世界を信じる
別のペンネーム、別の作品で某ライトノベル新人賞最終選考で落選したことがあります。
ぜひ、お楽しみください。
2
ティモシーが父の遺体と対面したのは、九歳のときのことだ。国に仕える魔術師、国属魔術して出兵した末の戦死だった。
――一見すると、父親の姿は遺跡から掘り出されたミイラを思わせた。水分が微塵たりとも残っておらず、その肌は元が人間だったとは信じられない文字通りの土気色だ。
ただし、その面影はやはり父のものだ。帝国の魔術師の攻撃を受けた結果、こうなったという話だった。
安置されているのは、戦場が近い町の市庁舎の片隅の小部屋だ。
その有様を目の当たりにした母はその場にくずおれて茫然自失の状態に陥る。
貴族の家の生まれの証である気品のある横顔も、心理的衝撃の前では平民と大差のない顔つきへと変わっていた。
そんな母を横目に、幼いティモシーは、そっと父の肌に触れた。
“それ”が父親だと、自分の前では厳しいながらも常に優しさをもって接してくれた人物だと信じられなかったのだ。
「あ、触ると――」
小部屋で遺体との対面を見守っていた、地位の低そうな若い魔術師が声を高くする。
……その注意は間に合わなかった。
ティモシーの指先が、父のそれに触れる。いつも少し乱暴に頭を撫でてくれていた右手が、粒子の細かい砂で作り上げた城のようにあっけなく崩れた。
ティモシーの胸の内で何かが音もなく崩壊する。それを目撃した瞬間。
刹那、母の今まで聞いたことのない甲高い悲鳴が彼の鼓膜に突き刺さった。
それから、母は人が変わってしまった。
やや厳しすぎる父をその都度、諌めていた彼女が、家庭教師の魔術師を雇って常に息子を叱りつけるようになったのだ。
成功しても褒めてもらえず、失敗すれば手を上げられる――だが、ティモシーにそれを恨むことはできなかった。
父を失った母の心の痛みは、彼も共有しているのだから。
――代わりに、常罪術者を憎んだ。憎んで、憎んで、憎んで、心が擦り切れるまで憎みきった。
思春期を迎える前に、家庭教師となった人物に東方流の魔術だけでなく、東方流の剣術も習うようになった。
その厳しさは歴戦の騎士すらも逃げ出すものだったろうがティモシーは耐え抜き、ひらすら高みを目指した。
だがその心は常に、自分の居場所を見失う暗い場所に在った。
だが、そうして父と魔術師――国属魔術師と補助魔術師という違いはあったが――となって最初に担当した事件で遭遇したのは、子を守ろうとする“父親”だった。
「――頼む、あと少し、あと少しでいいんだッ。時間をくれ、見逃してくれ!」
この通りだ、と頭を下げる懲罰術者である若い魔術師は、ティモシーが求めていた“敵”とは一致するはずもない。
彼は、体が骨となっていく病気を治すために怪物の一部を移植して治療しようとしたのだ。
ティモシーは、ありふれた民家の二階のそう広くもない一室で全身の力が抜けていくのを自覚する。
“あの時”と、父の遺体と対面したときと同じだった。
絶対的ナモノ、ナド、存在、シナイ……。
そもそも、個人の怪物軀宿者の研究が禁止されているのは、危険な力の拡散、濫用を防ぐという目的もあるが、それと同じくらいに魔術師協会が大きな利益を独占したいという理由も大きかった。
結局、父親の必死な訴えも虚しく、彼の息子の怪物軀宿者の処置は強制解除され、死んだ。
――そして、魔術師協会に対して失望したティモシーの前に差し出されたのが、王族設立の特務機関ルアド・ロエサの人間の手だった。
“国を守るため”という理由を盲目的に信じている限り、“絶対的な”敵を相手にすることのできる仕事だ――この職務に、気づけばのめりこんでいた。
だが、胸の内にある空虚な思いが消えることはなく、いつの頃からか吸い始めた喫煙への依存は高まるばかりだ。
鬱屈とした思いを吐き出そうとするように、常に紫煙を吐き続けた。
†
――ティモシーは、ジョシュアの部屋に三〇分ほど経ってから、オースティンとアリスの目を盗んで戻った。仲介者の存在は、自分の誠意を減じさせる気がしたのだ。
それに、今から己が明かそうとしている情報は、本来なら自身の命が危険に晒されても秘さなければならないものだった。
ノックをする――ジョシュアの、空いている、という言葉を受け扉を開けた。
こちらの姿を目の当たりに、相手は軽く瞠目した。こんな短時間の内に戻ってくるとは思わなかったのだろう。
「お前に伝えることがある」
喉に引っかかる言葉を力を込めて押し出した。
「俺は、王族が設立した特務機関ルアド・ロエサの人間だ」
ティモシーの言葉に、ジョシュアの目がさらに見開かれる。それはそうだろう、常罪術者にかつての友が通じていたと思ったら、今度は自分が間者だと明かしたのだ。
欺瞞ばかり……世界は何と残酷なのか、そう思わずにはいられない。だが、それでも信じるべきものはあるとティモシーは考えたのだ。
「任務の情報を流していた」
それは弁解のしようもない事実だった。ジョシュアに不審だと指摘された点も、彼の任務に由来するものだ。
しかし一方で、
「だが、常罪術者を放置してはいけないという思いに嘘はない。お前も見ただろう――植精土壌の巣窟と化した村、村民たちの姿を」
見たどころか、自分たちが彼らにトドメを刺したのだ。この“重さ”は忘れてはいけない――そうでなければ、すぐに人間は命の価値を忘れて犠牲のことを単なる数字に置き換えてしまう。
そうなれば、後に待っているのは果てしのない殺戮者の道だけだ。人間を殺すことも何とも思わない外道に堕ちる――補助魔術師として、あるいは特務機関の人間として生きてきた中でそのことは嫌というほど実感していた。
――ジョシュアの表情に苦悶が浮かぶ。己が手にかけた村人の顔が脳裏に浮かんでいるのだ。
そして、そのことに対する義憤と、友を信じたい思いがせめぎ合っているのだろう。
「俺はお前のことを朋友だと思っている――そのこともまた事実だ」
こちらの言葉に、ジョシュアの瞳に浮かぶ複雑な感情にまた色が加わった――戸惑い、疑念、それでも信じたい思い。
「だから、今回のことは俺も参ってる。国の敵、絶対的な悪を相手にできると思ってルアド・ロエサに所属していた――だが、よりによって友の旧友が敵にまわった」
ジョシュアは口を開きかける――が、やはり言葉は見つからないようで閉ざし、弱くかぶりを振った。
「……すまん」
ティモシーは唐突にその言葉を口にする。
途端、胸の内を塞いでいた重苦しい思いがスッと減じた。
「お前を騙していて悪かった」
「――お前はお前の正義に従って行動した。悪意や敵意、欲望のために動いていた訳じゃない、謝らなくていい」
ジョシュアがこちらの目を真っ直ぐに見て告げる。自分の思いと向き合いながらしゃべっているのが、ゆっくりと言葉を選んでいることから分かった。
「ありがとう」
「……何の礼だ?」
「赦してくれたことに対する、礼だ」
それはティモシーの正直な気持ちだ。
秘密を抱え、あるいは何かを背負いながら生きるというのは人が思っている異常に心を軋ませる。
だから、奇跡よりも容易く人を救うことができるのだ。その非を誰かに許容されるというのは。
「――そして、その“赦し”をスザンナ《あいつ》にも与えに行くぞ」
「!?」
ジョシュアが目を限界まで見開いた。
「お前は、鉄塊よりも重い過去を背負って生きてきた。そんなお前だからこそ理解できるはずだ――お前の旧友は、贖罪を欲している」
つい――一年前に、ティモシーの母は他界した。
病の床に就いた母は日に日に弱気になり、代わりに父が亡くなってからの鬼気が消えていった。そしてその末期、病床の側で自分の手を握る息子にこう言ったのだ――「ごめんなさい、あなたに辛く当たって」。そんな母に、「お陰で強くなれた。あなたには感謝している」と偽りの言葉を告げた瞬間の母の顔はとても安らかで、宗教画の聖母を思わせた。
そう、母も恐らくは贖罪の機会を欲していたのだ。
息子に辛く当たりながらも、どこか心の隅で「これではいけない」と思っていた。だが、来た道を戻るには、己の過ちを認めるには、常人にはとても持ち得ないほどの勇気が必要だ――だから、心を苛まれながらも謝罪を口にできずに生きた。
それでも、最後の最後に赦しを得ることができたのだ。幸福だったかどうかは分からない……それでも、最悪の人生ではなかっただろう。
「敵の力は強大だ――生物がいる限り兵力を増強できる常罪術者に立ち向かうためにはお前の力が必要だ」
ここで一度、ジョシュアは息を継いだ。
「敵を倒しに行くぞ。そして、スザンナに救いを与えに行く。赦しを得られないまま生きるのは、きっと死ぬことよりも辛いはずだ」
俺は言いたいことはそれだけだ、結局、再び口を閉ざしたジョシュアを置いてティモシーは部屋を後にした。何となく、しらばくは葉巻は要らないような気がした。
――立ち上がった者を支えることはできる。だが、立とうという意思は当の本人が持つしかない。




