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第四章 帰還 3

 そのとき以来、イラージュはまた常に女の気配を感じるようになった。


 周囲には常に人がいるし、陽射しももう初夏に近いというのに、どこかから女が見ているのかと思うと、凍てつく真冬の渓流を独りで歩いているかのような寒気を感じた。



 エリュトラーを発ってから二日目の野営地で、イラージュはついに苛立ちに負けて女を捜し出そうと決めた。


 捜したあとでどうしたいのかは自分でも分からなかったが、ともかくも、あれが本当に存在する女なのか、それとも自分の心が生み出した幻なのかを確かめたくてならなくなったのだ。


王子殿下(シャーザーデ)、どちらへお出ましで?」

 天幕を出ようとしたところで、従者代わりのパルメニオンが訝しそうに訊ねてくる。

 イラージュはチッと舌打ちをして答えた。

「《(セターレ)》を見てくる。ついてくるなよ?」

「しかし、お一人で出歩かれては――」

「くどい! 俺を誰だと思っているんだ?」

 睨みつけるように咎めると、赤毛の大男はしゅんと肩を落とした。

 イラージュは忠実な老いぼれ犬を間違って蹴飛ばしてしまったような罰の悪さを感じた。

「ちょっとそこいらを歩いてくるだけだ。いちいち気にするな」

 言い置いて天幕を後にする。


 外はもう暮れかけていた。

 そこここに焚かれた火の回りで兵士と娼婦が騒いでいる。

 彼らは簡素な平服で供も連れないイラージュが王子だとは気づかなかった。

 


 --あの女はどこにいるのだろう?



 何となく、女はこんなに賑やかで明るい場所にはいないような気がした。

 きっと人慣れない獣のように、暗がりに身を隠して、混じりけなしの憎しみに充ちたあの黒い眸を爛々と輝かせているに違いない。



 ――あの女は俺だけを見ている。むき出しのこの俺だけを。



 自分でも意識しないうちに、イラージュは少しずつ野営地の中心の明るみから遠ざかっていた。

 汚物を捨てるために臨時に掘らせた大溝の近くで、夜風に乗ってむっとするほど強烈な臭気が漂ってくる。


 そのあたりは焚火も疎らだった。

 大溝のすぐ手前、野営地の北端のあたりで、焚火の傍に嫌なものを見た。

 逞しい背をした兵士のような男が子供のように小さな体の持ち主を組み伏せている。



 ――あれだけ娼婦がいるのに、こんなところで子供の相手か? 悪趣味な奴だな!



 たまらない嫌悪感を覚えたイラージュは、つかつかと無遠慮に歩み寄るなり、スラリと抜いた新月刀の先で男の裸の背中を突いた。

「おい、子供はよせよ」

 途端、男が不機嫌な唸りをあげて体をひねり、憎々しげな目つきでイラージュを睨み上げてきた。

「放っとけよ。あとできっちり金は払ってやる」

「ああそうかよ」と、イラージュは鼻を鳴らした。「そんなの知ったことか。俺の陣営に下劣な兵はいらん」

「俺の陣営? お前、まるで王子殿下(シャーザーデ)みたいなことを――」

 男はそこまで口にしたところで、ようやくにイラージュの顔に気付いたようだった。


「……王子殿下(シャーザーデ)?」

 震える声で囁くなり、何やら奇声を発しながらどこかへ駆け去ってしまう。


「おーい、大溝に落ちるなよ――!」

 その背に向けて呼ばわりながら、イラージュは声を立てて笑った。


「おい子供、もう大丈夫――」

 と、声をかけようとしたとき、イラージュはぎょっとした。

 焚火の傍で、半裸の小柄な女が、艶やかな黒髪を乱して、憎しみをたたえた黒い眸でこちらを睨み上げていたのだ。


「お前――」

 イラージュが掠れた声をどうにか絞り出したとき、女の唇がぐっと歪んだかと思うと、憎々しげな言葉が吐き出された。


「おい女神の子。他人(ひと)の商売の邪魔をするな」


 女神の子、という発音にイラージュは確信した。

 これはやはりあの女だ。

 同時に激しい苛立ちを感じた。


 ――ただ俺への憎しみだけで生きているはずの女が、なんだってこんな暗がりで娼婦の真似事をしているんだ?


「お前は薬師じゃなかったのか?」

「薬師だ。だがそれだけでは食えない」

 女は淡々と応じた。

 イラージュは焼けつくような苛立ちを覚えた。

 何としてもこの女を動じさせてやりたい。


 彼はしばらく考えてから、できるかぎりの嘲りを籠めて訊ねた。

「子でも孕んだらどうするつもりだ?」

「私は薬師だ。腹の子も殺せる」

 女は微塵も動じずに言った。

 イラージュは鼻を鳴らした。

「やっぱりお前は女じゃないな! 子に情はないのか?」

「産まれてから殺すよりはましだろう」と、女は淡々と身づくろいをしながら応えた。「産まれたら育てなければならない」

「……産まれたら育てるのか?」

「他にどうする」

「憎い男の子でもか?」

 深い意味もなく口にした途端、女の顔が憎々しげに歪んだ。

 イラージュははっと気づいた。


 

 ――この女にとっての憎い男は、要するに俺のことだ。



「違う、そういう意味じゃ」

 慌てて弁明しようとしたととき、女があの狂ったような笑い声をあげてから答えた。

「安心しろ女神の子! それも必ず産まれる前に殺してやるから!」

 引きつった声で叫ぶなり、一転して、またあの仮面のような無表情に戻って淡々と着衣を整えにかかる。

 腰骨のあたりで弛んでいたチュニックを引き上げて太い青銅のピンで肩を留めたあとで、女は火の傍にしゃがみこんで髪を編み始めた。

 むき出しの痩せた腕が動くたびに、粗末な毛織の布の下で肩の骨が動く。

 うつむきがちな横顔を火明かりが照らして、伏せた睫の影が高い頬骨の上に落ちていた。

 その顔は思いがけないほど普通の女のように見えた。



 ――この女は何歳(いくつ)なのだろう?



 イラージュは不意にそんなことを思った。

 子供のように小柄だが、こうしてみると十分に成熟した女だと分かる。ロクサーネよりも少し年上かもしれない。

 


 ――自分の集落で暮らしていたときには、この女には夫はいたのだろうか? もしかしたら子供もいたのだろうか?



 そんなことを思ったとき、イラージュは不意に実感した。



 ――俺のせいなのだ。



 この女が今ここで独りぼっちでいるのは、すべて俺のせいなのだ。



 ――俺が全員殺したんだ。この女の身内を。



 イラージュは身動きできないままじっと女を見ていた。


 俯いて静かに髪を編む女は、本当にごくごく普通の女にしか見えなかった。

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