第六章 落暉 1
小面憎いカシュタリティに釘を刺された通り、中庭へ出たイラージュはまず噴水池で顔と手の血を洗い流した。
青銅製の翼ある獅子の口から噴き出す水は勢いがなく生ぬるかった。返り血の飛び散ったチュニックの上に、血の色の殆ど目立たない真紅の短マントを重ねてから、人気のない中庭をよぎって左側のアーチ門へと向かう。
門の先の、左右を窓ひとつない滑らかな石壁に阻まれた谷底のような路の突き当りに六つの黒い鋲を打った木製の大扉があって、上に張り出した歩廊を武装した宦官たちが護っている。
「――サルム陛下か! それ以上はお進みになるな!」
遠目にイラージュを見とめた宦官たちが弓に矢をつがえながら叫ぶ。
去勢者にしては大した度胸だ。イラージュは愉快になった。
「案じるな! よく見ろ! 俺だ! イラージュだ!」
途端に門衛の宦官たちは恐怖とも歓喜ともつかない叫びをあげ、
「しばしお待ちあれ!」
と、言い置いて奥へと引っ込んでいった。
待つほどもなく内側から扉が開かれる。
扉の向こうは薔薇苑だった。
そこにもかしこにも色とりどりの薔薇が植わって馥郁たる薫りを放っている。
後庭で最も豪華なこの苑を囲んで、王の正后や王太后の住まう格式の高い館が並んでいる。
その苑の左手、王の正后の住まう館の柱廊に、赤や翠の鮮やかな絹の衣の裾を花びらのように広げた女たちが一列に並んでひれ伏していた。
「王子殿下。お待ちしておりました」
真ん中の女がひれ伏したまま言った。
色物の衣をまとった女たちのなかで、たった独り、雪のように真っ白な羅で装った女だ。
ひときわ艶やかな黒髪を簡素に結い上げ、耳朶にも額にも飾りひとつつけていない。
イラージュは戸惑った。
「……ビルマーヤ?」
心もとなく呼ぶなり、女が顔をあげた。
滑らかな蜂蜜色の膚をした卵型の顔だ。
先の尖った小さな鼻とふくよかな赤い唇。
くっきりと大きな黒い目を反りのある濃い睫が縁取っている。
イラージュの顔を見あげるなり、その睫が微かに震えた。
「ええ、ええ殿下。わたくしでございます……!」
女は――マヌシュチフルの娘ビルマーヤは、堪えかねたように叫ぶなり、立ち上がって正面からイラージュに抱きついてきた。
途端、甘く爽やかなジャスミンの薫りが全身を包んだ。
「ご無事ですよね? ご無事ですよね? どこもお怪我などありませんよね?」
震える声で繰り返しながら、小さな手で背中を撫でまわしてくる。
イラージュは嬉しくなった。
「なんだ、そんなに案じていたのか?」
「当たり前です!」ビルマーヤは殆ど怒ったように叫ぶと、小さな頭をイラージュの胸板に擦りつけてきた。「この二年間ずっと――夜も昼もずっと心配し通しでした! お帰りなさいませ殿下! わたくしの大事な殿下!」
ビルマーヤが泣き笑いのように叫びながら軟らかな躰を押し付けてくる。
イラージュはすっかり嬉しくなって、心臓の上に押し付けられた小さい黒い後頭部を撫でてやった。
滑らかな冷たい髪だった。
いつものように丹念に梳られている。
――いつものように……?
その瞬間、イラージュははたと違和感に気付いた。
ビルマーヤはまるで全く身なりに頓着していないような服装をしている。
しかし、今腕の中にいる体からは爽やかなジャスミンの薫りがする。
――ロクサーネは汗の臭いがした。俺の無事を喜んで泣きながら走ってきたあの娘は、赤い髪を干し草みたいにボサボサにしていた。
イラージュは思わず目の前のビルマーヤの両肩を掴んで自分から引き離していた。
「――王子殿下?」
ビルマーヤが戸惑ったように呼ぶ。
その膚は滑らかで産毛一本なかった。
艶やかな黒髪には乱れひとつなく櫛目が入っている。
甘く立ち昇るジャスミンの薫りは膚からくゆるものだ。
――この女どもは髪を梳いていたのか?
湯あみをして体に香油をぬっていたのか? 今しがたまでずっと? 締め出されたサルムが祭殿で震えているときにも?
そう思いついた瞬間、イラージュは全身に冷たい水を浴びせかけられたような気分になった。
表情の変化を察したのか、ビルマーヤが怯えたように言った。
「……あの、やはりお怒りですの?」
「いや」
イラージュは醒めきった声で応えた。
途端にビルマーヤがうつむく。
「いいえ、分かっております。お怒りは当然です」
「そう思うのか?」
「思いますとも! わたくしにはどうしようもない運命だったとはいえーー心底愛する御方が国を追放されて、愛してもいない簒奪者の妻とされたのですもの。それは辛うございました。この二年間、夜も昼もずっと」
「そいつは気の毒だったな」と、イラージュは醒めたまま答えた。「だがまあ、運命だっていうなら仕方ないだろ。お前の夫は俺が殺した。悪かった。謝る。先王の寡婦としての財産は保証するから、お前は好きにすりゃいい」
「――殿下、本気で仰せですの?」
ビルマーヤが震える声で言った。
顔を伏せて肩を震わせている。
「ああ」
イラージュは何だか面倒になって踵を返した。マヌシュチフルの居所は、実にしっかりしていそうなあの門衛の宦官たちにでも訊けばいいだろう。
途端、背に軟らかな二本の腕が絡みついてきた。
「こんなにもお慕いしておりますのに――」
「そうかよ。ならお前の父親の居所を教えろ」
訊ねるなり、ビルマーヤの両腕がびくりと強張るのが分かった。
イラージュは彼女の腕を乱暴にほどきながら振り返った。
「ここにいるのか?」
「――おりませんわ」と、ビルマーヤが掠れた声で応える。「知りませんの。本当に。わたくしは父にも棄てられた憐れな身なのですわ。頼れるのはもう王子殿下だけ――」
と、またしてもしがみつこうとしてくる。
イラージュはうんざりしてきた。
「分かった、分かった、気の毒だったな! 今まで通り贅沢に暮らせるだけの財産は保証してやるから安心しろ。いたいなら好きなだけここにいたっていい。先王の寡婦としてきちんと敬ってやるから」
雑駁に言い置いてまた踵を返したとき、
「――無情なことを仰る」
ビルマーヤがぽつりと言った。
低く疲れ果てたような声だった。
イラージュはぎょっとした。
その声があの忘れがたい夜の獣と――半ば狂ったような黒い眸を爛々と輝かせるあの《山の民》の女とひどくよく似て思われたのだ。
「俺の、何が無情だと?」
「何もかもです。――貴方がたはいつも忘れていらっしゃる。わたくしにも心はあるのですよ? それなのに手から手にやりとりなさる。必要になれば拾い上げ、不要になればお片付けになる。父もそうです。あなたもそうです。……――ときおり、たまらなく憎くなります」
「なら憎めばいい」
イラージュはどうにかそれだけ言い返すと、ことさらに高い足音をたててきた道を戻りにかかった。
馥郁たる薫りを放つ紅薔薇のアーチの下を抜けようとしたとき、背の後ろから鋭く激しい叫び声を浴びせられた。
「わたくしに何を憎めと? 何を憎めというのです!?」
--そんなもの、俺に決まっているだろう!
イラージュは心の中でだけ叫び返した。
――あの女は俺を憎んでいる。
--王子だろうが女神の子だろうが関係なく、むき出しの俺だけを憎んでいる。




