世界を信じる
別のペンネーム、別の作品で某ライトノベル新人賞最終選考で落選したことがあります。
第三章 血雨の降る夜に
1
……懐かしい風景が眼前に広がっていた。生家であるハウエル伯爵家の城だ。
大領主のそれとは比べ物にならない卑小さだが、古風な趣があってジョシュアは我が家のことが好きだった。
――“だった”。そう、過去形だ。
その瞬間、色褪せることのない痛みと共にこれが夢であることをジョシュアは悟る。
見張り小塔の一部が欠けている、その城の状態からして間違いなく“あの時”だ。何度も何度も、それで知恵熱が生じるなら頭蓋が火を噴くほどにやり直したいと願い、思い、考え、それでも叶うことなどないことに絶望してきた日。
――このとき、ジョシュアは怪物軀宿者としての処置を無事に潜り抜け、その一種の褒美として一時的に帰省を許されていた。
「お帰り、愛しいジョシュア」
歓迎の母の抱擁は気恥ずかしかったが、父と兄が亡くなり、城には血の繋がった人間は末娘のみという淋しい状況を考えれば、これもまた孝行だろうと玄関広間でジョシュアはされるがままになる。
間近で見ても、中年の齢に達しているはずの彼女の美しさに曇りはなかった――大きな瞳を長い睫毛が縁取り、すっと通った鼻梁が黄金比でその間に配されている。
「お帰り、お兄様!」
そこに軽い衝撃が走った。屋敷の人間から聞きつけたのか、妹が息を切らして駆けてくるや飛びついてきたのだ。
母に似てその容姿は整っており、ひっそりと咲く花を思わせる可憐さがあった。
貴族の娘としては目を剥くような行為だった。だが、ジョシュアにそれを責めることはできない。
……普段の孤独を思うと胸を締め付けられすらする。一〇代になっているとはいえ、二人の家族を一度に亡くすにはまだ幼い。
――今、考えると、ジョシュアが世話になっている伯爵家のオードリーに彼女はよく似ていたかもしれない。
「ただいま」
万感の思いを込めて、ジョシュアはその言葉を口にした。かくいう彼自身も、怪物軀宿者の被験者から親しくしていたスザンナが外れ、特殊教導院から彼女が去ったことで一抹の淋しさを覚えていたのだ。
「立派になられましたな、若様」
そこに第三者の声が割り込む。
玄関広間にハウエル伯爵家に古くから仕える初老の従士が姿を現していた。柔和さの中に厳しさをたたえた、歴戦の兵の風情を感じさせる顔立ちをし、長身のぴんと伸びた様は歳を感じさせない。
ただし、その左手は包帯で巻かれ布で固定されていた。
「エイハブ、その怪我は……?」
領主の務めが忙しい父に代わり、自分に武術の基礎を叩き込んでくれたのはこの従士だ――その卓越した技術は誰よりもジョシュア自身が知っている。ゆえに、彼が負傷しているという事実が信じられなかった。
篤実な彼は、許可を求めるように屋敷を預かるジョシュアの母へと視線を向ける。
何か良くないことが起こったんだ――その不器用な行動から、何か憂慮すべき事態が進行していることをジョシュアは悟った。
同時に、その気づかいを理解しつつも、軽い苛立ちを覚える。
目の前の従士は、「立派になった」と先ほど口にしたばかりではないか。だというのに、まるで何もできない子供を相手にするような対応……、侮辱されているような気がした。
「実は、飛翔亜竜が領地に現れるようになったのです」
母はそんな息子の心情を察したのか、やや宥めるような声音でその事実を明かした。
飛翔亜竜――その単語に、ジョシュアは自然と緊張を覚える。いくつかいる竜の種の中ではまだしも人間の手に負える相手ではあるが、それでも小領地の兵力で駆逐するのは至難の業だ。
一拍遅れて、脳裏に閃くものがある。欠けていた塔……。
「ついには城にまで飛翔亜竜は姿を現し、塔の一部が破壊されてしまいました。手前がいながら面目ございません」
エイハブは心底悔いる様子で頭を下げた。
「止めてくれ、エイハブ。あなたが命をかけて戦ったことは聞かなくても分かる」
ジョシュアは彼の手を取って顔を上げさせる。共に過ごした時間なら父よりも長い――この初老の従士が生きていただけで彼にとっては僥倖だった。先程、彼に苛立ちを覚えたばかりだが、これもまた正直な気持ちだ。
――ただ、飛翔亜竜をこのまま看過することはできない。自分しかいないのだ。この領地を守れる者は。
「お止め下さい、ジョシュア様」
鋭い声がエイハブの口から発された。
「あなた様までお亡くなりになれば、ハウエル伯爵家は途絶してしまいます」
こちらの表情から胸中を察したのだろう。主を気づかっての言葉だ。頭では理解している。
だが、怪物軀宿者となり大きな力を手に入れたジョシュアの耳には、自分を軽んじているように聞こえる。
怪物軀宿者になるために多大な苦痛を代償として支払っている――強い自負を抱くことはある意味、当然だった。
「エイハブ、僕はもうハウエル家の当主だ」
「……」
生真面目――悪くいえば堅物の従士は、その一言で次の言葉を封じられた。
「母上、僕は怪物軀宿者の力をもって、飛翔亜竜を討とうと思います」
ジョシュアは母に向き直り毅然と宣言する。この人と妹を守るのだ――そんな息子を彼女は頼もしさと、不安とのない交ぜになった目で見た。
だが、母もまた貴族の女だった。
先のみずからが現当主であるという発言が出た以上、“否”という返答は持ち得ない。
「……どうか、どうか、無事に帰ってきて下さい。わたくしは、あなたさえ五体満足でいてくれるのなら、この家がどうなろうとも――」
「母上、そのようなご懸念は無用です!」
貴族としては口にしてはならない言葉を母が並べるのを、ジョシュアは気づかいのこもった台詞で遮った。
そして、早速この日の夜、飛翔亜竜は城下へと姿を現す――。
半鐘の音が、闇夜に町そのものが漏らす悲鳴のように響き渡った。人口五〇〇人ほどの城下町がそれで目覚める。
「あっちだ!」
町屋の一角、宿屋の一階に急慮設けた“前線基地”の扉を飛び出したジョシュアは、聴覚に意識するここと寸秒、音の聞こえる方向を的確に割り出す。
その瞬間には、彼が従える合計六人の兵――二人の従士に、四人の戦闘員――は戦闘準備を終えていた。
あらかじめ防具の類は身につけており、表に用意していた歩兵槍を従士二人が装備し、余の者は二人が短弓残りが弩を携えた。
石造りの建物が並ぶ市街地を甲冑が擦れ合う音を鳴らしながら駆ける。
――旋風を巻いて移動したジョシュアたちは程なく“現場”へと到着した。見上げるほどの影が、ちょうど人間を噛み砕く瞬間に遭遇する。服装からして、犠牲者は町の住人だ。
柔らかな果実のように呆気なく人の身体が砕ける。搾り出された血が飛翔亜竜の口元を汚し、赤い満月の放つ光を反射した。
「……」
圧倒的な存在感だ。全長は十数メトール。だが、その体躯から放たれる気配がその姿を何倍にも見せる。
全身の鳥肌が立つのを抑えられない。敵意どころか、視線さえ向けられていないというのに。
嫌な汗が手のひらを濡らし、退治に来たはずだというのに心配になる。高まる心音があの巨獣へと聞こえやしないかと。
「っ……」
飛翔亜竜の足元にはもう一人の人影があった。喚く言葉は、響きからすると人の名らしい。呂律が怪しいところからすると、夜間は外出禁止令が出ているというのに酒精恋しさに外出して竜に襲われたのだろう。
自業自得とはいえ、死地にあって仲間を呼ぶ声は尊いものだ。しかし、その声音は無慈悲な死神を呼ばわっているのと同じだった。
……必死の絶叫は、飛翔亜竜の注意を足元へと向けさせる。その眼差しは、明らかに餌に向ける食欲を覗かせていた。このまま黙って見守れば、彼が喰われるのは自明の理だ。
事実、その準備のためか、飛翔亜竜は咀嚼を終えた人間を喉を上下させて呑み込む。
――ッ、奥歯を噛んでジョシュアは戦意を掻き集めた。
「散開! 短弓は矢で奴を射、弩は準備を追え次第、発射だッ。従士二人は、彼らの防備に当たれ!」
指示を飛ばすや、ジョシュアは両手に意識を集中した。刹那、肌が空気に触れる感触、手のひらを通る血の管を血液が流れる感覚などが彼の意識に上った。
普段は意識しようとも意識することのかなわない鋭敏さでもって両の手が情報を脳髄に伝達してくる。
(竜ノ血――獣ノ王ノ貴キ命ノ源泉、サゾヤ美味デアロウ……飲ンデ、ミタイ!)
吸血擬手が欲望を露わに声なき叫びを上げた。
「好きなだけ飲ましてやるッ、だから力を貸せ!」
飛翔亜竜がこちらに視線を移す――その眼差しを、ジョシュアは真正面から受け止める。
平行して鉄球を取り出した。
指弾、一瞬の早業。霞んで飛翔した鉄球は、狙いたがわず竜の眼球を破壊する。
次の瞬間、飛翔亜竜は身を捩って悲鳴じみた咆哮を響かせた。その動作だけで、近くにあった民家が半壊状態となる――あんな一撃を受ければ、人間などひとたまりもないだろう。
が、最上位の凶悪さでもって知られる怪物は、ダメージから立ち直るのも早かった。
颶風と化して竜の尾が頭上から振る――ジョシュアは間一髪のところで避けていた。
常識破りとはいえ相手もまた生物だ、胴体に近い部分、肘、肩、膝、股関節といった部位の動きを観察する“目付け”を利用すれば攻撃を回避することが可能だと彼は今、証明したのだ。
「おお!」と兵たちが上げる無言の快哉をジョシュアは背中に感じる。
だが、よけるだけでは奴は倒せないッ――無言の気合と共に、ジョシュアは氷魔擬手の力を開放する。
氷牙貫通。地面から生えた錐は電光の速度で飛翔亜竜の後ろ足の関節へと伸びた――が、貫くには至らない。竜は姿勢こそ傾がせたが、傷を負うことはなかった。
「な……」
ジョシュアは思わず声を失う。まさか、辛苦の果てに手に入れた力が通用しないなど、今まで夢にも思わなかったのだ。
実戦経験の乏しさが悲しいほどにここにあらわれていた。
――飛翔亜竜の肩、肘が動く。
……風がジョシュアの身体の側面を乱暴に叩いた。同時に、地面が砕かれ大きく陥没する。もし、とっさに躱していなければ自分は一瞬で挽肉に転じていた、その事実に背筋が震えた。
まだだ、まだ、やれる! 半ばみずからを鼓舞する言葉を胸の内で叫び、吸血擬手の力を発動。
巨狼狩猟。生まれ出でた真紅の巨狼は、地面を蹴るや竜の前足を伝って首元へと駆け上った。
「やれッ!」ジョシュアの叫びに呼応して、巨狼はその牙を竜の頸部へと突き立てる。
血が吹く――一瞬、ジョシュアは勝利を予感した。
早――そのときには、巨狼は飛翔亜竜の首の一振りで跳ね飛ばされている。轟音を立てて、民家の壁をジョシュアの放った使い魔は突き破る。
蓄積したダメージが大きく、巨狼が形を維持できず人の手の形状に戻るのがその主であるジョシュアには知覚できた。
しかも、その状態で吸血擬手は戻ってくることができない。その事実に、ジョシュアは血の気が引くのを覚える。絶望感で息が詰まりそうだ。
そんな彼を援護するため、戦闘員たちが矢を放つ。だが、板金鎧を貫通する弩さえその効果を発揮することができない。鏃は虚しく竜の鱗の表面を傷つけるばかりだ。
どうするッ? ジョシュアは頭を高速で回転させる。危機的状況で彼を支えるのは、母と妹を守らなければという思いだ。
――片手が欠けた状態では、ただえさえ薄い勝ち目がゼロになりかねない。
瞬間的にそう判断。氷魔擬手 の能力を行使した。
氷壁胸像。鏡と同じ機能を果す巨大な氷の壁を飛翔亜竜の前に出現させる。同時に、ジョシュアは疾風と化した。
背後では戸惑うような竜の鳴き声が聞こえる。仲間が突如として出現したとでも思ったのだろう――飛翔亜竜の知能の低さを読んだ上での撹乱、時間稼ぎだ。
ジョシュアは崩れた民家へと踏み入り、悲惨な状態の吸血擬手を拾い上げた。一心同体の身体の一部、どこにあるかは共鳴とも呼ぶべき感覚ですぐに察知できた。
……接続。吸い付くような感触と共に、指先の感覚が戻る。
途端、発狂したくなる衝動がジョシュアを襲う。襲ってくる。襲ってきた――強烈な飢餓、血への渇望だ。身体の隅々までが焼け付くような感覚に襲われる。思わず、その場に膝をついた。
大きなダメージを受けたために、その再生の代償として吸血擬手が貪欲に血を求めているのだ。
「如何なさいましたか、ジョシュア様?」
意思の力で狼狽を抑え込んだ声が彼の耳に届いた――従士エイハブが、主を心配して崩れた家屋へと飛び込んできたのだ。飛翔亜竜の攻撃にやられたのか、彼が携えていた槍の穂先は引き千切られるようにして失われている。
「吸血擬手、ガ、血ヲ……」
ジョシュアは必死に言葉を絞り出した。半ば“右手”に意識を乗っ取られながら。
「――ダメージの代償を求めているのですな?」
愚直ではあるが明晰さも備えた従士は、その短い台詞から事情を察する。
……そうしている間に、「ギャアアアアアアアアアアアアアアア――」という断末魔が、一度、二度と街路に響き、町屋に響き渡り、大気を震わせた。ジョシュアという要を欠いたせいで脆くも陣容が崩れ、兵たちが竜に屠られているのだ。
「このままでは全滅することと相成りましょう」
肩越しに視線を表に向け、実直なエイハブは言葉とは裏腹の静かな声で告げる。――その眼差しには、強い光が宿っていた。明らかに、敗北を受け入れた者のそれではない。
何、を考えて、いる、エイハブ……?
ジョシュアは吸血衝動に掻き乱される思考を総動員してやっとそれだけを思った。
「あなたはお優しい。ゆえに、右手に手前の血を飲ませるよう申し上げてもお聞き入れにならないでしょうな」
エイハブが穂先を失った槍を放り出す――そして、腰に帯びていた短剣を抜き放つ。まさか? ジョシュアは悶えながら目を見開いた。
そんな彼の予想通り、忠義者の――悲しくなるぐらいに忠義に篤い従士は、「竜の前に甲冑など役に立ちますまい」と機動性を優先して鎧をまとっていない腹に刃先を当てた。驚くほどに迷いのない動作だ。
こんなときぐらい、躊躇してくれ……――。
「手前は幸せでございました。貴方様のように聡明で、武勇にも優れた主を一刻とはいえお導き致すことができ、これ以上の幸福はございません」
どうか、お幸せにおなり下さいませ――その台詞が末期の言葉となった。
初老の従士は一片の躊躇もなく腹に短剣を突き立て、横へと引く。さらに、こちらが血を吸わせやすいようにという配慮だろう、わざわざその場に片膝をついた。
……慈愛に満ちた眼差しが、ジョシュアの視線と交錯する。
エイハブッ――衝撃が大きすぎて、声に出して彼を呼ばわることはできない。束の間、吸血衝動すら忘れた。
衝撃で聴覚が機能を失われ、世界から音が消える……。
そんな彼に、従士は唇を半月状に吊り上げて優しく笑ってみせる。そして、「さあ」と声に口唇の動きだけでこちらを促した。
どれだけの意志をもってすれば、みずからの命を犠牲にすることを決意し、さらに主を気づかって手を下さずとも死に至る旅路へと踏み出し、その上、優しくほほ笑むことができるのだろう?
父と兄を失い、一時はすべてを失ったような気になり、自分が家を一人で支えているような風に考えていた、今までの自分をジョシュアは罵ってやりたかった。いや、出来ることなら殺してやりたい。
しかし、ここで躊躇っていれば、己を実の父以上に支えてくれた従士の思いやりを無為にすることになる。
吸え――ジョシュアの意思に従い、右手の手のひらに鋭い牙の並ぶ口腔が生じた。
「あなたには感謝してもし切れない――ありがとうエイハブ」
感謝の言葉と共に、彼の首筋に右手の牙を突き立てた。単にこちらの加えた力によるものだろうが、命の光を瞳から限りなく失せさせた従士が頷いたように見えた。
――潤う、潤う、潤う。乾いた砂が水を吸い込むようにして、エイハブの血が活力となってジョシュアの四肢に漲った。
疾風怒濤、その力に押し出されるようにして彼は表へと飛び出す。
ちょうど、最後の戦闘員が飛翔亜竜の前脚に押さえつけられ、その牙にかかろうとしていた――氷盾屹立、そこに電光の速度で氷壁がそそり立った。
ただし、目的は両者を隔てることではなかった――これまでに生み出したどんな氷よりも分厚い氷壁は猛烈な速度で竜の顎を打ち抜いた。
規格外とはいえ生物だ、脳を揺さぶられて飛翔亜竜は足もとが覚束なくなる。
巨狼狩猟。
ジョシュアは再び使い魔を生み出した。だが、そのサイズは先ほどの比ではない――従士の命すべてを吸い尽くした吸血擬手は、竜と比べても見劣りしない体躯の魔獣となって出現する。
獅子吼を上げるや、その爪牙を電撃的迅さで飛翔亜竜へと見舞った。
瞬く間に竜の全身に重傷が刻まれる。鱗を剥がされ、肉を裂かれ、血を吹いて巨獣は身悶えする――が、それで容赦する吸血鬼のなれの果てではない。
――巨大な腭でもって飛翔亜竜の喉元に喰らいつく。竜が鉤爪を立て、尾で幾度も殴打し抵抗するのにも構わず貪った。吸血擬手がとてつもない力を得ていくのが、ジョシュアにも生の感覚として伝わってくる。
マズい……――活力の熱に冒されたように彼の意識が霞んだ。
先ほどの吸血衝動に襲われたときの比ではない。あっという間に、身体の支配権が吸血擬手に奪われていく――。
……そして、次に彼が我に返ったときには、足もとに母と妹の血の気の失せた死体が転がっていた。




