第四章 帰還 1
万全を期した出航の朝、海は凪いでいた。
見たところは美しいが、船出には不向きな天候である。
傭兵に人気の光明神ミスラは西風までは統べられないらしい。
――ギリシアでは西風の神は何だったかな?
埠頭に立って、どうにか雇った小型のガレー船に荷物が吊り上げられる様を監督しながら、フェリドゥーンがのんびりとそんなことを考えていたとき、後ろから軽快な足音が走り寄ってきた。
「フェリド! そこにいたのか!」
足音の主は当然イラージュだった。今日はいつもの粗末な毛織のチュニックの上に、目の覚めるほど鮮やかな真紅のギリシア風の短マントを羽織っている。
「どうだ、風の具合は。予定通り昼までに出航できそうか?」
「そいつは神々の御心次第だな。――それよりイラージュ、お前、本当に俺まで置いていく気か? 今からでも考え直す気はないのか?」
フェリドゥーンが真剣に問いただすと、イラージュはあからさまに嫌そうな表情をした。
「その顔で棄てられそうな女みたいな台詞を吐かないでくれよ! 何と言われてもそこはダメだ。あなたを戦場の野営地になんかおけるはずがないだろう? 危なくて仕方ない。――いいかマイオン、お前の主人をしっかり見張っておけよ? 大事な未来の宰相をつまらない小競り合いで亡くしたくないんだ」
「王子殿下、勿論心得ておりますとも」と、小姓が得々と応える。
フェリドゥーンは声を立てて笑いたくなった。
二十歳そこそこの流浪の王子が何たる自信だろう。
これから始まる王位奪還の戦いを「つまらない小競り合い」とは!
――いいぞイラージュ。それでこそ半神ってものだ。
傲岸な自信に充ち溢れているときのイラージュがフェリドゥーンは最も好きだった。
野を駆ける馬や空を翔ける鷹のような、あるべきものがあるべきところにある美しさを発揮しているような気がしていた。
実際のところ、故郷でイラージュを待ち受けているだろう「僭王」サルムとの戦いそのものについては、フェリドゥーンもさして案じてはいなかった。
女神の子イラージュのカリスマ性は本物だ。
気にかかるのはむしろ国外の情勢である。
西のローマと東のパルティア――国境地帯の肥沃な小国アルドヴィ・スーラーは、常に東西の二大勢力に飲み込まれる危険と対峙している。
――もっとも、西については、当面心配ないだろうがな。
流浪の王子たちにとっては幸運極まりないことに、西の大勢力たる共和制ローマはこのところ内紛中である。国境地帯の小国の王族同士の小競り合いになど目を向けている余裕もないだろう。
しかし、東のパルティアについては心もとない。
もともと同じペルシア系である東の大帝国は、地理的にも心理的にも、ローマよりはるかに近いのだ。
あちらはかつてのアケメネス朝の版図内にあった最西の小王国を、内乱に乗じて併合しようと目論まない――とも限らない。
フェリドゥーンはその点だけもう一度念を押しておくことにした。
「なあイラージュ」
「なんだ?」
「分かっているとは思うが、今の宰相の一族と完全に縁は切るなよ? お前も知っての通り、ビルマーヤ姫の母親はアルミニヤ属州の総督の家系だ。父親がどんな罪を犯したにせよ、お前にはあの姫が必要だ。そこは勿論分かっているよな?」
「最後までその話か! しつこいぞフェリド」と、イラージュは不服そうに答えた。「勿論分かっているさ。マヌシュチフルの阿呆を蟄居させたら、ビルマーヤは予定通り正后に立てる。もともとそうなるはずだった女だ」
フェリドゥーンの言葉通り、宰相マヌシュチフルの娘ビルマーヤは、母方からパルティアテア属州であるアルミニヤの総督の血を引く姫だ。ビルマーヤが正后であるかぎり、東の大帝国も肥沃な小国に食指は動かさないだろう。
フェリドゥーンに説かれる間でもない、イラージュ自身もその程度のことは勿論弁えていた。
「--心配しなくても、ビルマーヤは必ず后にする。だからロクサーネは連れて来いよ? あなたと一緒に必ず」
若い王子が熱を込めて頼む。
フェリドゥーンは諦めぎみに頷いた。「分かった。連れて戻るよ。――ロクサーネどの自身が拒まなければな」
「拒むわけないだろう? あいつは俺のものだ」
イラージュは不機嫌に応えたきり押し黙ってしまった。
唇をへの字に捻じ曲げた顔が途端に幼くなる。
青銅製の半神の銅像のような貌に、拗ねた十歳の子供のころと同じ表情が浮かんでいる。
その顔にフェリドゥーンは奇妙な愛しさを覚えた。
埠頭を見やれば、《朋友隊》の面々が二年のあいだにすっかり慣れてしまった手つきで、互いに声を掛け合いながらガレー船に荷物を吊り上げていた。
埠頭の向こうに海が見えた。
鮮やかな紺碧の海だ。
海は凪いでいた。
麗らかに白い春の陽が水面を燦めかせている。
フェリドゥーンはふと、このまま永遠に風が吹かなければいいのにと思った。
故国へ戻れば待っているのは血で血を洗う身内争いだ。
支配されるものから支配するものへ、所有されるものから所有するものへ、奴隷から主君へと成り上るために、きっとこれから数多くの知人を殺さなければならなくなる――……
それがどうした、とフェリドゥーンは自分自身の心を鼓舞した。
支配されたくなければ支配するしかない。
所有されたくなければ所有するしかない。
これは必要な戦いなのだ。
誇りを取り戻すためには、いつまでも、この世界に忘れられたような白い小さい港で微睡んでいるわけにはいかない。
フェリドゥーンが悲壮な思いを込めて凪ぎ切った海を凝視していたとき、
「――西風か?」
イラージュが呟くなり、見えない何かを睨みつけるように空へと視線を据えた。
その艶やかな黒髪がわずかに背へとなびいていた。
西風だ。
帰還の風が吹き始めたのだ。
「フェリド、風だぞ!」
イラージュが真っ白い歯をのぞかせて笑いながら振り返った。
あけっぴろげの喜びに充ちた顔があいかわらず十歳の子供のようだ。
「やった! ようやくに帰れるぞ――」
そこまで叫んだところで、イラージュははっと何かを思い出したように虚空を睨み上げると、何を思ったか踵を返して、埠頭とは正反対の方角へと坂道を駆け上がり始めた。
「おいイラージュ!」フェリドゥーンは慌てて叫んだ。「お前どこ行くつもりだ!?」
「決まっているだろう、ロクサーネに別れを告げに行くんだよ!」
第二月二十六日、王子イラージュの一行はこの地方の第二の港であるエリュトラー港へと至った。このとき、エリュトラーと都をつなぐ《王の道》の沿道には、女神の子の陣営にはせ参じる国内外の兵士たちが三〇〇〇近くも集おうとしていた。
『ヒベリアスの書』巻Ⅰより