世界を信じる
別のペンネーム、別の作品で某ライトノベル新人賞最終選考で落選したことがあります。
ぜひ、お楽しみください。
だが、飛翔亜竜の血を飲むことができなかった腹いせのように吸血擬手が囁く。
(コノ危機ヲ招イタ裏切リ者ガ、イルノヲ分カッテイルンダロ?)
「……」
ジョシュアは顔を硬直させた。
――彼の頭脳は、この状況が不自然であることを理解していたのだ。
動体感知結界は、ジョシュアが使える数少ない魔術だ――特殊教導院に所属していたときに、せめて一つでも役立つ魔術を習得したいとう執念の末に、偶発的に身につけたものだ。
そして、その開発場面にはスザンナが居合わせた。
「よかったわね、ジョシュア!」
あのときの輝くような笑顔は、今も瞼の裏に焼きついている。
しかし、それは彼女しか、ジョシュアが生み出した魔術の仕組みを理解している者がいないことを裏付けていた。
「どうした、ジョシュア?」
ティモシーがこちらの表情の変化に気づいて怪訝な顔をする。合流したアリスとオースティンもそれでジョシュアの様子がおかしいことに気づいた顔つきをした。
「――スザンナ、まさか君なのか?」
仲間の問いには答えず、ジョシュアは彼女に目を向けた――その声音は、「頼むから違うと言ってくれ」と必死に訴えている。
だが……、スザンナは何も答えなかった。
悲しみと諦念が入り混じったような眼差しをこちらに向けて口を開かない。
二人の間の空気の変化から何かを察したのだろう、ティモシーが表情を険しくした。
「ジョシュア」
今度の呼びかけは詰問口調だ。
――刹那、スザンナは跳躍。半獣人の動きに、さしものティモシーもついていけなかった。
宙を跳んだ彼女は、地母樹木の枝から落ちる。
ジョシュアは、奈落へと落ちるスザンナを目の当たりにし、心臓を縮み上がらせた。慌てて枝の縁に立つ――が、飛来した影がスザンナを捕える。
……植精壌蟲だ。あの怪物が、彼女の両肩の脚で空中で器用に引っ掛けたのだ。
死ななくてよかった――スザンナが裏切り者だと確定したというのに、ジョシュアが最初に抱いたのはそんな思いだった。
幕間
「ふん、雌犬の娘が生意気にも空腹を訴えるのかい? 犬の子はやはり、犬ってことだね」
盛ったからって、あたしの亭主に手を出すんじゃないよ――継母が蔑みの目で見ながら言い放つ。
……スザンナはただ黙ってうつむいていた。いつものことだ、そう自分に言い聞かせながら。
視界に、廊下の大理石の床とみずからの裸足の爪先が入る。召使いさえ履いている靴を彼女は与えられていなかった。
しばらくして、継母が去ったところで老年の召使いネイサンが食事を持ってきてくれた――それは、羽振りのいい商人、その当主の娘に与えられる物としては随分とみすぼらしいものだった。下っ端の召使いと変わらない内容だ。
それでも、空腹に耐えかねたスザンナにはご馳走に見える――勢いよく手を伸ばし、固いパンに必死に歯を立てた。
噛み砕いたパンを咀嚼する端から覗き込む。
無論、そんなことをしていた無事で済むはずがない――食べ物が喉につかえて息が詰まった。
「そんなに慌てて食べるからじゃよ」
食事を持ってきたくれたネイサンが、優しく背中を撫でてくれながら水の注がれた木製のコップを差し出してくれた。
――節くれ立った手だが、それでもスザンナの背中はその感触に励まされる。……水を飲み込みながら、目尻から透明なしずくをこぼした。
「辛いな――生きるのは」
ネイサンは、行動を優しい抱擁に変える。その言葉は、筋肉や骨、血を通り越して真っ直ぐに胸の内に届いた。
溢れる。押さえつけていた思いが。息を阻害する感情が。叫びたくなる衝動が――それが、次から次に涙になって頬を濡らした。
「わしには、無責任に『生きていればいいことがある』などとは言えん。わし自身が、これまで生きる上で味わった苦痛や苦悩に対して、収支が取れてるとは思えんからの」
ネイサンが苦笑を浮かべながら、こちらの顔を覗き込んだ。
「それでも、わしはお前さんに生きて欲しいと思うよ。どうか、わしのために生きてくれないか? 独り身の老いぼれが死ねば忘れられるのみ――誰の記憶にも残らない。それは淋しいでな」
――幼いスザンナは無言で小刻みに頷いた。
今思えば、あれは自分に生きる理由を与えるための彼の優しい“方便”だったのだろう。
それでも、妾の子として生まれ、母を亡くして本妻に虐待されて生きる日々の中では、ネイサンの存在はまさに光だったのだ。
だが、彼もまたスザンナの前から去ってしまった。
ある日、心の臓の病を急に得て倒れたのだ。
「さっさと運び出しなさい」
食事の給仕の途中で倒れたネイサンを、継母はまるで汚いものを見るような目で見た。
――スザンナは怒りで身体を震わせる。空腹の娘の前で豪勢な食事をして嫌がらせをする、そのために呼び出されたことなど最早、脳裏にはない。
ただただ、目の前が真っ赤に染まり、身の内が燃えていた。
……突然、それがスッと消え去る。
二人の召使いに運び出されるネイサンと目が“合った”。
それは思い違いかもしれない。恐らく、思い違いだろう。思い違いでないとおかしい――死者が誰かを見つめることはできない。
それでも、彼のまなざしが訴えているように思えたのだ。
――わしのために生きてくれないか? と。
ここで怒りを表明すれば、自分は追い出されるかもしれない。そうなれば幼い自分には生きる術がないと、スザンナは理解していた。
だから、ただ一文字に口を閉ざし、彼女は運び出されるネイサンを視線で追い続け、その冥福を祈るしかない。
やがて、成長したスザンナは家を出ることになった。
特殊教導院に、怪物軀宿者候補として放り込まれたのだ。親にしてみれば「これであの無駄飯食らいを育ててきた元が取れる」という心境だったのだろう。
――だが、当の本人がそれに同調できるはずもない。
人外の、怪物の器官が身体に取り付けられる、埋め込まれる――詳細は知らずとも、それだけで恐ろしかった。自分が人間でなくなってしまうのだ……。
――修道院を思わせる建物の食堂に、特殊教導院に着いた当日すぐに集められた。
「大丈夫かい?」
長机、その端の備え付けの椅子に座って顔を伏せていると、不意に声をかけられる。
「具合が悪そうだったから、声をかけたんだ」
と理由を告げたのは、まだ幼さの多分に残るかつてのジョシュアだ。
このときは初対面だった――それでも、初めての気がしない。なぜだろう? そう思って、彼を観察する。
――あ、と声に出さずにつぶやいた。
似ているのだ。彼の眼差しが、ネイサンのそれと。自分の父や継母と違って、誰かを思いやることのできる人間の目だ。
次に取ったみずからの行動は、自身でも信じられないものだった。
……何と、彼に抱きついてしまったのだ。
「え、あ、うわ!?」
逃げることもできずに、目を白黒させるジョナサン。
この段になって、やっと自分が何をしたのかにスザンナは気づいた。
「――えへへ、驚いた?」
とっさに身を離しながら、スザンナの口から出た言い訳がこれだ。
――この瞬間、彼女のジョナサンに対するときの人格が決まる。悪戯っ子だ。それはやがて地になる。
性根の根本の部分は、“家”での生活が決定付けた。ひたすら抑圧に耐える暮らし――それでも、ネイサンの優しさがスザンナの心を決定的に捻れてしまうのを防いでいた。
そうして、解放された部分が、ジョシュアへの悪戯、奔放な性格として表出したのだ。
何だかんだといっても、見捨てずに付き合ってくれるジョシュアがそれを助長した――ともいえるし、“家”での生活で溜め込んだ澱を吐き出させてくれた。
その後、怪物軀宿者の候補から外れて“家”に帰ることになったが、両親はあこぎな商売のせいで恨みを買って殺されており、再び監獄の中のごとき日々を送るということはなかった。
特殊教導院で訓練を受けていたことから、ヤルダバオト教に特務神官として拾われた。
あっけなく、事由な暮らしを手に入れたのだ――教会を裏切れば命はないだろうが、そんなものは彼女にしてみれば不自由のうちに入らない。
それでも――。
考えてみれば――ううん、考えなくてもあの頃が一番幸せだったな。
スザンナは町屋の一角、屋根の上から阿鼻叫喚の地獄絵図をぼんやりと眺めながら口に出さずにつぶやいた。彼女の目なら、夜の闇の中であっても支障はない。
眼下では、植精土壌と化した者が、自分の身の内に生まれた“種”――不気味な肉の塊を思わせる物体を吐き出しては、まだ正常な者を捕まえ無理やりにその口に押し込む。
種を植付けられた者はしばらく悶えて苦しんだかと思うと、感情を失った表情になるや新たな犠牲者を求めて徘徊を始める。
そうして、長賢族、人間の区別なく災厄は襲いかかった。
抵抗する者もいるが、既に植精土壌の数は数百の数に膨れ上がっている――ちょっとやそっと魔術の心得があろうが、弓の名手であろうがどうなるものでもない。圧倒的な質量の濁流がすべてを呑み込むように、町の住人が植精土壌と化していく。
この状況の責任の一端は自分にもあるのだ……。
もう、あの頃――ジョシュアと一緒に笑い合っていたときには戻れない。
スザンナは、魂が抜け出すようなため息を漏らす――。




