第四章 帰還 4
王紀一八一年第二月二十九日、王子イラージュは初めの戦旗を掲げた。
頭には被るべき《王環》の代わりに青い月桂樹の冠をいただき、手にはとるべき《王剣》の代わりにオリーヴの枝をとった。
王子が道を進むごとに従う兵も増した。
沿道の人々は天人花の花弁を浴びせて女神の子の帰還を祝った。
初めの戦いはアルガノスの野で行われた。
国内を東西に貫く大河スラ・ダリヤーの南岸である。
『ヒベリアスの書』巻Ⅰより
初めの戦いは旗揚げの翌日に勃発した。
エリュトラーから発する《王の道》が大河と並走するあたりで、対岸の河口の湾港都市アルガノスからの歩兵部隊を満載した平底船の群れが、夜明けの潮に乗って河を遡上してきたのだ。
この奇襲をイラージュ側は初めから予期して、深夜から迎撃の支度を調えていた。
「川下からアルガノス勢力が攻め上ってきています。日付から刻限までフェリドゥーンさまの仰せの通りでした」と、今や幕僚長も兼ねるタフムーラスが驚嘆を隠し切れない面持ちでイラージュに報告してきた。
「率いているのは国王代官のアーブディーン王子ご自身のようです」
「ああ、そうだろうな」と、イラージュは自身の豪奢な天幕で盤上競技の赤瑪瑙の駒を弄びながら応えた。「スラ・ダリヤーの水面が見えた翌日にはアーブディーンが来るだろうってフェリドが言っていた。あいつはできれば殺さずに捕らえろ。説得次第ではこっちの駒にできる」
「――と、それもフェリドゥーンさまが仰せで?」と、タフムーラスが少しばかり不服そうに訊ねてくる。
イラージュは眉をあげた。
「そうだよ。こういう問題はあの人の言う通りにするのがいいんだ。それが大抵正しい」
「しかし、それではまるで王子殿下が――」
と、タフムーラスが口ごもる。
イラージュは聞きとがめた。
「俺が、なんだよ?」
タフムーラスは覚悟を決めたように言葉を続けた。
「何もかもあのお方の言うがままでは、あなた様があのお方の駒であるようです。ご自身の最終的な進退はご自身でお決めなさいませ」
「駒? 俺があの人の?」
イラージュは呆れて笑った。「ばかばかしい。俺はいつだって自分のやりたいことは自分で決めているさ。あの人はやり方を教えてくれているだけだ」
「それでしたら、勿論よろしいのですが」
親衛隊長は諦めて引き下がった。
アルガノス港の代官を務めるアーブディーン王子は、フェリドゥーンと同じく先王の異母弟である。
先王アーラシュ二世は王位継承権を持つ同族を恐れに畏れ、その大半を何かと理由をつけて処刑してきた。
そのなかでアーブディーンが辛うじて生き延びたのは、彼の身分低い母が宰相マヌシュチフルの妻と同じアルミニヤ系の血統であったためと、アーブディーン自身がつねに徹底した恭順を示して、兄王の命令には卑屈な狗のように従い続けてきたためである。
アーブディーンが代官を務めるアルガノス港は、ギリシア系入植者による半ば自治的な港湾都市で、王宮役人の権威は殆ど無に等しい。
そんな場所で二十年の隠棲を余儀なくされていた不遇の王族は、これが最初にして最後の晴れ舞台とばかりに、傭兵を満載した平底船の先頭に自ら立っていた。
そして、初めから岸辺で待ち受けていた《女神の子》の軍勢にあっけなく生け捕られたのだった。
捕縛の指揮を取っていた《朋友隊》のカブラージャとその配下たちの手でイラージュの天幕に連れてこられたアーブディーンは、いかにも昨今のアルドヴィ・スーラーの王族らしい貧弱な骨格をした四十がらみの痩せ男だった。
新月刀の鞘の金鍍金は剥げかけているし、緑の絹のマントの金刺繍は半ばほつれかかっている。
「会うのは初めてだったよな?」
イラージュが尋ねると、アーブディーンはノロノロと顔をあげた。
珍しい碧色の眸をしていた。
心なし眉を寄せているほか、その表情は完全に虚ろだった。
次の言葉が見つからず、イラージュは偶々手にしていた杯を差し出してやった。
「飲むか?」
途端に碧の眸が瞬きをした。
驚いているようだ。
しばらくまじまじとイラージュを凝視してから、古びた銀のゴブレットを押し頂くように受け取る。
そして一息に干した。
きつく目を瞑って杯の中身を飲み干してから、アーブディーンは拍子抜けたような声で言った。
「……――葡萄酒か? 単なる」
イラージュはむっとした。
「悪かったな、単なる! 葡萄酒で。どこぞの名高い年代物でないことは認めるがな、アマノスの貧乏所帯の総督の心づくしの餞別なんだよ。ありがたく飲めよ、多少澱が多かろうとさ!」
「――アマノス」
アーブディーンが繰り返し、とってつけたように付け加えた。「あなたの逃れていた島か」
「ああ」と、イラージュは頷いた。「ここ二年身を隠していた。悪いところじゃなかったぞ。二年もいるとは思わなかったが」
「私は五年いた」
「五年? どこに?」
「アルミニヤに」
「アルミニヤ?」イラージュは思わず問い返した。「なんでまたアルミニヤに?」
「アルミニヤは私の母の故郷だ。二十年前、あの蛮族の侵攻の折に逃れた」
「逃げたのか?」
イラージュは思わず非難がましい声をあげた。
アーブディーンがうなだれたまま答える。
「逃げた。結果としては逃げた形になった」
「じゃ、もともと逃げるつもりはなかったってことか?」
「そうだ。信じてもらえないかもしれないが――私はあのとき王朝が潰えると思ったのだ。だから国外に逃れて、いつか好機が訪れるときのために力を蓄えようと思ったのだ。だが王朝は潰えなかった」
「あ――」
イラージュは言葉に迷った。
「運が良かった……んだよな?」
「そうだ。運が良かった。運は神々の管轄だ。神々は気まぐれなものだ。だから私は戦い方を覚えようと思った」
「アルミニヤで?」
「そうだ。アルミニヤで。あまり巧くはいかなかったが。逃れたとき私は十八だった――あなたも同じだったか」と、空の杯に目を落としたままアーブディーンは低く嗤った。「五年経って戻ってみた。そして陛下に申し上げた」
「何と?」
「私に兵を与えて欲しいと。するとアルガノスにやられた」
「アルガノスに兵は――」
「みな傭兵だ。言葉も通じん。町はギリシア人たちが自治を敷いている。微々たる税を集める権利のほか、私には裁判の権利さえない」
「裁判の権利が欲しいのか?」
「いや」
視線を杯に落としたままアーブディーンは首を横に振った。
イラージュは心底困った。
――いいかイラージュ、アーブディーンにはできるだけ丁重に接して、欲しがるものは何でもくれてやれ。玉座以外は何も惜しむな。あれは手に入れさえすれば使える手駒になる。
アマノスを出立する前、フェリドゥーンからはさんざんそう言い含められている。
しかし、輝かしい女神の子は、不遇を極める目の前の王族が何を欲しがっているのか、全く思いつけなかった。
そのため彼は七つの子供みたいに無邪気に訊ねた。
「なら何が欲しいんだ?」
「え?」
「なあ叔父上。あなたは何が欲しいんだ?」
口に馴れない敬称で呼ぶと、一拍の沈黙のあとで、アーブディーンはうなだれたまま答えた。
「《戦士の長》としての誇りが」
「なんだ」イラージュはあきれ果てた。「欲しがるまでもないだろうが。傭兵隊の先頭に立って自分が捕まる王族なんてきっと珍しいぞ?」
アーブディーンは一瞬絶句し、項垂れたままクックッと喉を鳴らした。
「ああ、確かにその通りだ」
その声は泣くとも嗤うともつかなかった。
どうも機嫌を損ねてしまったらしい。
イラージュは慌てて立ち上がった。
「いやその、皮肉のつもりじゃなくてだな? あなたはとても勇敢だと、そう言いたかったんだよ」
丁重に、丁重にと自分に言い聞かせながら腕をとって立たせようとすると、アーブディーンが不意にイラージュの真紅の短マントの裾をとらえた。
途端、《朋友隊》たちが色めき立つ。
「――逆賊! 王子殿下に何を――」
「みな控えていろ! この者は王の一族だ! 殺すにせよ活かすにせよそれなりの礼儀を払え!」
イラージュが凛と命じる。
その瞬間、アーブディーンがまた喉を鳴らすと、マントの裾に唇を寄せながら囁いた。
「女神の子よ」
「え?」
「わが命はあなたに――」
そこまで口にしたきりむせび泣き始める。
イラージュは呆気にとられたように、平伏する叔父のつむじを眺めていたが、じきに嬉しげに白い歯を見せて笑った。
「そうかありがたい! 俺に仕えてくれるのか!」
その笑みは無邪気そのものだった。
「いやはや、われらの王子殿下は不思議な方ですなあ」と、カンブージャが新月刀を収めながらしみじみと呟く。「何をどうしたのかよく分からないが、なんだか説得できてしまった」
「女神の子だからな」と、タフムーラスが真面目な声で答えた。