第一章 半神 3
……――追想に耽っているあいだに陽が動いていた。
もうじきに落日が訪れる。
頭上を無数の烏の群れが旋回していた。
イラージュがぼんやりとその鳥影を見あげたとき、西側の崖を数騎の《朋友》たちが駆け下りてきた。
「--王子殿下! 周囲の探索が終わりましたよ!」
「落ち武者はいません、一騎たりとも!」
イラージュと同じ黒髪に褐色の膚のペルシア系の二騎がはしゃいだ声で報告してくる。
女神の子は一瞬で鬱屈を払い、黒い眸をキラキラと輝かせ、眩いばかりに白い歯を見せて笑った。
「そうか、みなよくやった! 今夜は酒盛りだ! そのへんに羊が残っていたらみんな集めて来い!」
若い王子の声に、三々五々と焼け跡に駆けつけてきた《朋友隊》の面々が嬉しそうな笑い声をあげる。
彼らの心に罪の意識はなかった。
つまるところ、これは女神の託宣であり、目の前にいるのは女神の息子なのだから。
女神の子たるイラージュの《朋友隊》は六〇騎を越えるが、今回の《山の民》討伐に率いてきたのは精鋭二〇騎だけだ。
焼き討ちの夜から四日後、戦利品の羊集めに奔走していたイラージュたちはようやく山間を出て、平地をまっすぐに北西へと伸びる石畳の《王の道》を目にした。
遠い昔、アルドヴィ・スーラーが古のアケメネス朝の一部であった頃に敷かれた古く幅広い幹線道路を目にするなり、イラージュはようやく文明の地に帰ってきたような安心感を覚えた。
「王子殿下、ようやくに都に帰れますねえ!」
《朋友隊》きっての美男と名高いカンブージャが馬の背から嬉しそうに言う。
イラージュも久々に穏やかな気分で笑った。
「ああ、ようやくにな!」
都――
目の前の道の先に待ち受けるはずの都のことを思うと胸の底がじんわりと暖かくなった。
都には美しいビルマーヤもいるし、仲の良い若い叔父のフェリドゥーンもいる。
そして勿論あの忌々しい死すべき父王もいる。
――あいつはきっと愕くだろうな。
俺が本当に《山の民》の連中を全滅させたと知ったら――女も子供も年寄もお前のためにみんな殺してやったと言ったら――……
そのときこそあの男は心底から感嘆するだろう。
ああ、やはりそなたは女神の子だと、死すべき人の子どもとは芯から違う存在なのだと。
――そうして、きっと今度こそ、俺のことを心から誇ってくれるだろう……
「……王子殿下?」
カンブージャが傍らから気づかわしそうに呼ぶ。
イラージュははっとわれに返った。
「何だ?」
「いや、なんだかずいぶんぼんやりなさっているので。さすがにお疲れですかね?」
「冗談じゃない。俺がこの程度で疲れるもんか」
「それは失礼をば。しかし、死すべきわれらはちーっとばかり疲れておりましてね。今夜はひとつ、この近くの駅屋でゆっくり羽を伸ばしたらどうしょうかね?」
「この近くに駅屋があるのか?」
「道がありゃ駅はありますよ。進んでいけば必ず」
カンブージャのおおらかな請け合い通り、駅は進んでいけばあった。
「おい駅長! 女神の御子の凱旋だ! 一番上等の家畜を屠れ! ありったけの葡萄酒を運べ! 遊女がいたら呼べ!」
戦利品の羊を大量に連れた陽気な騎馬の《朋友隊》たちがどっと中庭になだれこむなり、僻地の小さな駅屋は上へ下への大騒ぎになった。
夜が来る前に、中庭の柱廊にはずらっと篝火が灯され、上等のフェルトのクッションがいくつも並べられて、羅をまとった遊女が琵琶をかき鳴らし、どれもそれなりに豪奢だが妙に不揃いなゴブレットで上等の赤葡萄酒が酌み交わされることになった。
中庭の真ん中で燃えるのは勿論大きな焚火だ。
その上で屠りたての子羊がジュウジュウと音を立てながら芳ばしい肉汁を滴らせている。
若い《朋友隊》たちはそれぞれ陽気にやっていた。
イラージュは大事な神像みたいに焚火の正面に坐らされ、忠実なパルメニオンの給仕で葡萄酒を啜っていた。
若い王子の左側には、アルドヴィ・スーラーでは珍しい淡い色合いの髪をした遊女が琵琶を打ちながら歌っていた。
その歌は十八年前、イラージュ自身の奇跡のような誕生を詠ったものだった。
十九年前――
アルドヴィ・スーラーの王家は未曽有の危機を迎えていた。
建国当時から常に悩まされてきた北部の遊牧民族が、北東国境の山岳地帯を越えて中部の平原地方にまで攻め寄せてきたのだ。
国王アーラシュ二世は都を捨てて女神アナーヒターの聖域に逃れたものの、そこすらも蛮族の攻撃を受けた。
王家もこれで終わりか――と、その冬多くの者が思った。
しかし、王家は終わらなかった。
北方の本拠地で蛮族の大族長が急死したのだ。
唐突に押し寄せてきた侵略者たちはまたしても唐突に引き上げていった。
同じ年の末、聖域に逃れていた国王が巫女と聖婚儀礼を果たした。
その結果生まれたのがイラージュだ。
生まれ落ちたそのときから彼は奇跡の子だった。
誰もが彼を敬い崇めた。
同じ目線で彼と語れる人間はごくごく少なかった。