第四章 帰還 5
同じころ――
幕屋の外の野営地には生物が群がりかえっていた。
人。
馬。
家禽。
荷運びの驢馬。
人馬の糞にたかる青光りする蠅。
赤い入日に燦めく浅瀬では馬や屍や夕食の野菜が洗われているし、入り口近くの輜重隊の天幕の前で、兵たちへの穀物と塩の支給が始まっている。
堀と土塁で真四角に区切った広々とした野営地の内は完全にひとつの街のようだ。
そんな野営地の南の外れ、街ならばやや品下れる下町みたいな付近を、《朋友隊》の一員である赤毛のパルメニオンが、同輩の栗毛のテディウスと連れ立って憤りながらウロウロしていた。
『――全く何様のつもりなんだよあの医者はさ! 傭兵の天幕にあれだけ負傷者が積み重なっているのに、治療してほしいなら自分で来いなんてさ! 自分で動ける怪我人なら医者なんぞ呼ぶもんか!』
『まあそう怒るなパルメニオン。怒ったって腹が減るだけだ』と、パサパサした栗毛のテディウスが諦めきった声音で応じる。『誇り高き《神官の一族》の治療師どのは、馬にも乗れぬ下賤の徒歩兵の天幕には来られんだろうよ。いつものことじゃないか』
『そうは言ったてさあーー』
赤毛のパルメニオンと栗毛のテディウスは、イラージュの《朋友隊》のなかでは数少ない生粋のギリシア系である。アルドヴィ・スーラーでは庶民階級にあたるギリシア系の二人は、ペルシア系が殆どを占める《朋友隊》でいつも肩身の狭い思いをしているのだ。
『なあパルメニオン、そろそろ諦めて俺たちの天幕に戻らないか? 傭兵たちは傭兵たちできっとどうにかするさ。流しの医者なんてそう見つからないよ』
『しかし、同じギリシア系だからって、あいつら俺たちをあんなに頼りにしてくれているんだからさ』と、情義に厚いパルメニオンがしょんぼりとする。『ああ、こういうときフェリドさまがおいでになったらなあ!』
流浪の二年間、イラージュに従って国外に逃れた《朋友隊》たちは、馬の調教だのガレー船の護衛だので、それぞれ自前で生計を立てていたが、そこは二十歳前後の若者たちの群れ、何かあって困ればすぐに王子たちの館を訪ねて泣きついたものだった。
そうして、そういうときは、余分の出費があるとブツブツ文句を言いながらも大抵どうにかしてくれた《フェリドさま》に、何となく生家の親を頼るみたいな気安い信頼感を寄せるようになっている。
『王子殿下はどうしてあの方を連れてこなかったのかなあ?』
『あのお体だ。野営地になんか置いたら熱病に罹ってその日のうちに死んじまうって心配なさったんだろうよ』
『王子殿下はあの方を深窓の御姫さまみたいに思いすぎだよ! たしかに身体頑健ってほどじゃないにせよ、疲れたらどこでも眠ってくれるしなんでも召し上がるのに』
『お前ね、曲りなりにも王族を飼いやすい動物みたいに云うんじゃないよ。まあなんだ、いない方を嘆いたって仕方がない。――おーい医者! 薬師や医者はいるか――! 治療代は弾むぞ――!』
話しながら歩いているうちに陣営の南端についていた。
土塁に沿って乞食や場末の娼婦たちがボロボロの小屋をかけている付近だ。
パルメニオンとテディウスが半ば習慣的に共通ギリシア語で呼ばわっていたとき。
『薬師いる』
背後からたどたどしく高い声がかかった。
『おお、本当か坊主?』
テディウスが嬉しそうに振り向く。
そしてぎょっとしたようにとび色の目を瞠った。
背後に立っていたのは黒髪の小柄な女だった。
灰色っぽい袖なしの毛織のチュニックの右肩を青銅のピンでとめ、艶やかな髪を一本の三つ編みに編んで、背には革製の背嚢のようなものを背負っている。
滑らかそうな蜜色の膚。
顎の尖った卵なりの輪郭。
睫の濃いくっきりとしたアーモンド形の眸と優美な弧を描く三日月眉。
身なりこそ粗末だが、まるで王族か《神官の一族》のような生粋のペルシア系にみえる顔立ちだ。
「女の方――ですか?」
テディウスが恐る恐るペルシア語で訊ね直すと、女は不本意そうに顔を歪めて頷いた。
「女だが薬師だ。一族はない。腕は確かだ。怪我人を見せろ」
「いやしかし、怪我人はむくつけき男ともでしてね――」
「大丈夫だ。男も治療できる」
自信を持って答える女の顔は堂々としていた。
テディウスとパルメニオンは顔を見合わせてから、ややあって躊躇いながらも頼んだ。
「それじゃ薬師どの、ひとつお願いいたします」