世界を信じる
別のペンネーム、別の作品で某ライトノベル新人賞最終選考で落選したことがあります。
†
アリスは、部屋の寝台の上に一人寝転んでいた。その天井は、鋭く天井を射抜いている。沈思黙考しているのだ。
この旅路は危うい……――それが彼女が静かに抱いている危惧だ。
その原因は “偶然が重なりすぎた”こと、だ。
運悪く、橋の崩落に巻き込まれることもあるだろう。
常罪術者を追っているのだから、運命の悪戯で怪物軀宿者の巣窟と化した村に足を踏み入れることもあるはずだ。
だが、その二つが重なる確率は――?
限りなく低いはずだ。
短縮偏向思考というものがある。経験則や知識によって思考の近道を行うことをそう呼ぶのだ。
それ自体は悪でも何でもない――むしろ、短縮偏向思考が存在しなければ物事を一から十まで常に考えなければならず日常生活が成り立たない。
その中でも因果関係の短縮偏向思考がアリスの中で働いていた。因果関係が存在しない事象が世界には存在するが、それでも結果に対して理由を求めようとする人間の心理だ。
自分がそれに陥っているのではないか、とアリスは疑ってみる……――どちらともまだ判断はつかない。
だが、もし仮に先の二つの出来事が偶然ではなかったとすると、旅の面子の中に裏切り者がいることになる――脳裏に同行者の姿を思い描く。
まず、怪しいのはオースティンだ。いくら視界が悪くなっていたからといって、危急の事態に遅れてくる? 裏切り者だから、高みの見物を決め込んでいたのではないか?
次にティモシー。遠い異国の魔術を誰から学んだ? そんな伝手をどこで得た? 魔術師協会に敵対する勢力が送り込んだ間者ではないのか?
最後に、ジョシュア――彼が最も疑わしい。任務の途上で、偶然にも十数年顔を合わせていない友人と再会した? しかも、それが特務神官? ……余りにも出来すぎている気がする。
疑り深い性分の彼女の目には、橋の落下とジョシュアを追って足を踏み入れた村が怪物軀宿者の巣窟と化した集落だった事実を結びつけた瞬間――怪物軀宿者の掃討を終えて冷静になった翌日――から三人が要注意人物に映っていた。
そして一人、気を張っている。警戒しなければ、と……。
3
翌日、ジョシュアたちはスヴァルの市街地を移動していた――植精土壌の情報を聞き込むために、酒場などの人の集まる場所を巡っているのだ。
当然、そういう界隈は昼間でもお世辞にも治安がいいとはいえない。
そこに、善人面をしたジョシュアが歩いていれば、砂糖に群がる蟻のようにろくでもない類の人種が姿を現すのは当然の帰結だ。
しかも、効率を上げるために手分けして聞き込みをすることになり、ジョシュアの組んだ相手はアリスだった……善人面と小娘の組み合わせとなれば、もはや大声で金銭をせびる連中を呼ばわっているのと一緒だ。
――案の定、枝に並ぶ家屋が全体的に粗末で薄汚れた区画を通っていると、
「おい、“短命”」
決して友好的ではない声が聞こえてきた。しかも、短命というのは長賢族が人間につけた蔑称だ。
フレイヤ連合国でもか……――ョシュアとしては無視したかったが、進路に複数の影が立ちふさがったせいで立ち止まらざるを得なかった。相手は、二人は長賢だが残りの一人は人間だった。
最近では珍しくもない光景だ。聡明で争いを好まないのが長賢族の性質ではあるが、それでも例外は存在する。
スズリ王国とノルズリ帝国の争いにより住む場所を追われた者、職を失った人間が周辺国へと流れ込んでいる。そういった者にはならず者へと堕ちる連中も多かった。
そういった人種が、人間の悪人に比べれば他愛なかった長賢の不良たちに悪知恵を吹き込んでいるのだ。目の前の手合いもそんな手合いだろうと嘆かわしい気持ちでジョシュアは思った。
まだ子供といっていい外見の長賢――人間に換算すると、青少年ぐらいか? が、それぞれ刃物を取り出した。
最初から、獲物を無傷で済ませる気がないらしい。
ジョシュアは胸のうちでため息を漏らす。戦争が日常に対し落とす陰の罪深さを思った。だが、少なくともこれで手出しすることができる。
……彼は悠長に構えているべきではなかった。隣に立つ少女が、どれだけ気が短いか忘れるべきではなかったのだ。
「我は汝を召喚する。おお、フォラスよ、もっとも偉大なる万軍の主の御名によりて汝に命ず……」
呪文詠唱がすぐ側から聞こえ、ジョシュアは愕然となった――首を曲げてアリスのことを見たときには、魔神の召喚を終えていた。
「フォラス、叩きのめしなさい」
こちらが制止する間があらばこそ、偉丈夫の姿の人外は動いている。その姿が霞んだ――間髪いれず、腕がへし折れる音が連続した。
人間の青年が顔色を変えて刃物を取り出そうとする。早――魔神はその手を捕えていた。
異音……、哀れな犠牲者は声もなく苦悶する。
しかし、魔神が手加減などするはずがない。叩きのめすの定義が、単に暴力で抵抗力で奪うだけとは限らなかった。フォラスは相手の首に手のひらで包む――恐らく、へし折る気だ。
「止めさせるんだ、アリス!」
ジョシュアは彼女の肩を掴んだ。
刹那、アリスはこちらのことを睨む。やり過ぎだ、
「町で人死にを出してしまえば、任務に支障が出る」
思った言葉を飲み込み、彼女が納得するであろう台詞を選んだ。
「――フォラス、それ以上は結構です」
あと一刹那で足蹴にされた枯れ枝のような運命をたどるはずだった青年を、魔神はどこか名残惜しげに手放す。
恐怖が限界に達したのだろう、件の青年は失神してその場に倒れ込んだ。
長賢族の少年二人も、恐ろしさに彫像と化していた。
彼ら二人に、ジョシュアは歩み寄った――ビクリと震える長賢族を前に、羽根ペンと羊皮紙を取り出した。
近くの建物の壁に紙を押し付け、ジョシュアはすらすらと文字を綴る。
「日常が退屈、あるいは食べていくのに困っているのなら、こんなことは止めてここに行きなさい」
「……魔術師協会教導院?」
長賢の片方が反射的にという様子で訊いた。
――ジョシュアが書いたのは、魔術師育成機関である魔術師協会教導院への推薦状だ。
「君は長賢だ。人間とは比べ物にならない魔術の才を持っている。下らないことをしているくらいなら、ひとつのことに打ち込んでみなさい」
告げるや、先ほど言葉を発した長賢の手に推薦状を握らせた。今の台詞はジョシュアの嘘偽りのない言葉だ。
僕と違って君たちはまだ間に合う――。自分はもうダメだ。何も為せる気がしない。それでも生きているのは、亡き母と妹が自殺を許しはしない……己が生きることを望むを思っているからだ。
ジョシュアは声に出さずに呟き、踵を返してアリスの元に歩み寄った。
「行くよ」
こちらの行動に目を瞠っていた彼女の手を引いて、彼は歩き出す。
その心の中は決して晴れ晴れとはしていない。
彼らがこちらが用意した機会を生かしてくれるとは限らないし、例えあの二人がまっとうな生き方をしたとしても、前の戦争で乱れた世相の前では川の流れの小石程度の効果しか及ばない……。
†
スズリ王国と地母樹木を挟んでノルズリ帝国との間、中央の位置にある辺境伯領の領主の城において――。
「それで、例の植精土壌というのは使い物になりそうなのかね?」
食事の間において、長い卓を挟んで精力的な顔つきをした壮年の男――辺境伯は訪ねた。
金の刺繍があちことに施された衣装は、一貴族のそれではなく王の物に近かった。服装一つとっても、彼の内の野望が透けて見えた。先の王権戦争の幾度目かの衝突では王国を裏切って、帝国についた男だ。その欲望が人並みであるはずがない。
そんなことを考えながら、帝国の軍人であるシーモア男爵は口を開く。実直そうな顔、眉間には皺が刻まれていた――四六時中そんな表情を浮かべているから、警戒心や不快感ゆえのものだとは気づかれていない。
「実験を兼ねた策戦は順調だという報告が上がっております、辺境伯」
「ふむ、順調か――ということは、陛下の望みが叶う日も近いということ。その実現にかかわれるとは光栄の至りだな」
何が「光栄の至り」だ――嬉しげに口元を歪める辺境伯を前に胸の内で男爵は不快感を露わにする。
きっと、この男は今回の策戦の成功の暁には自分が中央に対してどれだけの影響力を振るえるようになるかを算段しているに違いない。
「これも閣下のお力添えのお陰です」
だが、口は勝手に動き追従の言葉を紡ぐ。
「何を言う――優秀な貴官が陣頭指揮を取ってこそ、この策戦は成功するのだよ」
謙遜を口にする辺境伯の目もまた笑っていない。こちらの腹を探っているのだ。場合によっては、その指揮権を何らかの口実を設けて奪い、成功をすべて己のものにするつもりなのかもしれない。
虚虚実実の宴はこうして一時間以上も続いていた。
「策戦の成功に」
「閣下のますますのご繁栄を願い」
腹に一物を秘めて、二人は盃を掲げた――葡萄酒が、これから流れる血を予見させて蝋燭の光に赤く鈍く光った。
4
治安の悪い区画の酒場で、ジョシュアたちは情報屋を名乗る人族の男に出会った。
また、カモにする気だな――相手の目を見て、それを読み取りながらも彼は“自称”情報屋の案内に従った。本当の情報屋でなくとも、裏世界の住人が相手なら欲しい情報を持っているかもしれないと考えわざと罠に飛び込むことにしたのだ。
――結果、廃屋らしき場所にジョシュアとアリスは案内された。
ジョシュアたちが部屋の半ばまで足を踏み入れたところで、下の階に続く出入り口から一人、二人と男たちが姿を現す。彼らの手には、短剣が握られていた。
呼応し、ジョシュアも小剣を抜き放つ――この町で購った物だ。
情報屋が隠し持っていたナイフで猛然と襲いかかる。ジョシュアは入り身し、彼の得物の刃を剣身で上から抑えた。情報屋は顔色を変え後退する――ジョシュアは小剣を水平にし、切っ先を相手の顔面につけた。
大した腕の連中じゃない――その事実を、彼らの足運びなどからジョシュアは看破していた。
異国の街中で、それも常罪術者追討の任務の最中だ、自分が怪物軀宿者であることは隠しておくために彼は能力を使わなかったのだ。
……が、そんな彼の努力はまたも水泡と化すことになる。
突如、アリスの呪文詠唱が聞こえたのだ。
「制圧しなさい」
こちらが止める暇があらばこそ、彼女が召喚した偉丈夫の魔神は命令に従って疾風と化した。
骨の折れる音、悲鳴、短剣が床に落ちる音、罵声――そして再びの絶叫と刃や柄が床板を叩く音。ほとんどそれらの出来事は一瞬だ。
それぞれ利き腕をへし折られた男たちが涙を流しながらうずくまる。
「――」
「フォラス、そこで止めなさい」
こちらが口を開きかけた途端、アリスは魔神に命じた。これで文句はないでしょ、そんな目で彼女はこちらを見る。
ジョシュアは呆れて物も言えず、無言で首を左右に振った。何で、君はそんなに暴力的なんだ?
彼が剣尖を向けている自称情報屋は顔を真っ青にして硬直していた――そんな表情の人間を一日に二度も見ることになるとは夢にも思わなかった。
でも、気持ちは分からなくはない。ジョシュアだって、アリスのことが少し怖く思える。……ウソだ――正直、物凄く怖い。
「あなたたちに質問があります――答えなければ、その都度、全身の骨を一本ずつ折っていきます」
彼女はそんなこちらの心中など察することなく、うずくまる男たちの方へ歩み寄った。
「うるせぇ、誰が――」
「フォラス」
男の一人が罵声を発した瞬間、アリスは一切の躊躇を見せず魔神を促す。
刹那、魔神はうずくまっていた男の足を踏みつけた――異音と悲鳴が重なる。仰け反った男を前にしても、アリスは眉一つ動かさない。
「あなたもこうなりますか?」
もう一人に向かって彼女は冷たく尋ねた。
「……」
彼は無言で首を小刻みに左右に動かす。
いくらなんでもやり過ぎだ――ジョシュアは、自称情報屋の男が恐怖で身がすくんでいるのを確認し、構えを解いてアリスへと近寄った。
「アリス、君の行動はいくらなんでも度が過ぎている」
顔つきを険しくして告げる。
確かに彼らは悪人だ――もしかしたら、最悪、ジョシュアのように強くなければ物言わぬ骸となってここに転がることになっていたかもしれない。
だが、実害が無かったというのに、戦意を失った相手に重傷を負わせるのは非道が過ぎる。
「――この町、及び周辺の集落で人が行方不明になった事件はありませんでしたか?」
こちらの言葉を無視し、彼女は質問を続けた。
「アリス!」
ジョシュアは片方の手を剣から離し彼女の肩を掴む。
途端、アリスの鋭い眼差しが突き刺さった。
「悪人が報いを受けるのは当然です。この手の輩のことです、人の一人や二人は殺しているでしょう? そういった人間のことを考えれば、この程度は軽いぐらいではありませんか?」
「彼らが殺人を犯していたとしても、君にそれを罰する権利はない。自衛以上の暴力を安易に振るうべきじゃない」
ジョシュアは怒りを感じながらも、こちらを見つめる少女の眼差しのゾッとするとうな冷たさに背筋に寒気を覚える。
ただ、その感触は恐怖ではなく、悲しみを彼の心に生んだ。
この年頃の娘がこんな目をしなければならない……、その事実がやる瀬ない。剣の柄を握る手から力が抜けた。
「文句が有るというのなら、この場で別れます。集合場所で落ち合うということで。どうぞ、お好きなようになさって下さい」
アリスは語気を強めてそう言うや、こちらの手を払ってその場から去っていった。少女の背中は、毛を逆立てた獣を思わせた。
彼女につき従い、魔神も姿を消す。
「……」
それらを見送ったジョシュアはため息をつき、改めて床に倒れている男たちに目を向ける。
「答えます、何でも答えますから!」
先ほど足を砕かれた男が、情けない声音でそう訴えた。
少し前までは、自分たちを痛めつけて金品を巻き上げるつもりだっただろうに――人間の心変わりの早さに、ジョシュアは何だか情けない気持ちになる。
でも、僕にもあんな頃はあった――ふと、そんな思いがジョシュアの心に浮かぶ。
その言葉に触発され、普段は蓋をしている追憶の扉が開いた……。