第一章 半神 2
「は、はい王子殿下、ただいま!」
間髪入れずに背後から焦り気味の若い声が応え、待つほどもなく、赤毛の大男が羊の胃の水袋を手にして一目散に駆け戻ってきた。
「王子殿下、御所望の水です!」
「煩い。いちいち喚くな」
王子は不機嫌に答えながら受け取ると、湿ったコルク栓を外して一息に飲んだ。
生ぬるい水だった。
血のような脂のような臭いがする。
「おい、臭いぞこの水。血なまぐさい味がする」
イラージュが唇を尖らせながら水袋を突き返すなり、赤毛のパルメニオンは碧い目をわずかに見張り、目を伏せて小声で囁いた。
「いえ、それは水の味ではなく――」
パルメニオンがそこまで言ったところで、掌で口元を抑えてぐっと喉を鳴らした。
「ここの空気の臭いです。この野営地の」
パルメニオンの応えには悲痛な響きがあった。
イラージュは眉をあげた。
「何だよ。何か言いたそうだな?」
「いえ、その――」
パルメニオンは言葉に詰まってから、覚悟を決めたようにイラージュを見あげ、眉根を寄せて今にも泣きだしそうな顔で訊ねてきた。
「ここまでする必要があったのでしょうか? いくら王命とはいえ、ただ天幕に隠れていただけの女や子供や年寄りまで、皆殺しにする必要が……」
「――必要はあったさ。当然な」と、イラージュは刺々しく吐き捨てた。「われらが母祖たる水清きアナーヒターが、《山の民》を根絶やしにしろと命じた以上はな」
彼はそこで言葉を切り、密な睫に縁取られた黒い眸でまっすぐに大男を見あげた。
「それより間違えるな。王命じゃない。女神の命だ。俺にものを命じられるのは不死なる方々だけだ」
若い王子はゆるぎない半神の誇りをもって告げた。
彼は心の底から信じていたのだ。
アナーヒター女神の化身たる巫女と死すべき人の王とのあいだの聖婚儀礼によって生まれた自らは、まぎれもなく女神の子だと。
アルドヴィ・スーラーにおいて母祖女神アナーヒターの巫女の権威は極めて高い。
王侯貴族や上層階級であるペルシア系の住民はもちろん、人口の七割を占める平民階級たるギリシア系住民も、彼らの言葉で「アルテミス」と呼んで同じ女神を崇敬している。
イラージュの母はその母祖女神の巫女であり、父は国王である。
九年に一度、アルドヴィ・スーラーの国王はアナーヒターの聖域を訪れ、母祖女神の化身である巫女に妻問いをする。
妻問い――といったところで、王族から選ばれる巫女と国王には近い血縁関係がある場合が殆どだし、年齢も離れている場合が多いため、この聖婚儀礼はあくまでも形式的なものだ。
しかし、イラージュの両親は十八年前実際に寝床を共にしたらしく、結果として、奇跡のような「半神」の誕生となったのだった。
ペルシア系の住民はイラージュを「アナーヒターの子」と、ギリシア系の住民は「アルテミスの子」と呼ぶ。
彼は半神だった。
不死なる女神の血を引く者だと、数多い信徒たちから本当に信じられていた。
その若き半神がなぜ辺境の山中で少数民族の野営地を殲滅しているのか?
ことの発端は三か月前、九年に一度の聖婚儀礼から戻ってきた国王アーラシュ二世が伝えた「女神の託宣」だった。
国王は聖域から帰還するとすぐ、王宮の謁見の間に群臣を集め、玉座の前にイラージュとサルムの二人の王子を並べて告げた。
「聞け息子たちよ。聖域の巫女が託宣を受けた。カフカス南部に住まう《山の民》の族長が、われらアルドヴィ・スーラーの王家に叛意を抱いているそうだ。宰相に調べさせたところ、そやつらは不敬にもわれらと同じ《翼持つ獅子》を紋章として使っているのだそうだ。――そうだなマヌシュチフル?」
国王が頼り切った声音で訊ねると、深い朱赤の絹のチュニックをまとった大柄な宰相マヌシュチフルが、
「然様」
と、重々しく頷き、玉座の前に並んだ二人の王子へと探るような視線を寄越した。
「故にの――」と、国王が宰相の反応に勇気づけられたように続けた。「イラージュ、愛しいわが息子よ。そなたに討伐を頼みたいのだ」
国王はそう言って、いつものあの苛立たしい視線をイラージュに向けてきた。
おもねるような、怯えるような、そのくせどこか蔑むような上目遣いの視線だ。
イラージュはその目に見られるたびに激しい苛立ちにかられた。
いとしい我が息子よ――と、口癖のように呼びながら、父王の目からはいつだって一片の愛情も感じられなかった。
あの老いぼれは俺を嫉んでいるのだ――と、若い王子は理解していた。
老いた醜い死すべき人が、この輝かしい女神の子を!
あの男は俺を嫉んでいるのだ。
だから愛してくれないのだと。
「――いいぜ、引き受けてやるよ」
気がつけば、イラージュはそう答えていた。
なぜそんなつまらない初陣を引き受けてしまったのかは、イラージュ自身にもよくは分からなかった。
ただ、父王が頼むと言うからには引き受けてやりたかった。
そして、女神の子たる息子の力を見せつけてやりたかったのだ。