第一章 半神 1
……第五月十日、長く故郷を苦しめていたアルサケス朝の軍勢をカフカスの東へと追った若き王子は、長い転戦と流浪の果てに、ついに再び父祖の地たるアルドヴィ・スーラーの都へと帰り着いた。
王子は長く親しんだ軍装を解くと、王国の母祖にして守り神たる女神アナーヒターの聖地へと赴き、その地に弔われていた御生母の墓前に清められた燈火を供えた。
『ヒベリアスの書』巻Ⅲより
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赤茶けた谷底のあちこちで天幕の残骸が燻っている。
焼け焦げて倒れた柱の残骸。
燃え切らないフェルト布の残骸。
いくつもの黒ずんだ塊からブスブスと黒い煙が立ち上っては生臭くいがらっぽい悪臭を漂わせてくる。
――まるで獣の巣だな! 臭くてかなわない。
若い王子イラージュは焼け跡をぶらつきながら形の良い鼻の脇に思い切り皴をよせた。
そんな表情をしていても、十八の王子は美しかった。
手足の長いすらりとした長身を灰色の毛織のチュニックと同じ素材のズボンに包み、折り返しの部分を赤く染めた黒い長靴をはき、背には短い弓を背負い、腰には黄金細工の鞘に収めた細身の新月刀を吊るしている。
彼自身の指揮によって焼き討ちされたばかりの渓間――もう半月近く捜してようやく見つけ出した《山の民》冬夏の野営地だ――には、イラージュと似たような服装の《朋友隊》の面々が散らばって、生き残った者がいないかと検めている。
イラージュ自身も途中まではその作業に参加していたのだが、今はもう厭きて、こうして自らのもたらした惨禍の跡を退屈そうにぶらついているのだった。
――全くつまらない戦いだったな! こんなのがこの俺の初陣だなんて、不死なる女神は一体何をお考えなのだろうな?
野営地を見つけるまでは手間取ったが、一端見つけてしまえば焼き討ちは容易かった。
ペルシア系であるアルドヴィ・スーラーの王族は自らを《戦士の長》と任じている。
幼いころから華々しい初陣を夢見てきた十八歳の王子には、あっけなさすぎる戦勝はあまりにも物足りなかった。
――何か戦利品でもないかな? 女どもの天幕のあたりに何かあったら、ビルマーヤに土産を持ち帰ってやろう。
いずれ妻となる予定の宰相の娘のことを思ってイラージュは心を奮い立たせた。
ビルマーヤは美しい娘だ。
父の宰相マヌシュチフルはイラージュの肉体上の母である女神の巫女の兄にあたるから、血筋としては母方の従妹で、身分も申し分ない。
女神の子が初陣で手に入れた戦利品を捧げるのにふさわしい伴侶だ。
何か手ごろな品がないものかと視線を彷徨わせていると、右手の天幕の残骸の縁できらりと輝くものが見えた。
宝飾品のようだ。
近づいて拾い上げると飾り櫛だった。
青銅製で、鳥の頭と獅子の胴体をもつ奇妙な怪物の姿を象っている。
もしもアルドヴィ・スーラー地方の人口の七割を占めるギリシア系の住人だったら、その怪物は「グリフォンのようだ」と形容しただろう。
しかし、残り三割のペルシア系である王族のイラージュにとっては単なる謎の怪物だった。
「……もしかして、こいつが例の不敬の証なのか?」
飾り櫛に付着していた泥と血をチュニックの裾で無造作にぬぐいながら、イラージュは思わず呟いていた。
アルドヴィ・スーラーの王家の紋章たる《翼持つ獅子》とよく似た意匠を《山の民》の族長が紋章として用いている――それこそが三か月前、イラージュに《山の民》殲滅を命じた父王の言い草だった。
「ばかばかしい。これの何処が《翼持つ獅子》だよ?」
こいつはどう見たって獅子の脚持つ鳥だ。
こんなもののために一族を根絶させられるとは、《山の民》も全く難儀なことだ!
――黄金製でもないしな! こんなつまらない戦利品、あの贅沢なビルマーヤに持っていけるもんか!
王国内でも指折りに富裕な宰相マヌシュチフルの愛娘であるビルマーヤは手の込んだ細工物のような姫だ。
豊かに波打つ黒髪からはいつも爽やかなジャスミンの芳香――イラージュが一番好きな薫りだ――がするし、膚はクリームのように滑らかで、いつだって豪奢な絹の衣だけをまとっている。
そのビルマーヤに古ぼけた青銅製の飾り櫛などやったら?
どんな表情をされるか、想像するだけでうんざりとする。
――ビルマーヤは勿論、喜んだフリはするだろうさ。でも、俺は喜んだフリなんかされたくないんだ。
若い王子がくさくさとした気分で飾り櫛を遠くへ放り投げようとしたとき、風向きが変わったのか、屍の焼けるらしい生臭い煙が鼻先に流れてきた。
イラージュは顔をしかめた。
「――パルメニオン!」
振り返らずに命じる。「水を持ってこい!」