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第七章 再会 1

 女神の子が都へ帰還したという噂が早馬を欠いた国内にぼつぼつ知れ渡り始めるころ、都の西方二〇歩里、スラ・ダリヤー河口域の北岸の港町アルガノスの階段状の埠頭に西からきた一艘の商船がついた。


 積み荷は主にやや粗悪な赤葡萄酒のアンフォラ壺。

 オリーヴ油と干しヒヨコ豆と生きた山羊少々。


 先だっての戦いで雇い主たる国王代官アーブディーン殿下が捕まるなり見捨てて離散した報酬前払いの傭兵連中が帰りの風を待って屯しているため、港町は常になく賑わっていた。河上の都からも、このところ「大至急!」と添え書きされた穀物その他の注文板がひっきりなしに送られてくる。商売繁盛大繁盛。それもこれも皆女神の子が御帰還なさったおかげだ。

 港人は新しい商売の神の名を湛えるように、

「女神の子万歳! アルテミスの子に感謝あれ!」

 と、挨拶みたいに言い交していた。


 そんな臨時景気に沸き返る賑やかな港町の埠頭では、このところ連日珍しい光景が見られていた。

 ギリシア系入植者が自治を敷くこの港ではごく珍しい生粋のペルシア系の容貌をした貴族らしい男が、上等そうな赤茶の馬を連れて、西からの商船が近づくたびに、大きく手を振りながら何やら叫んでいるのだった。

 その様をたまたま目にしたアルガノス人は後に吹聴することになる。


 俺はなあ、あの名高い《アマノスの乙女たち》が港に着くのをこの目で見たんだからな!



 後の世に名高い《アマノスの乙女たち》――とは、ヒベリアの女神の子が初めの戦いで赫々たる勝利を収めたその日、日没の方角から白い帆の船に乗ってやってきたと伝わる三人の乙女の総称である。

 その話をアルドヴィ・スーラー各地に伝えたミスラの祭司たちの言うには、「曙の光のように輝く髪をした乙女」と「夜空のように黒い髪をした乙女」を左右に伴った「女神その方のように背の高いヴェールを被った高貴な乙女」が、使いの貴族に迎えられて降り立ち、女神の子の勝利を告げられるなり。「おおわれらがミスラよ!」と涙を流し、光明神の祭壇に純白の鳩を捧げたのだという。


 後世そんな具合に流布することになる《アマノスの乙女たち伝説》にはいくつか間違っている点があった。

 第一に、このとき港についたのは二人の人妻と一人の男と、ついでに男の小姓である一人の少年だった。

 使いの貴族タフムーラスが真っ先に恭しく抱え下ろした日よけの亜麻布をすっぽりかぶった背の高い――乙女にしてはかなり背の高いフェリドゥーンは、都の無血開城の八割がた達成とそのとき見られた奇跡のような雲の晴れ間の様子を大まかに説明されるなり、

「ミスラよ、よくぞやった!」

 と、手を打ち合わせて歓び、手近で雇った荷車に乗って高台の国王代官公邸へと向かう道々、通りすがりのミスラの社にキジバトのつがいを捧げた。(彼は基本的に「取引は品を見てあと払い」を信条にしている)。

 そして、公邸に運び込まれるなり死んだように眠った。



『ねえマイオン、フェリドさまは大事ないわよね?』と、曙のような髪をした心優しいロクサーネが誰よりも案じていた。

『大丈夫ですって、さっきみたら息はなさっていましたよ!』と、小姓はわざとふざけて元気づけた。


『マイオンさん、ずっと眠っていらっしゃるけど、フェリドさま本当に大丈夫なの?』と、半日ばかり経ったあたりで夜のように黒い巻き毛のエウリュノメも心配しだした。

『大丈夫じゃないかと思いますよ。息はなさっているようだし』と、小姓は少しばかり心もとなく答えた。


「マイオン、君の主人は本当に眠っていらっしゃるだけなのだろうね?」と、翌朝になるとタフムーラスまで案じ出した。

「少なくとも息はなさっているのですが」と、小姓も本気で心配になってきた。


「おい小姓、あれは生きとるのか」?」と、昼前には公邸の主人である国王代官アーブディーン殿下が雑駁に訊ねてきた。

「息はなさっています」と、小姓は諦めに似た気持ちで答えた。




 長旅に疲れたフェリドゥーンは一昼夜滾々と眠り続けていた。

 彼は疲れれば大抵の場所で眠れた。

 亡命先の借家でも、山羊と同居する湿っぽい船倉でも、初夏の陽が燦燦と射しこむ見知らぬ公邸の一室でも。


 そこは白漆喰塗りの、広いわりに殆ど何の調度もないガランとした一室だった。

 運び込まれたときにはすでに眠り始めていたため、最初に目を覚ましたとき、フェリドゥーンは自分がどこにいるのか咄嗟に分からなかった。

 そして、すぐ鼻先にある顔が誰のものなのかも。


 アルドヴィ・スーラーの王侯貴族らしい濃い色の膚と黒髪をした神経質そうな顔立ちの四十男である。膚と髪からは珍しい碧色の眸をしている。


 そこまで見たところで、フェリドゥーンはようやく相手が誰だか思い至った。


「おはようございます異母兄上(あにうえ)


 アーブディーンは舌打ちした。

「なんだ、本当に生きておったのか」

「母祖女神アナーヒターおよび光明神ミスラのご加護により」

 フェリドゥーンは笑って答えた。



 栗毛のフェリドゥーンと碧い眸のアーブディーン。

 彼らも王家の異母兄弟ではあった。

 そして初対面ではなかった。

 アーブディーンはこの片足の異母弟が昔から大嫌いだった。

 遠い若い日、亡命地であるアルミニヤからの帰還直後、死を賜ることを覚悟して「私に兵を与えてほしい」と国王に奏上したとき、玉座の足元で琵琶(ウード)を叩いていた豪奢な身なりの美少年に鼻でせせら笑われた気がしたためである。

 逆にフェリドゥーンは猪突猛進ぎみのこの異母兄がかなり好きだった。


「ところで異母兄上、そこの水を一杯いただけませんか?」

「おのれでとれ、己で」

「無理に決まってんだろ」

 異母弟は荒んだ少年時代の口調で答えた。

 アーブディーンはちっと舌打ちをしながらも、窓辺の寝椅子からはやや離れた位置にある棚におかれた真鍮の水差しをとってゴブレットに水を注いでやった。

 こういうところが好きなのだ、とフェリドゥーンは内心で思った。


「ありがとうございます。ああー―生き返ります! それにしても異母兄上、苦しいお暮しをなさっていたのですねえ! 目が覚めたとき一瞬礫漠で渇き死にしたかと思いましたよ。あんまり何もなくて」

「他人の住まいに失敬な」と、アーブディーンは苦々しげに応えた。「何しに戻ってきた。俺はお前のことはよく知らんが、仮にも王族の男たるものが、遊女(ヘタイラ)みたいな身形をして玉座に侍って琵琶(ウード)を鳴らす暮らしが気に入っているとは思わなんだ。折角国外へ逃れられたのなら、そちらでそのまま暮らす算段でも立てればよかろうに――所詮主人の足元に縋ってしか生きられないやつなのか?」

 アーブディーンの声音には怒りのなかに一抹の失望が混じっていた。

 内心ですっかり嬉しくなったフェリドゥーンが、彼なりの歪んだ愛情表現に従って憎まれ口を返そうとしたとき、

「お言葉ながらアーブディーン殿下」と、思いがけずもタフムーラスが怒りを滲ませた顔で口を挟んできた。

「なんだ?」

「今のお言葉はどうかお取り消しを。殿下の異母弟ぎみは――われらのフェリドゥーンさまは、わが主君たる王子殿下(シャーザーデ)の大恩人です。二年半前、王宮での変事を真っ先にわたくしに報せ、亡命先で王族らしく暮らせるだけの財産を持ちだす手はずを整え、流浪の地では思慮の浅い《朋友隊(ヘタイロイ)》の若者たちが暮らしに困れば、まるで実の叔父か兄のように面倒をみてくださいました。王子殿下はフェリドゥーンさまを《わが未来の宰相》とお呼びです」

「未来の宰相? この異母弟が?」

 アーブディーンは碧い眸でフェリドゥーンの栗毛をつくづくと眺めてから、じきに諦めに充ちた長いため息をついた。

「わが主君たる女神の子がそのように仰せなら、私も従うほかあるまい。フェリドゥーン!」

「なんでしょう異母兄上?」

「都に戻るならもうちっとまともな身なりをしろ! 女神の子に恥をかかせるな。そっちの女どももな!」

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