表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
19/43

第五章 生贄の王 2

 翌日ようやく訪れた光明神の祭日、空には雲が出ていた。


 薄く淡く重なりあう銀灰色の雲である。

 薄いが空一面を覆ってしまっているため、陽の位置がよく分からない。


「参ったな! このまま雨でも降っちまったら正午がいつだが分からないぞ?」と、赤毛のパルメニオンが馬の支度をしながら嘆く。

「昼までに雲が動くとくといいんだが――」と、ペルシア系の同輩も眉をよせて空を仰ぐ。「こればっかりは計算違いかな? 神より聡きわれらがフェリドさまも、やはり死すべきものであらせられたか」

「この時期には珍しい天気だからな!」と、テディウスも肩を竦める。「御知らせしたら激怒なさるぜ。光明神は何をやっていやがるって」

「ああ、いかにも思い浮かぶな!」

 二年の流浪の苦労を分かち合った《朋友隊(ヘタイロイ)》たちは、ペルシア系もギリシア系も関係なく気さくに笑いあった。


 彼らはもともと女神の子の忠実な崇拝者だったが、この頃は《女神の息子たち》をまとめて愛しているのだった。今ここにいない一方に対しては、とりわけ気安い親しみを抱いている。

 美と醜の奇妙に入り混じった王と奴隷のあいだの子は、その外見の特異さに馴れさえすれば、だれにとっても親しみやすい身近な存在だった。一方、完璧なペルシア系の美貌を備えた女神アナーヒターの子は、どれほど人間らしく感じようと、やはりどこか仰ぎ見る対象だった。

 イラージュは欠けなさ過ぎた。

 人よりは青銅(ブロンズ)の神像と似ていた。




 ……――その日、煌びやかに装った《朋友隊(ヘタイロイ)》に囲まれて六〇〇〇を超える歩兵部隊の先頭に立ちながら、イラージュは自分がたった独りで存在しているような気がしていた。


 背の後ろから響く兵たちの歓呼が、自分とは何の関係もない遠いどこかで響いているように聞こえた。


 女神の子よ!

 女神の子よ!


 市門の前の水堀すれすれまで進んだ先鋒の歩兵部隊が丸い盾を並べていた。

 彼らの上に頭上の壁の狭間から弓が降る。

 市門の扉は閉ざされていた。

 八つの黒い鉄の鋲を打った重たげな木製の扉だ。

 扉の前に橋があり、その前に敵兵が並んでいる。


 それらすべての光景が、灰色の曇り空の下で、妙に白々と色褪せてみえた。


「――王子殿下、そろそろ正午では?」

 右後ろからタフムーラスがひそめた声で言う。

「そうか?」

 心もとなくなって空を仰ごうとしたとき、イラージュは眩暈を感じた。

 脳髄がふっとしびれるような一瞬の目眩が去ったあとで、イラージュは自分の目を疑った。



 ――何だこれ。幻か?



 それは幻影(まぼろし)――としか言いようのない光景だった。


 水に映った影を透かして水底の小石が見えるように、目に映る現実の光景を透かして、揺らぎがちな何かがしだいに見え始める。

 目の前に現にある市門の扉は閉ざされている。

 だが、その門扉に重なって、幻の扉が開いていた。

 内側からゆっくりと――

 そして、ついに開いた幻の門の向こうから幻の人影が進み出てきた。


 

 --王だ。



 イラージュはそう思った。


 幻の人影はイラージュと同じ真紅の短マントを羽織り、髪をさばき、頭には輝く《王環》を被り、柄頭が獅子を象る黄金製の《王剣》を手にしていた。

 幻の王は、《王剣》を杖にして、重たげに足を引きずりながら、よろよろと橋を渡り始めた。

 まるで死の床からようやくに起き上がってきた病人のような歩みだ。

 見ていると粗い息遣いまで聞こえてくるようだ。

 幻の王は橋の真ん中で一度転んだ。

 頭から輝く《王環》が落ちると、意外に機敏な動きで拾い上げて被る。

 そしてまた歩き始めた。


 イラージュは今すぐ馬を降りて手を貸してやりたくなった。

 そのとき、



 ――蛮族どもよ、弓をおろせ! 私がこの国の王だ! 



 高らかな男の声が響いた。

 間違いなくよく知る声だった。

 幻の王が這いずるように馬の前まで進んでくる。

 すぐ目の前で片膝を折って跪く。

 そして顔をあげた。

 懐かしい顔だった。

 自分自身と同じほどよく知っている顔だ。


 幻の王がやがて口を開いた。



 ――私の都を踏み荒らすな。

 ――私の街の人を殺すな。

 --私の宮の女らを穢すな。

 ――代わりにこの首をとれ。



 言葉とともに幻の王が頭を垂れた。

 生贄の王だ――と、イラージュは思った。

 幼いころ、年寄の乳母から聞かされた怖ろしい昔話に出てくる王だ。

 遠い昔、旱や大水があった年の末に、大地の甦りを願って、女神アナーヒターの祭壇に捧げられた若い王たちだ。

 イラージュはその尊い存在に敬意を表するつもりで新月刀(シャムシール)を引き抜いた。 


 そのときだった。


 不意に天頂で雲が分かれて、真南から一筋の光が射した。

 背後の《朋友隊》たちが低くざわめく。


 イラージュはわれに返った。

「正午……か?」

 幻はもう消えていた。


 肩越しに南を振り仰ごうとしたとき、頭上からリン、と微かな鈴の音が響いた。

 陽とは逆の向きだ。

 ハッとして仰ぐと、川向うから小さな白っぽい鳥影が矢のようにまっすぐにこちらへ飛翔してくるのが見えた。


「――《(バルフ)》……!」


 タフムーラスが堪えかねたような声をあげる。「王子殿下、《雪》です! カシュタリティ猊下の鳥です!」

「分かっている! 奴がもう対岸に来ているってことだろう!」


 つまり正午だ。

 時間通りだ。

 何もかもフェリドの言った通りに進んでいる!


 イラージュはすべての鬱屈を払い捨てて、白い歯を見せて笑いながら背後を振り返った。

「みな進め! 門扉を破れ! だが俺の都を踏み荒らすな!」

 イラージュは剣を天へと掲げたまま馬の向きを変えながら続けた。「街人を殺すな! 女らを穢すな! 捕るのは反逆者の首だけでいい!」

 若く輝かしい女神の子の高らかな声が響くなり、向かい合う敵陣からさえ歓呼の声があがった。

 白刃が一斉に引き抜かれ、歩兵部隊が総攻撃の態勢に入る。

 ――同じころ、警備の手薄な北岸の橋を、先王の騎兵隊長カシュタリティ率いる三〇〇の騎兵隊がやすやすと破ろうとしていた。


 南岸の大勢は見せるだけの囮だ。

 真打は北にいるのだ。

 己はただ存在するだけで価値がある――と、心の底から信じている誇り高き女神の子は、自らを囮とすることにべつだん否やはなかった。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ