世界を信じる
別のペンネーム、別の作品で某ライトノベル新人賞最終選考で落選したことがあります。
ぜひ、お楽しみください。
†
前回の王権戦争によって、当時のジョシュアの家――ハウエル伯爵家は様々な悲劇に見舞われた。
まず、帝国の侵略によって領地の半分を失ってしまった。さらに、病気に罹って戦場に出られない兄の代わりに初陣を飾った一つ歳下の弟が敵に捉えられ莫大な身代金が必要になったのだ。
だが、まだそれだけなら挽回する余地はあっただろう。
しかし、父の戦死、経済的な負担に耐えてまで取り戻した次男の自死という出来事が、残された者の精神に容易には回復し得ない傷を残した。
……それでも、病の癒えたジョシュアは立ち上がったのだ。
泣き暮れる母と、三つ歳下の妹を励まし、十四歳の彼は奔走した――が、困窮に見舞われていたのは何も彼の家だけではなかった。帝国との戦いで多大な費えを必要とした貴族の内情はどこも苦しいものだ。親戚筋でも頼ることはできなかった。
でも、それでも、この家は潰させない――その思いを胸にかつてのジョシュアは必死に一家が離散せずに済む方法を模索した。本来は優しい母、愛くるしい妹を守り、せめて死んだ父に報いるため、胸の内を明かすことなくみずから命を絶ってしまった弟の分まで生きるため――それには金が必要だ。
そんな彼の前に、一つの転機が訪れた。
魔術師協会による怪物軀宿者の被験者の募集だ。
志願者にはかなりの額の前金が払われ、もし、怪物軀宿者と化す処置を受けてもなお生き長らえればハウエル家を立て直すことができる報酬が約束されていた。
――武門の家柄であることに眼をつけられたのだ。
「もし、再び帝国との戦端が開かれたとき、怪物軀宿者としたの力を手に入れていれば先代の御当主の無念を晴らすこともできますぞ」
ジョシュアの元を訪れ、怪物軀宿者化処置の被験者となるよう勧めた、老年の魔術師は親切めかした口調で言った。
……その笑顔が天からの救いに映った。当時のジョシュアの目には。
しばしの思案の後、ジョシュアは顎を引いて承諾した。
――怪物軀宿者化処置の被験者として志願した数十人の少年、少女は学校に似た施設に集められた。
そこで、頑健な肉体、強靭な精神を持つか日々試され、そして苛烈な鍛練を積んだ。
腕立て伏せを六〇秒間に八十二回、腹筋は九十二回――これをやると、鍛えられている部位の筋肉が刃物の刃先で刻まれているような痛みを訴えた。
一〇キロメトールを一時間で走破。流れる汗が目に沁み、荒れる呼吸は肺が壊れてしまったのではと錯覚させた。
帯剣し、革鎧をまとって食糧その他の収まった荷袋を携帯して山岳地帯の六十四キロメトールを踏破。過酷過ぎ、最後の方は息も絶え絶えで記憶が所々途絶えている。ほとんど、「やり通す」という意思だけで全行程を歩き切った。
剣術の稽古のときのことだ――。
「ジョシュア、絶対に耐え抜くわよ」
「当たり前だ。僕には守るべきものがある!」
ジョシュアの言葉に、スザンナの表情がかすかに翳った――“家族”を連想させる単語が出てくると、彼女は決まってそんな顔つきをするのだ。
――ジョシュアは斬り結んだ状態から木剣を旋回、左足の膝下へと剣尖を走らせる。そんな表情するなよ、不器用な彼なりの激励を込めた一撃だ。
途端、硬質な感触が返ってきた。スザンナが素早く下段に刃を合わせて受けたのだ。
刃風一颯、スザンナがお返しとばかりに振りかぶって斬り下ろしてくる。が、その一撃は前もって入り身していたジョシュアに押さえられてしまった。
「弛んでるぞ!」
一瞬、スザンナの表情が屈辱に染まる――刹那、笑みがその顔に広がる。
違和感を覚えた瞬間には、膝に衝撃が走っていた。
スザンナが木剣に意識が集中していたこちらの死角を突き、膝に蹴りを浴びせたのだ。
「……」と無言で悶絶する。それでも、彼女が手加減をしたからその程度で済んだ。でも、もうちょっと手加減してくれてもいいのでは……――。
本来なら、その一撃で膝関節が破壊されていてもおかしくない。それぐらい、怪物軀宿者候補者育成機関、魔術師協会特殊教導院の訓練は厳しかった。
怪我など珍しくもなく、死者が出たことすらあった。
そんな環境だったから、友人のスザンナの前ではともかく、ほかの人間の前では「負けない、僕とお前たちとじゃ背負っているものが違う」と、周囲の人間に敵意に似た感情さえ抱いていた――。
†
つまり、彼女にも何か背負うもの、あるいは重荷となっているものがあるということか――ジョシュアは自分の過去と照らし合わせ、アリスの言動からその胸の内をそう推察した。
でも、だからといって、他人に痛みの形で押し付けていい訳じゃない――仲間となって日は浅いが、違う形で背負ってやれれば……、そう考えかけてジョシュアは苦笑を浮かべた。
場所は例の廃屋を出た路地だ。欲しい情報を引き出して、引き上げてきたところだった。
「自分自身の過去に潰されそうな人間が、他人の闇を背負ってやれるはずがないじゃないか。……第一、僕に何か重要なことを成し遂げられるはずがない」
自然とそんな独り言がジョシュアの口からこぼれる。
5
――アリスもまた、町並みを歩きながら過去の記憶を甦らせていた。
父の顔は覚えていない。覚えているのは、彼の周囲には常に悲鳴や鳴き声が満ちていたことだ……当時ははっきりとは理解していなかったが、あれは常罪術者たる父親の犠牲者たちの漏らしていたものなのだろう。
幼くとも、アリスは己の父が何か非道を為していることをその聡明さから理解していた。
だからある時、夕食の惣菜を買って家に帰ると、床に胸から血を流して父親が倒れているという光景に遭遇しても、そんなに狼狽えることはなかった。
そもそも、彼の陥った状態は、散々他人に味わせてきたのと同じものだ。
報い、なのだろう――幼いアリスは、かすかに胸を震わせながらもそう思った。
その後、彼女は魔術師協会の教導院へと入学させられた。
……周囲に味方はいない。
軽蔑、嫌悪、忌避――そういったものに囲まれた。有形、無形の悪意がアリスに向けられる。
廊下を歩けば誰かにぶつかられ、持ち物は常になくなり、時には正面切って罵倒された。
それに対抗するには、結果を出すしかなかった――優秀さを示し実力で屈服する、それしか道はない。だがそれでは当然、友人や仲間に恵まれるはずもない。
孤立した――アリスはそれでいいと考えていた。
距離が近づくと傷つけられるのだ。それなら、一人でいる方が気楽でいい。
そして、見返してやるのだ。
父と真逆の――正義の執行者となり、自分を虐げてきた者たちを。
「一人であなたのような子供が出歩いてると、怖いおじさんに連れていかれちゃうわよ」
――ジョシュアの担当区域を出ていないところでふいに声をかけられて、アリスは鋭い一瞥をその源へと瞬時に向けた。
そこに佇んでいたのは、頭巾で顔を隠した不審な人物――いや、相手が素顔を露わにしたことで、その正体がスザンナであることが明らかになる。
が、その面貌はすぐに、かぶり直した頭巾に隠れた。
他に見受けられる人影といえばやや離れた路上の隅、廃屋じみた家屋の入り口の脇に座り込む長賢ぐらいだ。
彼は薬物を摂取しているらしくゆるんだ笑みを浮かべていた――王権戦争で顧客を失った闇の世界の住人が中立国家であるフレイヤ連合国に目をつけるのは当然の帰結だ。
……自分たちが社会を荒廃させ、なおかつそのツケを他人に押し付けるとは何と人間は醜いのだろう。それはともかく――。
「まるで、見張っていたかのようなタイミングですね?」
アリスは胸の内に秘めていた思いを牽制を込めて放った。が、
「ええ、そうよ」
事もなげにスザンナが頷くという行動を前に呆気に取られてしまう。あまつさえ、彼女は快活な笑みを浮かべていた。
その後ろめたさなど微塵も感じさせない堂々とした態度に、「……」と毒気を抜かれてしまう。
「――あなたこそ、その上背では子供に間違われてしまうのでは?」
「あら、言われてみれば、そうね?」
気を取り直して口にした皮肉も、当の本人が「あら、やだ」という感じで眉を上げてしまったことで完全に不発に終わってしまった。
やりにくい……――毒舌ひとつでどうとでもあしらえるジョシュアたちとは大違いだ。アリスは当人たちが耳にしたら数日は立ち直れないような思いを抱く。
「それで、なぜ私を見張っていたのですか?」
「だって、あなたとジョシュアって相性悪そうだから心配だったのよ」
険のある物言いにも、彼女は表情を改めて平然と応じた。……赤の他人、顔を合わせて二日目の人間に簡単に見抜かれてしまう自分の底の浅さにアリスは少し嫌気が差す。
「あなたって、自分が世界で一番過酷な生を生きてるなんて思ってるでしょ?」
「……っ」
――図星だった。屈辱にアリスはひそかに奥歯を噛んだ。お前の人生なんて軽いものだ、と間接的に告げられたような気分になる。
そんなこちらの様子から何を考えているのか察したのか、「ああ、勘違いしないでね」とスザンナは言葉を継いだ。
「別にあなたのくぐり抜けてきた苦難が大したものじゃない、とかそんな浅薄なことを言いたい訳じゃないの――そもそも、不幸を相対評価したところで、救われるのは自分が相手に比べて幸せだと思える人生を送っている人間だけ。他人を態のいいモノサシにして幸福を実感するなんてゲスのすることよ」
っと、話が逸れたわね、とスザンナ眉間に小さく皺を寄せて呟いた。
「『ジョシュアが、愛する家族を自身の意思に反してその手にかけた』って聞いて、あなたは信じられる?」
「――……」
思ってもみなかった台詞を受けてアリスは言葉を失う。
あんな甘いことばかり言う人間が――そう考えかけたところで、ハッと彼女は一つの可能性に思い当たった。
「多分、正解。彼、身の内の怪物を暴走させて、母親と妹を文字通り“その手”で殺したの」
スザンナの表情に沈痛の色が宿る。
その様子は嘘を言っているとはとても思えない。そんな様子少しも見せてなかったのに……――アリスはそう考えかけ、いやと否定する要素を記憶の中に見つけた。
植精土壌の巣窟と化していた集落で、とある子供や夫婦を手にかけたときのジョシュアの反応は今考えれば、他の者を手にかけたときとは違っていた気がする。
甘いことばかりいう人間だからそういうこともあるだろうと勝手に納得していたが、もしかしたら、あれは家族を殺したときのことを思い出してしまったのではないだろうか? ……だとしたら、彼は随分と酷な戦いを経たことになる。
「血豆をいくつも潰して、時には文字通り血反吐を吐いて、家の経済的困窮を解消するために彼は頑張った――その強固な意志のお陰か、史上初めて二種類の怪物をその身に宿した」
彼女は重い内容に耐えかえるように小さくため息をついた。
なのに、その怪物のせいで愛する者を殺すことになった。スザンナの言葉は、半ばアリスの耳を素通りする。
彼と私が、同じくらい過酷な環境で生きてきた?
そんな連想が浮かび、強い戸惑いを覚えて思考が鈍っていたのだ。
思ってもみなかった――あの太平楽な人物を自分に似た点があるなど。