が決めたわけじゃない。ロクサーネを正妃にする」

 口にした瞬間にイラージュは気づいた。


 それこそが自分の本当の望みだ。

 ずっとずっとそうしたかったことだ。


 途端、フェリドゥーンが眉根をよせ、この上もなく真剣な声で言った。

「それだけはよせ。彼女を苦しめるだけだ」

「――だからあなたといるほうがいいってのか?」

 思わず口にした途端、フェリドゥーンの顔に動揺が走った――少なくともイラージュの目には走ったように見えた。

 イラージュは咄嗟に目を逸らしながら言った。

「ロクサーネはやらない。誰にも――あなたにもだ!」

 低く叫ぶように言い置いて踵を返す。

 中庭をよぎって向かい側の柱廊の日陰に入ったとき、イラージュは一瞬だけ足を止めて追いかけてくる足音を待った。

 勿論そんなものはなかった。

 当たり前だ――と、イラージュは自分を嗤った。


 あの人は独りでは歩けないのだ。

 俺のために地面を這いずるはずもない。

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