世界を信じる
別のペンネーム、別の作品で某ライトノベル新人賞最終選考で落選したことがあります。
ぜひ、お楽しみください。
5
――時はジョシュアが深更に目が覚めた後に戻る。
こちらの不意を突いたのは、何と恩人であるローラだった。そして、その背後には夫のベンジャミンが続く……。
だが、相手が間近に現われたことでさらにジョシュアは驚愕の光景を目の当たりにすることになった。
眼窩から――。
「根が……」
飛び出しているのだ。首筋には根の一部や瘤らしきものの盛り上がりが存在した。
どうして――昼間は異常などなかったというのに、と考えかけたところで脳裏に閃くものがある。
(――『それによると、村の人間の眼窩から植物の根が飛び出し、身体のあちこちが瘤のようになって膨れていたそうだ。そこから、怪物軀宿者と見られる者たちを植精土壌と呼称することにした』)
“任務”に就くにあたって魔術師協会の上司から告げられた言葉だ。
――ジョシュアに悟られずに村の人々を怪物に変えることは不可能に近い。となれば、
手遅れだったのか……。
ということになる。彼が村に現われた時点で、村人の大半が既に“汚染”されていたのだ。
全身を虚脱感に襲い、視界が暗くなったような錯覚を覚えた。
自分自身が危険な目に遭うのはいい。打撲、裂傷、火傷、どんな傷を負っても――その末に死んだとしても構わない。しかし……しかし、他人が苦しむ姿は見たくないのだ。
やはり、僕には何も為せないのか――。
だが、現実は人間が絶望しようが嘆こうが変わることがない――背後から襲われてから思考を働かせた時間は三秒もかかっていないが、それでも相手が再び攻撃しているのに足りる時間ではあった。
――ローラとベンジャミンが掴みかかるようにして襲いかかる。
瞬時に躱す。体を入れ替えて指先一つ触れさせることなく。
しかし、相手は呆気なく避けられても飽きることなく突進してくる――しかも、夫婦と同じく身体に根を張らせた村人たちが着々と包囲の輪を縮めつつあるのだ、逃げているだけでは早晩行き詰まることになる。
自分が今まで幸運だったことが思い知らされた。目の前こんな風に大勢の人間が常罪術者の犠牲になっている光景に遭遇したことがなかった。しかも、そんな人間たちをみずからが斃さねばならない状況に陥ったことなど――。
「……く」
苦しげな呻きがジョシュアの食い縛った歯の間から漏れた。
彼らを手にかけなければならないのか? 余所者の自分を助けてくれた親切で善良な彼らを?
ジョシュアは深い苦悩に、表情をより一層歪める。
だが、残された時間は余りにも短い。あと一〇秒以内に夫婦以外の者もこちらを間合いに捉えるはずだ。
戦うにしろ、逃げるにしろ、彼らを傷つけずに済ますことは不可能だった……。
――刃風一颯、兇刃が彼に振るわれた。植精土壌とおぼしき村人が斧を持ち出したのだ
とっさに、ジョシュアは左手に移植された氷界病魔の手、氷魔擬手に意識を集中した。
氷盾屹立。刃が届く寸前、彼の眼前に手のひらを合わせたほどの厚さの氷の壁が出現、盾となって防いだ。硬質で耳障りな音が耳朶を叩く。
地面から屹立した氷壁を利用し、ジョシュアは斧を持った相手から遠ざかった。攻撃を仕掛けにくいよう右側へ。
――だが、それは根本的な問題解決になっていない。
くぅ――呼吸をやや荒くしながら、ジョシュアは胸の内で呻いた。彼が立つのは、集落の家々の中央付近だ。つまりは、村を出ようと思えば一番時間を要する場所にいることになる。
しかも、四方八方を眼窩から根を飛び出させた村人たちが迫ってきていた。各々の手には、包丁や鍬、斧などといった凶器が握られている。
――風を切る音が聞こえた。
氷盾屹立、飛来しら影を氷の壁が弾く。斧だ――先ほど斬りかかってきた男が得物を投擲したのだ。
が、先ほどと違い攻撃は単発では終わらず、同時に包丁を突き出して中年の女が猛然と突進してきた。乱雑な足音が鳴る。
見破られたのか、単なる偶然か――とにかく、ジョシュアにとっては歓迎できる事態ではない。
氷の壁は二箇所同時に出現させることはできないのだ。苦渋を噛みしめる。せめて寸秒でもズレていてくれたら。
包丁の切っ先が眼前に迫った――電光石火、ジョシュアは身を捌くや相手の手を取り、投げる。
女の勢いがあったせいで、投げ技にも余勢がついてしまった。彼女は子供の投げた玩具のように地面に叩きつけられる。
ぐ、ぅ、という相手の漏らす呻きと肺から空気が絞り出される音が混じったものがジョシュアの耳に届いた。……苦い思いが込み上げてくる。
脳裏に嫌な記憶が甦りかけるのを必死に意思の力で抑えた――。
そこに今度は鍬が飛電と化して肉薄する。
氷盾屹立。氷壁が屹立、回転する鍬を受け止めた――かに見えたが、出現した氷は明らかに薄くなっており勢いを殺し切ることが出来なかった。集中力を欠いたせいで、能力の制御が甘くなったのだ。
結果、硬い音を立てて氷の壁は砕けた――鍬の軌道は逸れたが、破片がジョシュアの顔を打つ。痛み以上に、自分の心の脆弱さに対する懊悩が表情を歪めさせた。
そもそも、多大な犠牲を出したというのに、彼は未だに怪物軀宿者としての力を全て精神的なものが理由で出し切れていないのだ……。
情けない――その一言だ。
姿勢が崩れた所を鎌を持った老年の農夫の一撃が襲う――回避。身体が倒れる働きと、これを防ごうとする体幹部の機能の協調作用、武術独特の尋常の動きを無視した動作で躱した。縦横無尽に素早く動く。
しかし、それにも限度がある。閃、閃、閃と立て続けに他方から凶器を振るわれれば避けきれなくなるのだ……二の腕や胸に裂傷が刻まれた。どうして、この人たちと……――悲しみとやり切れない思いが込み上げる。
視界の端、数メトールの場所で斧の投擲動作に入った中年の男の姿をジョシュアは認める。
マズい――連続攻撃に織り交ぜられた間合いの外からの攻撃に対し背筋が寒くなった。
世界の動きが速度を失う……引きのばされた時間の中で、振るわれる兇刃が反射する月の光が形を変える様がはっきりと観察できる。
このままでは躱せない……、ジョシュアは選択を迫られた。常に選択肢は提示され続ける。生きている限り。
仕方がない――その思いと共に、攻撃の回避を続けながらも吸血擬手に意識を集中した。
直後、右手が消失する――目を凝らせば捉えることが出来ただろう。吸血擬手と同じ質量を持った霧がジョシュアの手首の先、斧を投じようとしている男の元へ移動していくのが。
怪異霧化。吸血鬼の能力の一つ、軀を霧と化す能力をジョシュアも使えるのだ。
ただ――喉が渇く。彼は強烈な渇きに襲われた。それも、水や葡萄酒で癒される渇望ではなく、血によってのみ贖われるものだ。吸血鬼の能力の使用は、ジョシュアに吸血衝動を生じさせる。
これを無視していると、彼は発狂死することになるのだ。
――霧が件の男の元に達する。彼に握られた斧の柄、右手と左手で掴んだ部分の中間を手中に捉えた。途端、尋常ではない握力によって木製の柄は砕ける。
得物を投擲しようとしていた農夫は突然のことに勢いを殺せず転倒した。
――ジョシュアに正常な時間の流れが戻ってくる。
しかし、それは事態の好転を約束はしない。血を補給しなければ発狂するが、それを周囲の村人たちが許してくれるとも思えなかった。
吸血擬手が再び霧と化して宙を移動し、手元へと返ってきた。手首に繋がる……次の瞬間、全身を掻き毟りたくなるような衝動が湧き起こってくる。
吸血鬼が手首から先だけになって尚、血の渇きを訴えているのだ。
耐えがたい渇望のせいで、村人の首筋に噛みつき思う存分、血を貪りたいというおぞましい欲求を覚える。僕は化物と変わらない――。
……内なる戦いのせいで、回避が僅かに疎かになった。脇腹を、今までよりも深く農婦の振るった包丁が裂く。
苦痛に息が詰まった――それで、さらに動きが鈍った。
肩口を無視できない深さで斬られる。
このままでは本気で殺されるッ、ジョシュアはだがそれでも村人たちへの攻撃を決断できない。“普通の人間”をその手にかけるということに、自分の命を天秤にかけてさえ躊躇いを覚えるのだ。
――ついに破局はやって来る。
足がもつれたところに、農婦の包丁の一撃が首筋に向かって走ったのだ。
避けられないっ――そう思った瞬間、視界を猛烈な勢いで何かが過ぎった。同時に、農婦が視界から消えている。
吹き飛ばされたのではない。瞬時に風化してしまったように、粒子状になって四散したのだ。
これは……――と状況を理解しようとするジョシュアの視界で、彼を救った“モノ”がさらに村人を屠る。
それは漆黒の巨大な牡牛だった。山羊のような捻れた角を持つその姿にジョシュアは一つの答えに思い当たる。
ザガム――角に触れた対象を物体の最小構成単位である原子へと分解する能力を持った魔神だ。
もちろん、その辺を自然にうろついているモノではないし、こんな風に都合よく人を助けてくれるはずもない。
「ジョシュア、無事か!」
視線を走らせていると、視界に村人の包囲網の外から駆け寄ってくる人影に目が止まった。
新たな人間の出現に判断が追いつかないのか、その場の老若男女の動きがぎこちなく止まる。
――人影、ティモシーが包囲網の外縁部の者に駆けより様、刀を鞘走らせた。
銀光が走る。真下という死角から肉薄した一撃を、剣技の心得のない者に躱せるはずがない――鍬を手にした若い農夫が、腕の根元を深々と斬られ農具を取り落とした。
ティモシーの動きは止まらない。すかさず、二の太刀を進路上にいた包丁を持った女に見舞った。立て続けに指先を複雑に折り曲げ動かす――印を結ぶという東洋流魔術の発動動作だ。
「臨・兵・闘・者――」
瞬く間に術を完成させる。途端、ティモシーの姿が三つに増えた――分身の術だ。
三人の増えた彼らは同時に三条の光芒を走らせる。血路を開いてティモシー本体、そして後ろに続くアリスが近づいてくる――ジョシュアを助けに来てくれたのだ。
だが、当の本人は決して諸手を上げて歓迎することは出来ない。
自分を助けるために人が――死ぬ、死ぬ、死ぬ、次から次に死ぬ。ティモシーに斬られ、ザガンに分解されて。
ジョシュアは眩暈に似た感覚に襲われ、吐き気を覚えた。
「大丈夫か?」
ついに手の届く場所にまで到達したティモシーの問いに、ジョシュアは無言で頷く。気分が悪くて、口を開くと吐いてしまう気がしたのだ。せめて、まだ無傷の人間だけでも助ける方法は……何とか助ける方法はないのか?
こちらの心中を長い付き合いから察したのか、
「莫迦か、お前は――もう、こいつらは人間じゃない。人に戻すことは不可能だろ」
ティモシーは鋭い叱責をぶつけてきた。
この間にも近づいてこようとする村人がいたが、
「ザガム、近づけないで下さい」
というアリスの命に従った魔神の突進に蹴散らされた。軀に向かって突き出される農具や刃物は、触れようとした瞬間、獣毛に覆われた皮膚が金属と化して弾く。
「このまま放っておけば、村に迷い込んだ人間が犠牲になるんだぞ!」
再びのティモシーの叱責。
……分かっていた。本当は。
村人が救われる訳ではない。自分が手を出さなかったところで。ただ、己がこれ以上、罪を背負うのを厭うていただけだ。
ジョシュアのように最初からそう意図されていたのならともかく、村人たちのように人間の意思を失わない工夫が為されている様子のない怪物軀宿者は人の心を取り戻すことはない。
――覚悟を決める。逃げ回るのは止めだ。物理的にも、精神的にも。
刃風一颯、包丁が迫る気配をジョシュアは察知した。
氷牙貫通。氷魔擬手の能力を発動させる。
包丁を振りあげていた小さな影――村の子供の一人が、地面から生えた一抱えもある氷の錐に貫かれた。
……腹部を貫通され身動きできなくなったのは、自分を川岸で見つけてくれたニコルだ。
虚ろな表情になって脱力した彼を前に、ジョシュアは目を見開く。衝撃で一瞬、頭が真っ白になった。次いで、哀しみと抑えきれない怒りが湧き上がってくる。
「――ァ、アアアアア!」
感情が雄叫びとなって口から溢れた。
ジョシュアは懐から栓をした試験管を取り出すや開封、口を右の手のひらへと押し付けた――犬歯の発達した歯並びの口が、突如として皮膚に現われ一滴残さず血を飲み干した。
――ぴたりと渇きが収まる。これで、渇望感に悩まされることなく戦える。
腰の小袋から鉄球を取り出す――猛烈な速度で、吸血擬手が弾いた。空気を裂いて猛烈な速度で小さな鉄の塊は飛び、立て続けに村人の頭蓋骨を砕く。
命の恩人を手にかけたのだ。これ以上の罪があろうか? 後は誰を手にかけたとしても一緒……。