第三章 女神の息子たち 3
ロクサーネが「何としてもすぐ広場まで出迎えにいくのだ」と、珍しくも頑なに主張したため、フェリドゥーンは乏しい家計から余分の出費を渋々認めて輿を借りることにした。
「わたくしは歩けます。広場は遠くありません」
「歩けるかもしれないが、礼儀作法上な。それに私は歩けないんだ」
フェリドゥーンがわざと哀しげに言うなり、娘はハッと口元を抑え、心底すまなそうにうなだれた。
「ごめんなさい。考えが足らず」
「いちいち気になさるな。あなたはわれらの女神の子の大切な伴侶なのだから」
杖と小姓に助けられて戸口へ向かいながらフェリドゥーンは微苦笑した。
ロクサーネは本当に優しい娘だ。
優しすぎて時折苛立たしくなる。
――この娘はどうして受け入れられるのだろう? 非力であることの運命を――女であることの恥辱を。
所有され、支配され、愛でられ、棄てられ、嘲られるもの。
豪奢な牢獄のようだった王宮で暮らしていたころ、フェリドゥーンは自分自身のそんな立場に屈辱を感じていた。
彼の基準からすれば、それは女か奴隷の立場だった。
そのため、王宮を出たあとには、しばしば不思議でたまらなくなるのだった。
――生まれながらの女や奴隷は、なぜ女や奴隷であるところの人生を受け入れられるのだろう?
彼にとってそれは永遠の謎だった。
二基の輿に乗って広場へ向かうと、港に近い南側の柱廊に、それぞれに何らかの仕事を得て日ごろはあちこちに散らばっている《朋友隊》の面々の殆どが顔をそろえていた。
なかに一人、なかなかよく目立つ、艶のある黒い巻き毛とサフラン色の襞衣姿の若い女が混じっている。
女は輿から降り立ったフェリドゥーンとロクサーネを見とめるなり、反りのある濃い睫に縁取られた大きな眸をキラキラと輝かせた。
『奥方様! フェリドさまも!』
『おおエウリュノメ。ずいぶん嬉しそうだな?』
フェリドゥーンが気さくに話しかけると、黒い巻き毛のエウリュノメは輝くばかりの笑顔を浮かべて頷いた。
『それはもう二か月ぶりですもの!』
『――喜んでいるところ申し訳ないんだが、お前の夫は行ったきり戻っては来ないと思うぞ?』
エウリュノメは――《亡命ヒベリア人》たちにとっては誰にとっても愕くべきことに――生真面目な親衛隊長タフムーラスの新妻である。彼女の夫はイラージュとともに故郷へと戻って、いよいよ始まる帰還計画の先鞭をつけるべく奔走しているはずだ。
『――分かっておりますわ、そんなこと!』と、新妻は気丈に言い返した。『旦那様がどうなさっているか、王子殿下から聞ければそれでいいんです』
そういって俯き、サフラン色の衣の襞をぐっと拳で握る。
小麦色の小さな拳が微かに震えていた。
ロクサーネが眉をよせ、親しい姉妹のような仕草で、小柄なエウリュノメの肩をそっと抱いた。「大丈夫よエウリュノメ。あなたの旦那様はきっとご無事でお務めを果たしているはず」
ちょうどそのとき、南側の斜面からいくつもの歓声が聞こえてきた。
『―-おいみな見ろ! 《アルテミスの子》だ! ヒベリアの女神の子だぞ!』
その瞬間――
ロクサーネがはっと顔をあげ、襞衣の裾を持ち上げ、足首が露わになるのも構わずに柱廊を飛び出していった。
「王子殿下! 王子殿下――……!」
日ごろの慎ましやかな彼女からは信じがたいほどの大声で人目も憚らずに叫びながら坂路を駆け下りてゆく。
エウリュノメと《朋友隊》が慌ててそのあとを追う。フェルドゥーンは杖と小姓の手を借りてのろのろと最後尾に続いた。
すると、すぐに、赤毛の大男を従者に連れて坂道を登ってくる若い王子の姿が見えた。
今年二十歳になるイラージュは相変わらず人目を惹いた。
背は二年前よりさらに伸び、長すぎてずいぶん細く見えた手足に、野を駆ける駿馬そのものの美しい筋肉がついている。
黒髪は相変わらず輝くばかりで、滑らかな明るい褐色の膚には絹のような光沢がある。
鋭い目つきを和らげる濃く長い睫と、怜悧すぎる美貌になまめかしさを添える形よく厚みのある唇。
粗末な生成り色の毛織のチュニックをまとって背嚢を背負った姿でも、「アルテミスの子」はやはり常人とは違った。
その姿ひとつとっても、まさしく若い半神そのものだった。
半神は出迎えの娘を見とめるなり目を見張り、
「え、おいロクサーネ!?」
頓狂な声で叫んで走り寄ってきた。
「お前どうしてこんなところにいるんだ!」
「王子殿下を出迎えにきたのです! 早く会いたかったから!」
娘が拙いペルシア語で叫ぶように応えるなり、イラージュは心底嬉しそうに白い歯を見せて笑い、やおら両腕を伸ばすと、ロクサーネの体をひょいと抱えあげ、じぶんの尻尾をおいかける猟犬みたいにぐるぐると回り始めた。
イラージュより高く持ち上げられてしまったロクサーネが慌てた声で叫ぶ。
「王子殿下、王子殿下、下ろしてください、私は重いです!」
「お前は軽い! 羽根みたいだよ! 喜べロクサーネ! 夏までにはお前に必ず獅子の王宮を見せてやるからな!」