第八章 王の印 1
一月ぶりに会うロクサーネの髪からは汗と陽射しとごく幽かなジャスミンの薫りがした。
「昨日の午後、こちらのお邸のお嬢様がたと一緒に花を集めて紐に通していたのです。婚礼の御祝にたくさん必要なのだそうです」
「婚礼?」
誰の、と尋ねかけて、イラージュははっとした。
ここはタフムーラスの館だ。
館のお嬢様--つまりは彼の姉妹たちが祝うのは、当然その兄であるタフムーラスと、彼の連れ帰ってきた異邦の妻たるエウリュノメの婚礼だろう。
--タフムーラスはやはりエウリュノメを正妻として扱うつもりなのだ。だが俺は? ロクサーネに何を与えてやれる?
「ロクサーネーー」
よく整えられた寝室でロクサーネの髪を撫でながら、イラージュは思わず呼んだ。
「何ですか?」
ロクサーネは全く率直な目つきで見返してきた。
「いや」
イラージュは言葉に困った。
--お前、正妃になりたいか?
そう言ったところで彼女は決して頷かないだろう。
「何でもない。―-ここが気に入りそうか?」
「はい王子殿下。とてもいいところです」
そう答えて笑うロクサーネの顔はどこまでも可愛らしかった。
イラージュはたまらない愛しさにかられた。
愛しい娘を腕に抱いた夜の眠りは深かった。
翌朝、イラージュが目を覚ましたとき、ロクサーネはいつものようにもう着替えを済ませていた。
アマノスの頃に見慣れたギリシア風の襞衣ではなく、イラージュの初めて見る、波紋状の地紋を浮かべた白い絹の筒袖の衣の裾を床に広げて、窓辺に腰を下ろし、ふわふわと波打つ柔らかな赤砂糖色の髪を一本の三つ編みにしようと苦心している。
アルドヴィ・スーラーの貴婦人にはよくある髪型だが、ロクサーネには馴れない編み方なのだろう。白い指を熱心に動かして編んでは、途中で気に入らなくなったのか、解いては俯いてため息をついている。
そのあまりの真剣さにイラージュは思わず笑った。
「ずいぶん難しそうだな」
「はい。とても難しい」
ロクサーネは生真面目な顔で応えた。
「ほどいたまんまでいいんじゃないか? アマノスの家じゃいつもそうしていただろ」
「駄目です。私が人前でみっともない格好をしていては王子殿下の恥になります」
そう言ってまた髪を編みにかかるロクサーネの顔つきはどこまでも真剣そのものだった。
イラージュはあまりの愛おしさに大声で何かを叫びたくなった。
「なあロクサーネーー」
思わず呼んでしまうと、ロクサーネが髪を編む指を止め、小首を傾げてこちらを見あげてきた。
何ですか? というように、夜明けのように明るい灰色の眸に訝しさが浮かんでいる。
イラージュはちょっと考えてから訊ねた。
「お前さ、何か欲しいものはないか?」
お前が欲しいなら何でもやる。
どんな贅沢なものでも。
そんな思いを込めて訊ねると、娘は眉をよせて一瞬考えてから、ニコッと笑って応えた。
「喉が渇きました。冷たい水が欲しい」
イラージュは一瞬呆気にとられたあとで、たまらなく嬉しくなった。
「待ってろ。すぐ持ってきてやる」
部屋を出ると外はもう陽が高かった。
井戸は中庭だろうか?
イラージュはしばらく迷ってから、葡萄棚のある中庭へと続く出口を見つけた。
その庭にはあいにく井戸は無かった。
代わりに先客がいた。
葡萄棚の下のベンチに栗色の髪を垂らした背中がある。
フェリドゥーンだ。
ベンチの向こうに立つタフムーラスと何か話している。
その一対の姿に、イラージュは唐突に、戦勝の午後に見たあの幻影を思い出した。
入日に照らされた柱廊で向き合うフェリドゥーンとタフムーラスーー……幻影のなかのタフムーラスは確かに言っていた。
なぜあなたが今になって王を名乗るのかと――
――馬鹿、何考えているんだ。
イラージュは内心で自分を叱った。
幻影なんてものはあてにならない。
疲れが見せる悪夢と同じようなものだ。
そうに決まっている。
必死で自分にそう言い聞かせているうちに、タフムーラスが丁重な一礼を残して向かいの棟へと入っていった。
あとにはフェリドゥーンだけが残る。
彼はこちらに背を向けていた。
イラージュはわけもなく足音を潜めてその背の真後ろまで進んだ。
すぐ後ろに立って見ると、白い衣に包まれた背中はハッとするほど痩せて骨ばってみえた。その背のあまりのひ弱さにイラージュは安心した。
――そうだ。この人は非力で病弱なんだ。頭はいいし覚悟もあるが、俺が護ってやらなけりゃ一人で歩くこともままならない。この人が妙な野心なんか抱くはずないだろうが。
自分自身にそう言い聞かせながら、その薄い肩を後ろから叩こうとしたとき、
「ロクサーネどの?」
不意にフェリドゥーンがそう言ったかと思うと首だけで振り返ってきた。
「え?」
イラージュは手を浮かせたまま呆気にとられた。
フェリドゥーンの明るい琥珀色の眸が眩しそうに細められる。
「ああ、なんだイラージュ、お前のほうだったか」
平然とした口調で言う。
イラージュはなぜかほっとした。
「どういう間違え方だよ」
「ジャスミンの薫りだよ」と、フェリドゥーンが笑って応える。「ロクサーネどのからずっとしていたのがお前にも移っている。どうやら愉しい夜をお過ごしだったようで! 一体何しにきたんだ?」
「あ」と、イラージュはようやく用向きを思い出した。「水だよ、水。冷たい水。このへんに井戸ないか?」
「そういうことは館の御主人様に訊け。あちらは朝から勤勉に帳簿の整理などなさっている」と、フェリドゥーンが正面の棟を顎でしゃくる。
タフムーラスはそっちにいるらしい。
急いで向かおうとしたところで、イラージュはふと気になって訊ねた。
「あいつ、さっきここにいただろう?」
「ああ」
「何を話していたんだ?」
訊ねるなり沈黙が落ちた。
フェリドゥーンが薄い瞼を伏せて何か考えこむ様子だ。
イラージュは全身がすっと冷たくなるのを感じ、フェリドゥーンの肩に両手をおいて顔を覗き込みながら重ねて訊ねた。
「話せよ」
「いやなに、ちょっとしたことなんだ」
「ちょっとしたことなら俺にも話せ。―-いいかフェリド、俺はあんたの手駒じゃないんだ。気がかりなことはきちんとみんな話せ」
肩においた掌に力をこめながら告げると、フェリドゥーンがようやく瞼をあげた。
正面からのぞき込んだ繊細な象牙色の美貌に、イラージュは久々に感嘆した。
――本当にこの人はきれいだ。顔だけ見ると女みたいだ。




