第三章 女神の息子たち 4
「おお、それじゃ王子殿下、首尾よく計画が運んだので?」
《朋友隊》のカンブージャが目を輝かせて訊ねると、イラージュはようやくロクサーネを下ろし、乱れてしまった赤砂糖色の髪を無造作に撫でつけてやりながら頷いた。
「当然だ。この俺がじきじきに足を運んだんだからな――」と、そこで言葉を切り、きょろきょろっと視線を彷徨わせてから、右腕を杖に、左腕を小姓に預けたフェリドゥーンの姿を見とめてぱっと笑顔を浮かべる。
「なんだフェリド、そこにいたのか!」
「ああいたとも。じつはずっといた。――夏までには都へ戻れそうってことは、聖都ザーラーの《神官の民》たちの協力を取り付けられたんだな?」
「ああ」と、イラージュが得意そうに頷く。「結構簡単な交渉だったぞ? 見返りは戴冠の特権を恒久的にザーラーの大祭司に与えることと、決戦を必ずミスラの祭日にすること、それから、俺が無事都に戻ったら北岸にミスラ神殿を建てて、カシュタリティをそこの祭司にすることだけだそうだ」
「なるほどね。―-光明神ミスラの信仰はこの頃傭兵連中のあいだで人気が高いらしいからな。母祖女神アナーヒターの信徒が大半を占めるわれらがアルドヴィ・スーラーの平原地方に、ザーラー十二神の楔を打ち込もうって腹だろう。まあまあ予想通りだ」
「じゃ、請け合っちまってよかったんだな?」
「勿論だ。カシュタリティはそのまま聖都に残ったんだな?」
「ああ。身内の祭司たちの手を借りて、国中に散っている元の配下の騎兵たちをできるだけ集めるそうだ。――ああそうだ、エウリュノメ!」と、気の変わりやすい若い王子が巻き毛の新妻を見やる。
「は、はい王子殿下! 何でございましょう!」
小柄なエウリュノメが跳ね上がるようにして応える。
イラージュは声を立てて笑った。
「悪いな、タフムーラスはエリュトラーの港に置いてきちまった。あいつの義兄が代官をしていてな、俺たちをこっそり出迎える支度をしているんだ」
「旦那様が大切なお務めをしていること、妻として誇らしい限りですわ」と、エウリュノメは気丈に笑ってみせた。イラージュは満足そうに頷くと、ごく自然な仕草で傍らのロクサーネの腰を引き寄せ、陽を浴びてますます暖かそうに光る赤砂糖色の髪の頭頂部に頬を押し当て、甘える大きな猫みたいに擦りつけた。
「王子殿下、嗅がないでください」と、娘が困った声をあげる。「私は走ってきました。とても汗臭いです」
「お前はいつだって良い匂いだよ。よく干された麦わらみたいだ」
そう応じるイラージュの声は、フェリドゥーンが初めて聞くほど穏やかで優しげだった。
フェリドゥーンは不意に焼けつくような孤独を感じた。
あの一対は王子と妾だ。
所有するものと所有されるもの、支配するものとされるものだ。
理性ではそう思っているのに、目の前で再会を喜び合う一対の若者たちのあいだには、混じりけなしに美しい愛があるように見えた。
ばかばかしいとフェリドゥーンは思った。
この世に美しい愛はない。
愛とはすべて支配だ。
愛でる者が支配し、愛でられる者が支配される。
そこにあるのは主君と奴隷の関係だけだ。
フェリドゥーンはそう信じていた。
王紀百八十一年第二月二十日、王子イラージュは亡命地であるアマノス市を出航し、西風の神ゼフィロスの助けによって故郷へと帰り着いた。
このとき、最もよく王子を助けた勢力は、母祖女神アナーヒターの信徒ではなく、アケメネス朝の時代から王国北部の山中で大いなるアフラ・マズダーの聖火を護ってきた《神官の民》と、海岸部に多く住まっていた光明神ミスラの信徒たちであった。
『ヒベリアスの書』巻Ⅰより