世界を信じる
別のペンネーム、別の作品で某ライトノベル新人賞最終選考で落選したことがあります。
5
その噂が聞こえて来たのは、スザンナの追跡を開始して三日目だった。
“異変”が起きているというのだ。
「樹が、幹が、枝が、化物になって襲いかかってきた!」
というものだ。
“樹”という単語に、旅の途上で行き合わせた徒歩の行商人を前に、ジョシュアたちは互いに視線を交わした。
植精土壌――を連想したのだ。
幹、枝という言葉が何を指し示すかは現状では分からないが、戦いが近いことは確かだ――話を聞きだした商人は顔面蒼白で一刻も早くこの場から離れたいという心情らしく、不明瞭な言葉を幾つか吐くや去ってしまったのだ。
それぞれの顔に緊張が走る……。
夜、宿の部屋割りが、スザンナが居なくなったことで二対二ということになった。
その内訳は、ジョシュアとアリス、ティモシーとオースティンというものだ。その言葉を聞いたアリスの耳を、「明日が楽しみだな」「精々、楽しめよぉ」という廊下を挟んで対面の部屋組みの言葉を素通りしていく。
心臓の鼓動がうるさくて、人の言葉が雑音にしか聞こえない。
――その動揺は最高潮に達していた。寝台に横なった瞬間から。
全身が聴覚を得たように、ジョシュアが寝返りを打つとき衣擦れの音、寝言の手前のくぐもった呟きといったものをアリスは敏感に察した。
……というか、寝台に入って早々にジョシュアは寝入ったことに気づいて肩すかしを喰らう。悶々と、一時間も身体のほてりに羞恥を感じながら耐えていたことがバカらしくなる。
この唐変木ッ! 思わず、声に出さずに怒鳴った。
アリスは乱暴に藁布団を撥ね退けて、寝台の上で起き上がって彼に向き直る。
――小さな異変に気づいた。
うつむけの姿勢で顔をこちらとは反対側に向けた彼の口から、小さな苦悶のようなものが漏れている。
極度の緊張のせいで、彼の漏らす声が具体的に何を意味するか考える余裕がアリスにはなかったが、怒りでそういったものが吹き飛んで、分析する冷静さを取り戻した。
そっ、と寝台を降りて、彼の枕元、顔の方へと回りこんだ。
眉間の皺が、まるで彼を苛む傷口のように見える……。以前にも、野営していたとき悪夢を見ていた彼は、こんな風にしてうなされていた。あの時と同じだ。
「シンシア……すまない」
まだ、“囚われて”いるのだ。
“責め”を負うことを止めることを了承したが、それですぐに解放されるなら、延々と苦しんではこなかっただろう。
救いを求めるように、ジョシュアが手を伸ばしてくる。その手を、彼を説得したときと同じく握った。
ただ、前回と違ったのはもう一方の腕を、彼の背中へと回したことだ。
そして、耳もとに口を寄せる。
「あなたを赦します」
その言葉を発した途端、ジョシュアの表情が和らぐ。
それに、あなたが好きです――。
告げようと思って、でも無理だった。相手は眠っているというのに。
ジョシュアを唐変木と責めることはできない。
私も臆病者だ――ずっと、他人に強く当たることで、他者を拒絶することで自分を守ってきた。
でも、彼と出会えて自分は変われた気がする。
出会ってからの時間は短かったけど、ジョシュアの不器用な優しさ、危なっかしいほどのがむしゃらさには心を動かされた。
……実を言うと、声を上げて笑ったのは彼と出会ってからが初めてだ。
†
――ジョシュアは黄金に輝く液体の中を、人が全力で泳ぐのに匹敵する速度で流れていた。彼の前方、〇・数メトールも離れていない場所を、人魚の姿をした魔神ヴェパールが豊かで悩ましげな胸もとを脇の辺りなどから覗かせながら泳いでいる。
その格好は、魔術で生み出された強化ガラスが嵌め込まれたフルフェイス型のマスクをつけ、巨躯海魔の皮膚を利用して生み出された潜水具潜水防皮をまとい、水棲馬の鰭を加工した物を足に装着したものだ。
場所は、地母樹木の“幹の中”、だ。
正確にいうと、根、幹、枝、葉へと通る直径一メトールの“脈”の道を移動している。水や栄養を運ぶための道を利用し、ジョシュアたちは地母樹木の下部から要塞都市ヴィーズへの侵入を実行中なのだ。
それを可能にしたのは、豊富な魔力を帯びた地母樹木の樹液の影響――軽くて酒気を帯びたときの酔いに似た症状、重ければ気絶――から着用した者を守ってくれる巨躯海魔の皮膚を利用した潜水防皮と、アリスが召喚し使役しているヴェパールの案内のお陰だ。
ヴェパールの能力がなければ、強い流れの中を分岐点で自在に目的の方向に曲がることなど叶わず、また現在、どの地点にいるかも把握不能だ。それに、樹液の中で呼吸できるのは、液中の酸素を魔神が集めてジョシュアたちの口へと運んでくれるからだった。
ジョシュアは、地に足がつかない心地でいる。それは、樹液の中を泳いでいるせいばかりではない。スザンナ、かつての学友と巡り合えるかどうか、常罪術者を討てるかどうか、懸念と焦慮が入り混じった思いを抱いていた。
できれば、老従士のように死なせたくはない……。
もう少しだ――人魚の姿の魔神が、肩越しに蠱惑的な眼差しを向けてきながら事前に打ち合わせていた合図を手で送ってくる。
ついにか――ジョシュアの不安が一層高まった。それでも、選択肢は“やる”ということ以外にない。事態を放置して好転することなど、人生そうそうないのだ。
――ヴェパールが尾を動かす速度を上げ、数十メトール先行する。
ジョシュアから見て小さくなった魔神が、離れた位置で身体を流れに逆らって器用に反転させ停止する。
途端、腕を一閃。粘性を持った液中とは思えない速度で振るわれた繊手、その動きに従って樹液が鉄砲水の如き速度で動いた。樹の一部が破壊され、人が通れるほどの大穴が開く。
――その地点にジョシュアが流れて到達した。彼が身体を動かすまでもなく、魔神の魔術によって自然と慣性が殺され、向きも瞬時に調整される。足先から彼は大気中へと飛び出した。
そこは地母樹木に数ある枝の一つ――要塞都市ヴィーズを睥睨する位置の上だった。
ここが要塞都市ヴィーズ……――長賢族秘伝の地母樹木操作技術により、特殊な形で成長した枝の表面が、都市全体を箱型に覆っていた。
その高さ十八メトール、業火を除けば鉄壁の守りを果たす樹の壁だ。
感慨や心配は尽きないが棒立ちになっている時間はない、ジョシュアは前へと数歩踏み出し背後を振り返る。
刹那、アリスが爪先から飛び出してきた。漆黒の潜水防皮を着用し、顔をマスクで隠していても体型で分かる。
ジョシュアは近寄って彼女が立ち上がるのに手を貸した。
「ありがとうございます」
「……どういたしまして」
虚を突かれて一瞬言葉に詰まる。
彼女の礼の言葉を、この旅で初めて耳にしたのだ。思わず口もとが弛む――少し、胸の内が軽くなった。
「なんですか?」
「こっちこそ、ありがとう」
思わずジョシュアが口にした言葉に、
「――訳が分かりません」
アリスが照れ隠しに思える尖った声を出して前へと移動し、こちらに背を向ける。
ジョシュアもその近くへ移動し、次の仲間を待った。――そう経たずして、オースティン、ティモシーも穴から飛び出してくる。
そうして、たった四人の戦力が揃った。彼らは、背中に固定していた防水荷袋から装備を取り出す。
植精土壌の巣窟と化しているという町では余りにも少ない人数だ。
だが、帝国と共和国の衝突が近いせいでフレイヤ連合国全体が警戒を強めている――そのせいで、魔術師協会が人数を動かせず、結果として四人での決死行となったのだった。
他にも理由はいくつかある――まず、魔術師協会が自分たちの領分に国が踏み込むことを嫌い、国家の中枢へ事態の情報を隠匿した。ために兵の派遣はない。
さらに、援軍要請がいったとしても、他国の介入を避けたいフレイヤ連合国は派兵の受け入れを渋るだろう。
ジョシュアたちの行動は、無謀としか言いようがない。
常罪術者を殺せば、配下の植精土壌が死滅するとその魔術の特性をアリスが分析したが、それ事態がこの状況では困難だ。
だが、利点もある。
スザンナを翻意させることに成功すれば、魔術師協会に対して彼女のことを秘匿することで罰を受けさせずに済む。
――皆が自分を見ていることにジョシュアが気づいた。彼がまず踏み出すことを求めているのだ。この戦いに対する意気込みを知っているから。
「行こう」
ジョシュアは小さく頷き、決然とした表情で移動を開始する。
仲間がいる――改めて彼らを視界に収めたことで、失敗への懸念が抑えられた。




