世界を信じる
別のペンネーム、別の作品で某ライトノベル新人賞最終選考で落選したことがあります。
ぜひ、お楽しみください。
3
ティモシーの背中を見送ったジョシュアの脳裏には、“赦し”という言葉に触発されて一つの記憶が甦っていた。
特殊教導院に所属していた頃の話だ。
ジョシュアは、赤い斑点を持つ血玉髄の指輪を細い鎖で首元に吊るしていた。
父の形見だ――大事にしてないはずがない。
それをある日、失くしてしまったのだ……原因は、スザンナにあった。
その頃、ジョシュアは成長期で身長が日増しに伸びていた――結果、身体の重心が変化して、どうも上手く格闘をこなすことができなくなっていたのだ。
武器を握っても、素手で戦ってもしっくりこない……軽い不調状態に陥っていた。
“軽い”といっても、それは他人から見ればだ――厳しい教官たちでさえ理由は理解しているため、焦ることはない、と言ってくれていた。
だが、当時のジョシュアにとっては焦りを抱くなという方が無理だ。
母と妹――ひいては、伯爵家そのものを背負っている。その思いは、火に薪を次々とくべるように焦りの熱を上げていった。
――そんなあるとき、ジョシュアは教導院の敷地、周りを林に囲まれた一角に置かれた長椅子に座って父の指輪を首元から外してぼんやりと眺めていた。
そうしていれば、亡き父がアドバイスをくれるような気がしたのだ。
しかし、当たり前だが、他界した者が何かを語るはずはない――ただ時間だけが無為に過ぎていく。それでも、何も考えずに済んだという点ではジョシュアにとっては多少の救いになった。
が、突如として影が視界を横切る――手もとから指輪が消えた。
「なーに、たそがれてるのよ。ジジクサイわよぉ」
スザンナが側らから悪戯っぽい表情でこちらを覗き込む。
――ジョシュアは思わず立ち上がって彼女から指輪を奪い返した。親しい学友が相手でも、形見をそんな軽々しく扱って欲しくない。
む、とスザンナの表情が不機嫌なものになった。
しかし、その場では彼女もそれ以上は何もしようとはしなかった。
だが、後で彼女から聞いた話だと、背を向けたジョシュアの後ろでスザンナは悪戯を思いついて意地の悪い表情を浮かべていたということだ。
そして次の日、寮の机の上に置いていた指輪が消えていた――その時は知る由もなかったが、気配を消すのが上手いスザンナが忍び込んで盗んでいったのだ。
彼女の意図としては、それを顔を合わせたときに見せて驚かせようとしたらしい。
だが、誤算があった。盗み出した指輪を、訓練の合間に外で改めて観察していたところ、突如として飛来した鴉に奪われたのだ。
このとき、「心臓が凍りついた」と彼女は後に言った。
当然、指輪を失くしたジョシュアは動転し、幾ら探しても見つからないことが分かると酷く落胆した。その打ちひしがれた姿を見て、スザンナは胸が締め付けられる思いがしたという。
そして、ついに彼女は決意する。自分が指輪を盗み、紛失してしまったことを。
――呼び出しを受けて、先の林の中の長椅子の場所にジョシュアが向かうと、不安げな顔つきをしたスザンナが待っていた。
そして、弾みをつけるようにしてこう言った。
「ごめん、指輪はあたしが盗み出して、失くしたの!」
それを聞いた瞬間、ジョシュアは彼女を殴りつけたい衝動に駆られた。……だが、そんな気は雲散霧消してしまう。彼女が泣き出すのを見て。
涙を流してしまうほどに悪いと思い、反省している――そんな少女を責めることはできるはずもなかった。
「いいよ――仕方ないだろ」
強がり混じりの笑みで告げると、スザンナは満面の笑みになってありがとうと言ったのだ。
そう、あのときも彼女は赦しを欲していた。
そして、自分はそれを与えたのだ。
だったら、もう一度……。
†
――タイミングを計ったように戸を叩く音がした。
「空いてる」入室を促すと、「失礼します」と言ってアリスが姿を現す。
ぷっ、とジョシュアの口から笑いの切れ端が音になって漏れた。自分のことを心配して代わる代わる訪れる彼らが可笑しかったのだ。
……アリスが眉間に皺を寄せるのを見て、ジョシュアは内心慌てながら神妙な顔をする。何しろ、恋愛方面の話でからかったらついには魔神を召喚した娘だ――かんしゃく持ちの老人を相手にするより気をつかう。
「スザンナはあなたのことを心配していました」
「……」
アリスがそんな言葉を口にするとは思わなかったから、ジョシュアは目を丸くした。
「スヴァルの町で、『あなたとジョシュアって相性悪そうだから心配だったのよ』と言って、一人になった私の前に姿を現しました」
そこで、アリスは何か言いにくいことがあるのか、少し間を置く。
「そして、あなたの“過去”を聞かせてくれました。あなたを軽視する私の考えを変えたかったんだと思います」
道理で、とジョシュアは得心がいく。頑なだった彼女の態度の変化の一端はそこにあったのだ。
以前に比べて、彼女のジョシュアに対する風当たりは確実に弱まっている。
「それに、『まるで、見張っていたかのようなタイミングですね?』と嫌味を投げかけると、『ええ、そうよ』と彼女は答えました――今思うと、意識的にか無意識の内にかは分かりませんが、自分が間者であることを見破って欲しかったんだと思います」
――妹の面影が重なる。自分を気づかう少女の姿に。性格はまったく異なるが、人を思いやる姿勢に相違はなかった。
胸が熱くなる。そして、その熱は肌までもほてらせた。
「――どうして、君はそこまで僕に対して気をつかってくれるんだい? ティモシーは分かる、付き合いが長いからね。でも、君は……」
「巨大な蝉の植精土壌から私を助けてくれました。それに命をかけてまでも、赤の他人を守る姿に心が動かされたんです。正直、今でも馬鹿らしいという思いはありますが――」
こちらの言葉を遮って、やや上擦った声で彼女は告げた。その黒い肌が朱に染まり、やや息が浅く速くなっている。
「ただ、臆病なだけだよ。僕は、“もう”誰かが無慈悲に死ぬのを見たくない」
「それでも、命をかける姿勢は立派なものだと――」
「命をかけるのは、僕が生きていることに価値を感じていないからだ――失ってしまっても惜しくないから、危地に飛び込むことができる」
真っ直ぐ過ぎるアリスの言葉のせいで、ついにジョシュアは口を滑らせてしまった。彼女の、太陽を直視したときのような眩しさに目がくらんだからだ。
――アリスの双眸が見開かれる。
そんな思いを背負って生きてきたんですか……。
掠れた囁きが彼女の口から漏れる。
ジョシュアはどう答えたいいか分からず無言で応じた。
一度、アリスは目を伏せた。何かを思い出しているような顔つきだ。そして、再び視線を上げたとき、彼女の瞳には強い意思の光が戻っている。
ジョシュアは、少女の心の強さには驚嘆さえも覚えた。
誰にでもできることではない。途方もない“重い”言葉さえ受け止めるという行為は。つい、話題を変える、なかったことにして“逃げて”しまうものだ。
「私の父は常罪術者でした」
彼女が発した言葉に、ジョシュアは表情筋を強張らせる。まさか、アリスが自分から過去を明かすとは思わなかった。
「ですから、懲罰術者に“討たれ”ました――そのことを恨みはしません。父が私に愛情を注いでくれたのは、闇の妖精との混血故に生まれ持った魔力が大きいためでしたし、罪もない人間を捕まえて人体実験を行っていましたから」
でも、と彼女は言葉を継ぐ。その吐息は苦しげだ。
「私は常罪術者ではありません。人間である私には親を選ぶことはできませんでした――なのに、何故“常罪術者の娘”と蔑まれ、罵られなければならなかったのでしょうか?」
アリスの表情は血を吐くようなものに変化していた。
ジョシュアは背筋に寒気を感じた――“生まれ”故に彼女が舐めてきた辛酸を思うと。同時に、胸が締め付けられる。
「“不条理”を私は背負わなければなりませんか? 生まれ持ったものとして諦めなければなりまえんか? それが定めだからと、受け入れなければいけませんか?」
「――そんなことはない!」
ジョシュアは思わず大きな声を上げていた。アリスは赦しを求めているというのに、まるで死んだ妹に責められているように感じたのだ。
「では、あなたも理不尽な責めを受けるのを止めて下さい。あなたが命が惜しくないのは、無意識の内に自分自身を罰しているからです――私には分かります」
「それは――」
ジョシュアは話が違うと告げようとした。が、
「いいえ、違いませんッ。戦争がなければ、あなたが怪物軀宿者になることは――家族を手にかけることはなかったはずです! ……もし、贖罪をしたいというのなら、死を望むのではなく、懲罰術者として誰かの生を繋いで下さい」
言いたいことは分からないではない――しかし。
「よく考えて下さい。あなたのお母さんと妹があなたに対して“ただ生きる”ことを望むと思いますか? きっと違います……幸せになることを願うはずです」
アリスはここで一度息を継いだ。そして、改めて眼差しに力を込めて口を開く。
「あなたを見ていれば、お二人が善い人であったことが伝わってきます――そんな人たちがあなたの不幸を“是”とすると思いますか?」
「……」
答えは「否」だ。母と妹は優しかった。
足もとが崩れ去る衝撃を覚えた――“生きる”という第一義に囚われ、そんな当たり前のことにさえ思い至らなかった。いや、罰を無意識の内に欲する気持ちが視界を塞いでいたのだろう。
例え、首を自分が絞めて殺そうとしても、その原因が身体の一部となった怪物の暴走と知れば、「自分を責めないで」と訴えていただろう。
「充分にあなたは苦しみました。そんなの、もう終わりにしましょう」
アリスが、そっとこちらの手を握る。
……ジョシュアは彼女の手のひらを強く握り返した。その握力は、溺れる者が救いを求めるときのそれに似ていた。




