第六章 落暉 4
タフムーラスの勧め通り、イラージュはその夜は王宮へは戻らず、そのまま陣営で休むことになった。天幕の奥に寝床が支度されるあいだ、栗毛のテディウスだけをつれて陣営中をうろつく。
破れのない鮮やかな赤マントを羽織ったイラージュの姿に気づくと、篝火を囲んだ兵士たちが歓びの声をあげた。
「女神の子! 女神の子!」
手をあげて応えてやれば更なる歓呼があがる。
イラージュは生き返ったような思いだった。
――そうだ。俺は女神の子だ。死すべき人間の生死なんか俺には小さなことだ。
ときおり勧められる酒の杯を受け取っては干しながら歩き回っていたとき、
「お、サエーナどの!」
背の後ろで、ほろ酔い加減のテディウスが陽気な声をあげた。
「相変わらず忙しそうだな!」
馴染みの娼婦でも見つけたのだろうか――と、好奇心にかられて振り返るなり、イラージュはぎょっとした。
テディウスの視線の先にいたのは、生成り色のチュニック姿の小柄な女だった。
まるで普通の女みたいに黒髪を結い上げて水がめを抱えているが、その顔は間違いなくあの《山の民》の薬師だった。
「どうだ、何か足りないものはあるか?」と、テディウスが親しげに訊ねる。
「水が足りない。どうしようもなく」
「河の水じゃ駄目なのか?」
「傷を洗うには濁りすぎている。清潔な真水が欲しいんだ」
「真水ねえ」と、テディウスが首をかしげ、当たり前のような顔でイラージュを振り仰いできた。「王子殿下、王宮のほうで真水が何とかなりませんかね? 市街は全く駄目そうなんですよ。水路が花で埋まっちまったのか、給水口がみんな涸れちまってて」
「涸れる?」
おうむ返しに応じながら、イラージュは呆然と女を見ていた。
――間違いない。あの女だ。
女が視線に気づいたのか顔を向けてきた。
イラージュと目が合った瞬間にその顔に歪んだ笑みが浮かんだ。
--こ・ん・ど・は・な・に・を・こ・ろ・し・た……?
女の唇がそう動いた――動いたような気がした。
その瞬間、すべての物音が消えた。
――なんだこれ。また幻なのか……?
イラージュは呆然とした。
賑やかな陣営の光景に重なって別の光景が見える。
柱廊だ。
入日に照らされた広い柱廊に二つの人の背中がある。
遠くに立つ一方は肩に波打つ栗色の髪を垂らしている。
手前の一方は背の高い黒髪の男だ。
俯いて肩を震わせている。
泣いているようだ――と、思ったとき、
――なぜ貴方が……
耳元で風が震えるような声が聞こえた。
――なぜ貴方が、今になって王を名乗られるのです……
声は黒髪の男のものだった。
イラージュのよく知る声だ。
すると、前方の栗毛の持ち主が振り返った。
口元に笑みを浮かべた美しい貌だ。
ガラス玉のように明るい琥珀色の眸が赫々と輝いている。
――なんだタフムーラス、私では王に不足か?
耳になじんだ懐かしい声が嗤いながら云う。
--どうも皆忘れているようだが、私も一応王子ではあるのだぞ? いろいろ難点は抱えているが、少なくとも王の子でだけはある――……
「……王子殿下?」
訝しそうなテディウスの声に呼ばれて、イラージュはわれに返った。
ボサボサとした栗毛の男が困った犬みたいな顔で首をかしげている。「真水、そんなにどうにもなりませんか?」
「いや」と、イラージュは殆ど何も考えられないまま応じた。「どうにかなるだろ、人が戻りゃ。そのうちまた湧き出す」
「そう右から左に湧くものですかね? ああ、本当に心底フェリドさまが早いところお着きになるといいですねえ」
栗毛の男は心から慕わしそうに言った。
イラージュはまだ呆然としていた。
――何だったんだ今のは? 女神の託宣なのか?
まさか、あれが未来に起こる情景なのだろうか?
フェリドゥーンが王を名乗り、タフムーラスがその前に跪く?
ありえない、とイラージュは自分に言い聞かせた。
そんな未来はありえない。
太陽が東へ沈むほどありえない未来だ。
第三月十六日、短い流浪の後に都へと帰還した王子イラージュは、軍装を解くとまず、西王宮の後庭に所在する母祖女神アナーヒターの祭壇を詣でた。そこでは僭王サルムが自らの罪を悔いて自害していた。王子イラージュは異母兄の死に涕し、聖都ザーラーから遣わされていた光明神ミスラの祭司に命じてスラ・ダリヤー北岸の野で躯を火葬させた。
『ヒベリアスの書』巻一より




