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第七章 再会 3

 その日の夜、フェリドゥーンは久々に幼少期の夢を見た。


 今までにも繰り返し見てきた七歳の冬の悪夢だ。


 イラージュが生まれる前の年、北部の遊牧民族が侵攻してきた冬、王家の面々は宮を捨てて母祖女神アナーヒターの聖域へと逃れたが、身分低い官吏や女奴隷はそのまま取り残された。

 外に頼れる先がある者が次々と逃れてゆくなか、遥かな西方生まれの女奴隷だったフェリドゥーンの母親は、日に日に人の少なくなる後庭に残り続けていた。


 母親は《睡蓮》と呼ばれていた。

 先々王の寵愛を受けて、睡蓮を植えた小さな池のある部屋を与えられていたためだ。


 豪奢な黄金色(きんいろ)の髪をした女奴隷と、よく似た貌の七歳の息子は、その池の水を柄杓で掬って飲んでは辛うじて生き延びていた。


 じきに池の水が凍り、雪が降り、略奪の朝が来た。


 フェリドゥーンは寝室の衣装櫃のなかに隠れていた。


 そのうちに騒音と悲鳴が聞こえ、何も聞こえなくなった。


 激しい渇きに負けて櫃から外へ出ると、凍った池のほとりに母親が倒れていた。

 赤黒く汚れた雪の上に広がる黄金色の髪。

 汚れた衣の裾が捲れて、青白く長い両足のあいだに、ひときわ濃い血だまりが見えた。



 ――俺は死体に目もくれずに池の水を飲んだ。腐った植物と血の味がした。腹が減ったから神々に祈った。助けてくれ。助けてくれ。助けてくれと……




 ……――目が覚めると涙が出ていた。


 フェリドゥーンはわざと欠伸をし、寝台の上で大きく体を伸ばした。

 そのとき、部屋の外から、小姓が興奮しきった声で叫んだ。


「フェリドさま、フェリドさま、王子殿下(シャーザーデ)がおつきです!」

「おお、ようやく来たか!」

 フェリドゥーンは慣れ親しんだ磊落そうな年長者の仮面をかぶると、小姓と杖に助けられて表門の前へと急いだ。

 開け放たれた門の前にはすでに館の奥方に加えて、タフムーラスとエウリュノメ、ロクサーネも姿を揃えていた。

 ロクサーネどの、と声をかけようとして、フェリドゥーンは息をのんだ。

 彼女は食い入るような面持ちで門の外の道を見ていた。


 渓流に架かる橋から、牧草地をまっすぐに登ってくる白っぽい土の道だ。

 流れの向こうから朝日が射している。

 やがて彼方から蹄の音が聞こえ、白く輝く光のなかを黒い騎馬の影が駆け上ってきた。



 ――ああ……



 フェリドゥーンは言葉を忘れて見惚れた。


 高らかな蹄の音を立てて坂路を登ってくる騎馬の影はフェリドゥーンの夢見る《戦士の長》そのものの姿をしていた。


 風になびく艶やかな黒髪。

 ゆがみのないまっすぐな骨格。

 深紅のマントに覆われたのびやかに広い肩。



 ――イラージュ。イラージュ。お前が俺の神だ。地上におりた半神だ。衰え切った王家の血を甦らせるものだ……



 フェリドゥーンが殆ど縋りつくように見つめるあいだに、騎馬の姿がどんどん大きくなっていった。額に浮かぶ汗の燦めきが見てとれるようになったとき、一同の背後で控えめに待っていたロクサーネが、堪えかねたように声をあげた。


「――王子殿下(シャーザーデ)!」


 泣き声交じりに叫びながら、ペルシア風の白い筒袖の長衣の裾をからげ、奥方が顔をしかめるのを気にもとめずに外へと走り出してゆく。

「王子殿下、王子殿下、ご無事だったのですね!」


「ロクサーネ? おい馬鹿、馬の前に出てくるなって、危ないだろうが!」

 馬上のイラージュが慌てて叫んで馬を止める。


 鼻先に白い斑のある美しい黒馬がぐるぐっる二、三回旋回してから辛うじて蹄を止めるなり、イラージュはひらりと馬の背から飛び降り、駆けつけてきたロクサーネを正面から抱きしめた。


「よく来たな! 会いたかったぞ!」

「わたしもです王子殿下! ずっとずっと会いたかった!」

 ロクサーネが泣き笑いのように叫ぶ。


 イラージュはひとしきり彼女の赤砂糖色の髪に顔を埋めてから、大切そうに彼女の体を放すと、フェリドゥーンに気付いてぱっと笑顔を浮かべた。


「フェリド! よかった、あなたも元気そうだな!」

「ああ、大いに。大勝利おめでとうイラージュ。タフムーラスとカシュタリティから話は大体聞いている。俺に何か渡すものがあるんじゃないのか?」

「ああ、そうだった。忘れるところだった」

 イラージュは笑って頷くと、腰帯に吊るした革袋から黒い布包みを取り出し、芝居がかった真剣さでフェリドゥーンに差し出してきた。

「印璽だ。宰相どの」

 そういって得意そうに笑う顔は全く無邪気な少年そのものだった。




 王紀百八十一年第三月二十五日、僭王サルムの躯が火葬に付された地で、のちのミスラ神殿の祭司カシュタリティが初めの犠牲の子牛を捧げた。僭王の妃ビルマーヤはこの祭祀を見届けたのちに、王子イラージュの許可を得て、妃の母の故郷であるアルミニヤへと発った。

                           『ヒベリアスの書』巻一より


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