第六章 落暉 2
門衛の宦官たちは怖じ怯えながらも、「マヌシュチフルの行方は知らない」と明言した。
無性に何かを打ち壊してやりたい衝動を堪えて噴水の中庭まで戻ると、尾根越え以来の《朋友隊》たちが顔をそろえていた。みな妙に疲れた面持ちで手や顔を洗っている。
背の高い彼らに交じって、祭司じみた白麻の長衣姿の小柄な男がいた。
カシュタリティである。
服を着替え、黄金色に輝く《王環》と《王剣》を手にしている。
イラージュを見とめるなり、彼は眉をあげて訊ねた。
「先の宰相は見つかりましたか?」
「いや」
「すると、やはり女神の聖域でしょうかね?」
「かもな」
イラージュはつまらなげに答えた。「いいさ、もうどうでも。ビルマーヤはあのまま薔薇苑に置いておく。どうするかは後で考える。マヌシュチフルは、別にそうすぐ見つけなくてもいいだろ?」
「マヌシュチフル自体はね。しかし、官吏を動かすための印璽は見つけませんと」
「印璽ならあるぞ?」
何の気なしに答えるなり、常に飄々としているカシュタリティの顔に珍しくも驚愕の表情が浮かんだ。
イラージュは少しばかり得意な気分になった。
「ビルマーヤ姫がお預かりに?」
「いや、財務官の爺さんが預かっていたらしい。俺の未来の宰相にくれぐれもと託された。――ああ、そうだ。南岸の歩兵の報酬は、馬は売らずにどうにかするそうだ。お前には吉報だろ、元・騎兵隊長?」
「それはもう。実に全く」
カシュタリティは日ごろの闊達な弁舌を失ったまま応えた。体を拭きながら耳をそばだてていた周りの《朋友隊》たちが得意そうにニヤニヤする。
「で、その印璽は、今は一体どちらに?」
「パルメニオンに預けてある。邪魔だったからな」
「……――王子殿下」
カシュタリティがこの上もなく真剣な表情で呼んだ。「そういった品はあまり気安く余人にお預けになりませんように。取ってきなさい、すぐ! そして決して肌身離さずご自分で持っていなさい!」
「あ、ああ」イラージュはやや愕きながら応えた。「はい。そうします」
王子たちに最初に読み書きを教える平祭司みたいな熱心さで、
「いいですか殿下、印璽というのはとても大事なものなのですからね? 宰相よりはるかに大事なものなのですからね? あなたの未来の宰相殿下の繊手にお託しになるまで、必ずご自分で持っているのですよ?」
と、念を押してから、カシュタリティは何やら慌ただしく北岸へ戻っていた。
イラージュは十数名の《朋友隊》を伴って南岸へと向かった。
東西の中州島をつなぐ屋根付きの橋を渡って王宮の南門へ至ると、門前をアマノス以来の――しかし、尾根越えには加わっていない――《朋友隊》の面々が護っていた。
イラージュの姿を見とめて、一人が戸惑いぎみに言う。「殿下、市街へお出ましになるので?」
「急用だ。南岸の陣に戻る」
「それはまだ難しいのではないかと」
「なんでだよ」
「出たら囲まれちまいますって。今は少し静かになっていますが――さっきまで大層な大騒ぎでしたから。ご覧ください、この橋の下。まるで血の海でしょう?」
「血の海?」
イラージュはぎょっとして見た。
門前の橋の下の川面が赤黒く染まっている。
血の色――ではない。
花弁である。
紅薔薇と柘榴。
天人花。
季節外れのアネモネ。
微妙に色合いの異なる様々な赤い花弁が、流れの遅い川面を覆い尽くしている。
その上を入日が照らしていた。
「いやもう大した大歓迎でした! 誰もかれもが女神の子の御帰還を祝って花を投げてきましてね」
「そうなると、今出たらもみくちゃにされちまうんじゃないですかね?」と、イラージュとよく似た赤い短マント姿のカンブージャが心配そうに言い、はたと気が付いたように言った。「そうだ王子殿下、そのマントをお外しになったら?」
「あ、そりゃいい!」と、《朋友隊》たちが賛同する。「マントをお外しになれば、きっとみなカンブージャのほうを殿下だと思いますよ」
「こいつを俺だと?」イラージュはあきれ果てた。「全然似ていないだろうが」
黙っていれば鋭利で冷たげな美貌のイラージュに対して、カンブージャは造作すべてが大ぶりな陽性の美男子だ。
どちらもよく整っているという一点を除いて殆ど何の類似点もないというのに、いざ市街へ出てみると、街人たちはよく目立つ赤マントを外したイラージュには目もくれず、真紅のマントのカンブージャに向けて、
「女神の子よ! 女神の子よ!」
と、叫びながら殺到した。
憐れなカンブージャを生贄に捧げて南岸へと急ぎながら、イラージュは何とも釈然としない気分だった。
――俺の特徴は赤マントだけかよ?




