世界を信じる
別のペンネーム、別の作品で某ライトノベル新人賞最終選考で落選したことがあります。
†
「――」
声を聞いた。夢と現が入り混じる中で。
シンシア……。掠れた声で呟きながらジョシュアは瞼を開ける。
シンシア……。そこには美しい妹――ではなく、アリスの長い睫毛が間近にあった。
彼女は無関心を装いつつも、気づかわしさを滲ませていた。瞳に宿る不安と優しさ。
場所は地母樹木の一角、街道として使われている幅数メトールの太い枝の上だ。月明かりも天蓋のせいでかすかにしか差さないが、それでも夜目が利くジョシュアにとって相手の表情の仔細を観察するには充分な光量だ。
――心根の優しい娘なのだ。そう、妹のシンシアのように。そんな思いが自然と浮かび、胸が鋭い痛みを訴える。
「うなされてましたから」
アリスが目を逸らして言い訳じみた口調で起こした理由を告げた。
「ありがとう」
ジョシュアは、心の中の感情を押し殺して微笑む。
そんな彼の脳裏に、『――アリス、あの娘の双親は常罪術者だ』『だが、疑いの目を向けられ続け――場合によっては虐げられる暮らしを送っていれば、非道に走りたくもなる』というティモシーの言葉が不意に甦った。
思ってもみなかったことが実現するのがこの世界だ。例えば、従士のエイハブが予想だにしていなかった無惨な最後を遂げたように……。
恐らく――恐らくそれはないだろうが、万に一つの確立でもしアリスが敵に通じていたとしたら自分はどうすればいいのだろうか? もう二度と、ジョシュアは近しい人間を手にかけたくなかった。
アリスとの付き合いはまだ一週間にも満たないが、それでも寝食を共にしていれば情が移るには充分な時間だ。
本当にあんな思いは二度としたくないんだ……――ジョシュアは恐ろしさに物理的な寒気すら覚える。
どうして、こんなことになってしまったのだろうか?
眠ったふりをしながらジョシュアとアリスのやり取りを盗み見て思った。肺を病んでしまったように息が苦しい。
自分に与えられた役目は“監視”、だ。
だが、それがいつ「寝首を掻け」という命令に変わるか分からない……。
ジョシュアを殺したくなど、ない。
ただ、己が死にたくもなかった。
どちらかを選ぶことなどできはしない。天秤は微塵も動かずに吊り合っている。
そして、葛藤はそれだけではない。
――衣装の下で肌が、肉が、骨が疼く。異質なものへと変わっているのだ。自分が自分でないものに変わっていく、その感覚は本能的な恐ろしさを感じさせる。
……押し潰されそうだ。生きながらにして土砂に埋もれた人間の気持ちはこんなものだろうか?
ジョシュアの周囲に存在する不穏はそれだけではなかった――。
†
ジョシュアがニヴルヘイム首長国の都市スヴァルに滞在していたときのことだ。
都市に存在するノルズリ帝国の商人の屋敷――といっても、この地域の建築事情の常で、建物は二階建てで横に長いという一風変わった外観をしている――の一室、応接室に二人の男の姿があった。一人は魔術師、もう片方は帝国の特務機関オグマ所属の軍人――後者は商人に肩書きに擬装している。
「お前たちの寄越した連中の役立たず具合は何なんだ?」
魔術師は眉根を寄せて、柔和な顔つきで恰幅のいい軍人を睨みつける。
ただし、その手は休むことなく動き、特別に供された肉汁のしたたる牛のリブローストをナイフとフォークを使って口に運んでいた。
贅沢な飼料を与えた牛の肉は、舌がとろけて溶けてしまいそうな旨みがある――策戦が成功した暁には、毎日でもこんな物を食べて暮らせるのだ。だったら、仲間を裏切ろうが、人を殺そうが成し遂げてみせるさ――魔術師は胸の内でうそぶく。
「貴君の怪物軀宿者こそ、木偶の坊のように懲罰術者とその仲間に斃されたという話だが?」
「ふん――戦いにおいては、あれは数が物を言う。充分な頭数が揃う前に戦えば敗北を喫するのは道理だ。それに、植精土壌の真価はそこにはない。それらを理解した上で手を組んだはずだが?」
皮肉を返す軍人に、魔術師は唇を曲げて応じた。その間も、ひたすら肉を口内に運び咀嚼し続けている。
「その真価も疑問に思えるというものだ」
「何か言ったか?」
わざと聞こえるように毒づく軍人を魔術師は鋭い眼差しで射抜く。同時に、唇についた脂を拭った。いや、と軍人はそれに答える。
「そっちの準備は終わったのか?」
「言われるまでもない。“我々は”滞りなく “配置”を終えている」
魔術師の問いに軍人は不愉快そうに頷いた。
「だとすれば、地母樹木が我々の手に落ち、共和国へ一気に攻め込む橋頭堡となる日も間近だ」
一緒にするとな、とでも言いたげな相手の態度を無視し、魔術師は口の端を吊り上げる――富、そしてそれがもたらす贅沢な食事、肉付き豊かな女との交わり、そういったものを想像すると今から愉悦が湧き上がって仕方がない。
同時刻、スズリ王国商人のスヴァルの館においても密談が交わされていた。
話をしているのは一人の魔術師――王国の特務機関ルアド・ロエサが、中立を謳いながら己らの利益のために行動する魔術師協会を、内部から監視するために送り込んだ間者――と、連絡員である小柄な好々爺然とした老商人だ。
「植精土壌という怪物軀宿者、是非、我が国の軍に欲しいものだな」
大勢の人間が無惨に死んだという内容の言葉を聞かされた連絡員の老人が笑顔で発したのは、死者への哀悼でも同情でもなく冷徹に利益を計算した台詞だった。
……――魔術師は、それを表情を変えずに聞く。ただし、その胸の内には微かにではあるが不快感が湧いていた。はっきりとその思いを抱くことができないのは、自分も薄汚れた人間であることを自覚しているからだ。
それに、現在進行形で仲間を騙している――皮肉な思いが脳裏をよぎる。
だが、国を、民を守るためだ。そうだろう?
「しかし、常罪術者が舞台を地母樹木に移したのはある意味、好都合だったな。身動きしにくくなるが、民共が死んで国力が落ちる心配をせずに済む」
次の老商人の台詞は二重に非道だった――他国の人間であれば死んでも構わない、自国の民を単なる労働力、駒としてしか見ていないと言い放ったのだ。
――やはり、魔術師は無表情を保つ。しかし、内心うんざりしていた。この傲慢さ、欲深さは常罪術者と何が違うというのだろう?
疑問は募るばかりで解消されることはない――。
2
目を覚ましたジョシュアたちは質素な食事に手をつけていた。木の皿に盛られたパン、チーズ、干し肉――火は使えない。
地母樹木では、“路上”では火気厳禁だ。ただ、その理由はもっぱら“樹の天敵である炎は遠ざけるべし”という長賢の地母樹木信仰に由来する。地母樹木は特殊な樹液によって一定以上炎を防ぐことができるため、そう火の気を恐れる必要はないのだ。むしろ、人間の石造りの家の方が可燃物が多い分、火事に弱いほどだ。
だが、ここは地母樹木だ――長賢族が否というなら、それに従うしかない。
……それでも、それにしても火ぐらいは通して食べたいものだと、無味乾燥な食事をしながらジョシュアは思った。
「ついてますよ」
不意に、近くに座ってパンを千切っていたアリスの白くて細い指がこちらに伸びてくる。頻繁に覗かせる苛烈さはほど遠い、丁寧な手つきでパンの屑をジョシュアの口元から取り除いた。
あ――不意打ちの行動に、ジョシュアは頭が真っ白になる。
異性の無防備さに驚いた、ということもある。
ただ、それ以上に過去の出来事を思い出してしまったのだ。
まだ、父と弟が生きていた頃の、外に母と妹と共に遠出をしたとき――「ほら、お兄様。ついているわ」と淡く笑って頬についていたパンの欠片を妹のシンシアが取ってくれた。
その笑顔と、アリスの無表情が重なる。
容姿が整っているということくらいしか共通点がないというのに、妙に強い既視感を覚えた。
――思わず涙腺が疼いてしまうほどに懐かしい記憶だ。
自分が家を支えなければと覚悟してからは一年のほとんどを特殊教導院で日々を過ごし、また大人にならなければと常に張りつめていた。だから、家族とあのようなやり取りを交わすことは一切失くなっていた。
時を隔てて。突如として、それが再現されたのだ。
何とも形容しがたい思いが胸に去来する。
「――な、何かっ?」
目を見開いて凝視されたアリスが、自分が異性に対してやや思慮の足りない行動を取ったことに気づいたのか、視線を泳がせて頬を赤くした。
「おっ、その顔、可愛いな?」
車座でジョシュアと共に朝食を摂っていたティモシーが意地の悪い表情を浮かべる。
「ほんとねぇ、抱きしめたいぐらいね」
「ジョシュアにもついに春かぁ」
彼に尻馬に乗るスザンナ――はいいが、問題はオースティンの発言だ。
まさかこちらに飛び火するとは思っておらずジョシュアは目を白黒させた。何でそうなる?
「うん? うろたえるとは、まさか……」
「まさかも何も、ある訳ないだろ」
わざとらしい表情を作るオースティンをジョシュアは半眼で睨んだ。だが、それで懲りるはずもなく悪ノリは悪化する。
「じゃあ、検証してみるか――ティモシー」
「了解だ」
オースティンがわざとパン屑を口元につけ、それをティモシーが取り除いた――両者共、真面目な表情だ。
「動揺を覚えたか?」
「まさか」
真剣な声で言葉を交わす二人――だが、その口角は上がっている。
「という訳で、怪しい」
「ほんとねぇ」
オースティンの言葉に、ついにはスザンナも目元を弓なりにして頷いた。まるで、初等部に所属する子供のような言動だ。
何の検証だ、しょうもない……――ジョシュアは彼らの幼稚さに対し、眩暈すら覚える。
だが、そんな三人の冗談を、冗談として受け流せない人間がこの場にいること――しかも、それがからかわれている当事者の片割れであることを彼らは失念していた。
突然、「我は汝を召喚する――」という言葉で始まる呪文が少女の声で紡がれた。
ほとんど間を置かず、偉丈夫の魔神が召喚される。
だが、真に恐ろしいのはそれを召喚した主、アリスだ。
おお、ぅ――彼女の目は完全に据わっていた。
「前言を、撤回して下さい」
宣告するように告げる。その声音は抑えられているが、かえってそれが聞く者の背筋を寒くする。
「い、いや、冗談――」
「前言を、撤回して下さい」
先ほどと、微塵も変わらない声の高さ、リズムでアリスはオースティンの言葉を遮った。
「お前、いくらなんでも魔神を召喚するのはやり過……」
「前言を、撤回して下さい」
ティモシーの指摘に対しても、アリスの要求は揺るがない。異様な迫力が、細い肢体の少女から発されていた――。
その光景を前に、ジョシュアは思わず唾を飲む。
「……すいませんでした」
「……ごめんなさい」
「……すまん」
――ついに、彼を除く三人の大人が少女の“圧”に負けて頭を下げた。
アリスと出会ってからはこんな思いを抱いてばかりだが、情けないことこの上なかった。それと、アリスをからかうのは絶対に止めよう、ジョシュアはそんなことを考えた。
だが、そんな他愛ないやり取りに影を落とす閃きがジョシュアの脳裏に生まれる。
きっかけは、先ほどのティモシーとオースティンの“誘導”だ。人は、何か隠した意図があるとき、相手を思うところへ導くための言動を取ることがある。
アリスが間者である、という言葉に裏があったとしたらどんな目的があり得る? 言い換えると、“あいつが間者”と意識させることでどんな得がある?
――それは、発言者自身が間者であることを秘匿したい場合だ。
何も間者に限らず、子供がお菓子を親に黙って食べてしまったときに、「弟が食べだんだ!」と主張するのと手法は変わらない。
いや……いくらなんでもそれは――ジョシュアは胸の内で呻いた。勘繰り過ぎだろう。そんな風に疑っていけばキリがない。
だが、人はみな間(間者)なり、という言葉もある――。
「――すいません、やり過ぎました」
アリスが不意にジョシュアにだけ聞こえる声でそんな言葉を発した。
……我に返って彼女に視線を向けると、彼女はばつの悪そうな表情で顔をややうつむけている。その可憐らしい態度に、不覚にも少女に対して微かに愛おしさを感じてしまった。
何を考えてるんだ、相手は子供だぞ――ジョシュアは自分に言い聞かせるように声に出さずに呟く。
「……分かればいいよ」
少しわざとらしい声音で答えた。動揺を悟られないように。




