第四章 帰還 6
無口で小柄で風変わりな女薬師を伴ってずらっと並んだ傭兵たちの天幕のひとつへ戻ると、むくつけき男どもの何人かが泣きそうな顔で駆け寄ってきた。
『パルメニオン様! テディウス様! 治療者は見つかりましたか!』
『おう』と、はったりの得意なテディウスが胸を張る。『見ろ。こちらの女薬師どのはアケメネス朝の昔から賢き男神アフラ・マズダーの聖なる燈を護る聖都ザーラーで修行をつまれた《神官の一族》のお一人でな。お若く見えるが腕は確かだ。安心して任せるといい』
途端、傭兵たちがどっと歓びの声をあげ、小さい女薬師を丁重に幕屋へと迎え入れた。
『――おいテディウス』
女薬師の姿が幕屋の内へ消えたあとで、パルメニオンが同輩の脇腹を肘でつついた。
『あの薬師どの、本当に《神官の一族》なのか?』
『知らんよ』と、栗毛の男は肩を竦めた。『しかし、あの見た目で治療の技があるとなったら、女神の聖域の斎女でなけりゃザーラーの一族だろ?』
そこまで口にしたところで、二名のあいだに沈黙が落ちた。
女神の聖域――という言葉は、この頃の《朋友隊》のあいだでは一種の禁忌のようになっていた。
イラージュの流浪の遠因となった二年前の《女神の託宣》は、イラージュを陥れるための虚偽だったのだろうと、少なくともイラージュ方の面々は皆そう考えているためである。
『……それじゃテディウス、俺はひとっ走り王子殿下の天幕に行って治療代をいただいてくるよ』
赤毛のパルメニオンが気まずさに耐えかねたように駆け去ってすぐ、傭兵の天幕の垂れ幕が開いて、両手を赤く地に染めた女薬師が出てきた。
『なんだ、随分早いな!』
『すぐに死んじまったもんで』と、女薬師のために後ろから幕を開いていた大柄な黒ひげの傭兵がしょんぼりした声で言い、慌てたように付け加えた。『薬師どのが芥子の汁を飲ませてくれたおかげで苦しまずに死にましたよ』
『そうか』
テディウスはそれだけ応え、ぎこちない笑顔を拵えて女薬師をみやった。
「ありがとうございます。助かりました。すぐに治療代が来ますから」
「薬代だけでいい」
女薬師はそっけなくいい、天幕の入り口の傍に据えられた水がめの柄杓をとると、水を掬って血と脳漿に汚れた手を洗い始めた。
そうしながら呟くように言う。
「なあ《朋友隊》―-」
「テディウスといいます」
「ならテディウス、ひとつ教えてくれ」
「何をでしょう?」
「お前たちの仕える王子は女神アナーヒターの息子なのだろう? なら、なぜその女神の聖域が息子と敵対するんだ?」
「それは――」
テディウスが応えに詰まったとき、背後から沈んだ声が答えた。
「巫女が神託を騙ったからだよ」
振り返れば、赤毛のパルメニオンが金銭の入っているらしい小さな革袋を手にしてすぐ後ろに立っていた。
女薬師がくっきりした眉をよせる。
「騙った? どういうことだ」
「言葉通りの意味さ。二年前に、巫女が神託だと嘘をついて国王陛下を唆したんだ。《山の民》が謀叛を企んでいるって。それで」
「それで?」
「それで――……それで、国王陛下が命じられたんだ。《山の民》を根絶やしにしろって」
「――お前たちの王子に?」
「ああ」
「殺したのか」と、女薬師が鋭く訊ねた。「お前も殺したのか?」
途端に張りつめた沈黙が落ちた。
パルメニオンがうつむいて自分のつま先を見ている。
やがて彼は分厚い肩を震わせてむせび泣き始めた。
襲撃には参加せず都に残っていたテディウスが、見かねたように腕を伸ばして、大柄な同輩の肩を抱きよせながら言った。
「お言葉通りこいつは殺した。俺はたまたまそこにいなかったが、いたら当然こいつらと同じことをしたはずだ。――だがな薬師どの、あれはみんな女神の巫女と宰相の企みだったんだ。偽の神託で王子殿下を都から追い払った隙に、お気の毒な国王陛下を誅殺して、巫女や宰相の言いなりになる操り人形みたいな僭王サルムを王位につけたんだよ」
「――つまり、お前たちの王子は実の母に謀られたということか?」
「母じゃないさ!」と、パルメニオンが泣き声交じりに言い返す。「王子殿下の仰せのとおり、死すべき人間の女なんか殿下の母じゃない。あの方の御母は不死なるアナーヒターだ!」
パルメニオンは何かへの怒りに耐えかねたように怒鳴ると、右腕でグイッと乱暴に目元を拭ってから、握っていた革の小袋を薬師に差し出した。
この頃イラージュの印のようになっている貝で染めた鮮やかな真紅の紐で口が綴じてある。
「治療費だ。足りなければ《朋友隊》の十番目の天幕に来い」
それだけ言い置いてつかつかと歩み去ってしまう。
「――悪いな薬師どの」
同輩の背を見送りながらテディウスが頭を掻いた。「あいつも色々辛いんだよ。神託が嘘だってことになったら、《山の民》殺しは単なる皆殺しだからな」
「……それは分かっているのか?」
「当たり前だろう! 二年前に《山の民》襲撃に加わった奴らは今でもよく悪夢を見ているよ。もしあいつらがよく眠れる薬があったら処方してくれよ」
テディウスが沈んだ声で話すあいだ、女薬師は無言だった。
そのうちにふいっと目を逸らして踵を返してしまう。
栗毛の《朋友》は慌てた。「あ、おい、一人でどこに行くんだ?」
「小屋に帰る」
「小屋ってあの陣営の外れにあるのか? 危ないから送っていくよ」
テディウスがそう告げるなり、女薬師は心底愕いたような表情を浮かべた。
まるで唐突に人語を発した獣を見るような目つきだった。
「なあ――」
女薬師を伴って陣営の南端へと向かいながら、テディウスは気安い口調で訊ねた。
「あんた、名前は何ていうんだ?」
女は一瞬ためらってから答えた。
「サエーナ」
アルガノスの市民は歓喜して王子イラージュを迎えた。
王子は彼らに引き続き港の自治権を与えると請け合い、のちの宰相となるフェリドゥーンと並んで最後まで女神の子に忠実だった叔父アーブディーンを国王代官に任じ直した。
そして、このアルガノス港で、国中すべての町々に自らの帰還を報せるべく狼煙を焚き早馬を走らせた。国中多くの戦士たち、忠実な農夫たちが、女神の子の帰還を助けるべく陣営へとはせ参じた。
初めの戦いから十日後の第三月十一日、都の西ハイファの野で二度目の戦いが行われた。
『ヒベリアスの書』巻Ⅰより