第五章 生贄の王 4
邪魔になる印璽の包みをパルメニオンに預けて南岸の陣へ向かうようにと命じてから、イラージュは十数名の《朋友隊》だけを伴って西側の中州島へと続く屋根付きの橋を渡った。
西宮は女たちの住まう後庭である。
独り王のためだけに設けられた路が西壁のアーチ門までまっすぐに伸びている。
両側に身分低い王の妾や女官たちの住まう内庭付きの部屋が並んでいるはずのその路は思いがけないほど静かだった。壁の向こうで女たちが息を潜めているのだろう。
後庭には本来ならば王族の子供たちも住んでいるはずだが、先王アーラシュ二世には子が少なかったし、先々王の子供たちは――片足のフェリドゥーンと碧い眸のアーブディーンを除いて―――全員が殺し尽くされている。
いつのころからか、同族殺しがアルドヴィ・スーラーの王家の不文律となっている。
歴代の王たちは玉座に着くとまず同母の兄弟を殺し、叔父や異母兄弟や従兄たちさえ処刑してきた。
そうして刻々と自らを弱らせてきたのだ。
路の突き当りのアーチ門を抜けると、その先は真ん中に円い噴水池のある石畳の中庭だった。
翼ある獅子を象った青銅の像の口から細く白い水が噴き出して午後の陽に燦めいている。
七歳までこの後庭で育ったイラージュは、この場所がどこであるのかをよく知っていた。
「入るぞ。向かい側が祭殿だ」
「--はい、王子殿下」
《朋友隊》たちがひそめた声で答える。
窓のない祭殿の内部は薄暗かった。
松脂じみた煙の匂いに混じって微かな腐臭が漂っている。
腐った水の臭いだ。
赤く塗られた木製の柱がずらりと並ぶあいだを抜けると、すぐ先に一対の燈火が見えた。
松脂の臭いの源だ。
燈のあいだに白い神像がある。
透き通る石英の巨塊を刻んだ母祖女神アナーヒターの像だ。
人の背よりもはるかに高い位置から、眸をもたない赤瑪瑙の両眼が祭壇を見下ろしている。
白い麻布をかけた黒い石の祭壇である。
左右の大きな青い陶器の壺に天人花の枝が活けられ、赤いガラスの器に一対の燈火が灯っている。
その燈のあいだに背中があった。
一面に金糸で蔓草文様を刺繍した青い衣をまとった背だ。
異母兄のサルムである。
女神像の前で平伏している。
イラージュは怒りを感じた。
――こいつは祈っているのか? ずうずうしくもこの俺の母に?
腐った水の臭いの源は天人花の花瓶のようだった。
イラージュは小鼻の脇に皴をよせながら大股に歩み寄った。
「久しぶりだなサルム。マヌシュチフルはどこだ?」
途端、異母兄がビクリと顔をあげた。
額に黄金の《王環》を飾り、青い衣の襟元を、王家の象徴である翼持つ獅子を象った黄金細工のブローチで留め、腰帯には黄金の鞘にルビーと真珠とサファイヤをちりばめた豪奢な《王剣》を佩いているのに、その怯え切った顔は全く王のようには見えなかった。
「……おぬしは、死んだものと」
サルムが震える声で言った。
イラージュは鼻を鳴らした。
「生憎とこの通り生きている。もう一度訊く。マヌシュチフルはどこだ? 死すべき定めの人の子の分際で女神の託宣を騙ったあの恥知らずは?」
口にするうちに忘れかけていた怒りが蘇ってきた。
そもそもすべてがあの偽の託宣のせい――罪もない《山の民》を皆殺しにする羽目になったのも、みなやつらのせいなのだ。
怯え慄くサルムの襟首をつかみ上げてもう一度訪ねようとしたとき、
「……か、騙ってなどおらんわ……っ!」
サルムが後ろ手で祭壇の縁に縋りつきながら叫んだ。
「巫女も宰相も何も騙ってなどおらん! 私を継嗣に望んだのは陛下だ!」
「あの男が? バカバカしい。すぐばれる嘘をつくなよ」
「嘘なものか! 知らんのはお前だけよ!」
サルムが堰を切ったように叫んだ。「陛下はお前を嫌っていた! 心底から嫌い抜いていたのだ!」
途端、イラージュの顔色が変わった。
「――なぜあの男が俺を嫌う!」イラージュは噛みつくように怒鳴り返した。「ばかばかしい嘘をつくなよ! どうしてこの俺が嫌われるんだ! 俺は女神の子だぞ!?」
そう叫ぶイラージュの声音は悪夢に怯えて跳ね起きた七つの子供のようだった。
サルムの貌に歪んだ笑みが浮かぶ。
「分からないのか? 理由など決まっているだろう」
彼は満面の笑みを浮かべ、蒼褪めて震えるイラージュの美しい貌を見あげた。
「お前のその傲慢さだ! お前は陛下を侮蔑していた! 己以外の人すべてを侮蔑している! 嫌われて当然だ!」
「――黙れ」
イラージュは低く押し殺した声で応えた。
左右の花瓶から立ち上る水の腐臭が息苦しかった。
彼は震え慄く唇をどうにか閉じると、左手でサルムの胸倉をつかんで祭壇に押し倒した。
「--王子殿下?」
背後で《朋友隊》の誰かが心配そうに呼ぶ。「身内殺しは厳禁だと、フェリドさまから確か」
「なんだ」と、押し倒された姿勢のままサルムがにやりと笑う。「お前も駒なのか?」
「――黙れええええ!」
イラージュは絶叫するなり、新月刀を振り上げてサルムの胸へと突き立てた。
刃を引き抜くと血が噴き出した。
新鮮な生き血の匂いは潮の匂いと似ていた。
その匂いを感じるなり、イラージュは心の底から熱い怒りが湧きあがってくるのを感じた。
歓びのように激しい怒りだ。
すべてを忘れさせてくれる。
イラージュは何かにとりつかれたようにもう一度刀を振り下ろした。
刃を抜くとビチャっと赤い血がしぶく。
さっきよりは量が少ない。
――もっとだ。もっと沢山噴き出せ。
血まみれの両手で柄を握って新月刀を高々と振り上げたとき、
「そのあたりでおやめなさいって。水清きアナーヒターのお子は慈悲深さが売りでしょう?」
背の後ろから呆れたような声が響き、小さいが強い手で右の上腕を掴まれた。
イラージュは舌打ちをした。
「放せよカシュタリティ」
「武具を御収めになるとお約束なさるなら」
「放さなけりゃ収められないだろうが!」
イラージュは怒鳴りながら武具を下ろした。
同時に右腕も放される。
振り返れば背後に思った通りの人物がいた。
小柄ながら鍛え抜かれていると一目で分かる体躯を黒いチュニックとズボンに包んだ先王の――今やもう先々王の騎兵隊長。《神官の一族》のカシュタリティだ。
「お捜しいたしましたよ。お気の毒なサルム殿下はこの通りとして、マヌシュチフルは見つかりましたか?」
「まだだ。お前のほうでも捜せ」
イラージュは醒めきった声で言いながら、その場のすべてに興味を失ったかのように、サルムの躯のもたれかかる祭壇に背を向けた。
「どちらへ行かれるので?」
「薔薇苑だ。ビルマーヤの無事を確かめる」
「ああなるほど。父は娘のもとにいる――可能性もありますからね。お手とお顔はよくよく洗っていかれますように」
「俺に命令するな。供はいらん。その死体をどうにかしておけ」
イラージュは振り返らずに答えて祭殿を後にした。




