世界を信じる
別のペンネーム、別の作品で某ライトノベル新人賞最終選考で落選しました。
どうぞ、お願いします。
第一章 哀しみはいつも寄り添い
1
「うう……」
みずからの口から呻き声が漏れるのを、眠りから覚醒しつつある意識の中で自覚する。
“例の”悪夢を見たのだろう――暗澹とした気持ちで思った。そんな感情を抱くことに後ろ暗さを感じつつも、眠りの中でさえ解放されない現実に重苦しさを覚える。
……瞼を開けた。
「えっと――?」
彼、ジョシュアは困惑する。端整だが、やや気弱な顔立ちの男だ。その格好は、外套、筒型衣《チュニク、》皮製の脚衣に革靴という物だ。小剣を佩くために使っている剣帯には複数の小袋を吊っている。剣自体は、どこかに失われていた。
きらきらと輝くような期待の眼差しが注がれている光景に遭遇したのだ。相手は見知らぬ幼い子供だった。その装からして庶民――恐らくは農民の子だ。
さらさらの茶色の髪に大きな双眸、それに柔らかな頬の曲線と愛くるしい顔立ちをしていた。
しかし彼の手は、横になっている――この段になって、ジョシュアは自分がどうもどこかの一軒家の一室の寝台に寝かされていることに気づいた――自分の顔に伸びており、小さな親指と人さし指が鼻をつまんでいる。道理で夢見が悪いはずだ。
そして、何故こういう状況になっているのか不明だった。
怒るべきなのだろうか? そんな疑問が脳裏をかすめるが、「誰かに不満を述べる資格が自分にあると思うのか?」という声が頭の片隅から響いてきて、半端に口を開きかけたまま固まる。
――そんなジョシュアを、子供は輝くような笑顔で見下ろしながら、
「起きた?」
と問いかけた。
「う、うん」
肯定するジョシュアの声は、鼻腔を塞がれているせいで鼻声になる。
「大丈夫?」
「う、うーん……」
ジョシュアは無邪気な問いかけに頭を悩ませた。どうなのだろう?
とりあえず身体のどこかが痛い、気分が悪いということはないが、この困った状況は“大丈夫”ではない。
「大丈夫じゃない?」
途端、子供の表情が曇る。
「う、うん、大丈夫だよ」
誰かを傷つけることに極端に臆病なジョシュアは慌てた。
「よかった!」
子供は再び笑顔を取り戻す。しかし、何かよからぬことを思いついたのか、悪戯っぽい色が瞳をよぎった。
刹那、鼻をつまんでいるのとは反対の手がジョシュアの唇、下部へと伸びる。左右から圧迫され、鳥の嘴のような形に変形させられた。
「鶏ぃ!」
彼の連想は間違っていないようで、子供は嬉しげに叫ぶ。
えーと……――この状況から逃れる方法は、と相手を拒絶する選択肢を除外しながら考えた。
「鳴き真似してぇ」
まったく悪びれることなく、子供はさらにそんな要求さえ行う。
「え、ぇぇ?」
ジョシュアは理不尽な要求に困惑を深めた。王様でも吃驚だよ……――が、子供は容赦なく、
「鳴き・真似ぇ!」
と声を大きくして繰り返す。
「コ、コケエ――」
……三〇代の齢の男が何をしているのだろうか、と少し情けなくなった。
(美味ソウ、ダ)
不意にジョシュアの思考に異質な感情が紛れ込む。
藁布団の下の右手が、別の生き物のように勝手に動き出そうとする――っ、とっさに右腕に力を込めてそれを押し留めた。
(血ヲッ、血ヲッ、血ヲッ――)
それは“右手”の衝動だが、自身の欲求でもある。ジョシュアは強烈な喉の渇きを覚えた。愛くるしいと思ったはずの子供に対し、“食欲”が湧き上がる。
黙れッ――彼は意思の力を総動員して、“右手”の衝動を押さえつけた。
(……――)
疲労感と引き換えに何とかそれに成功する。
「どうしたの?」
ジョシュアの表情の変化から異変を察したのか、子供が気づかわしげな目でこちらを覗き込んできた。
こんな幼子を食欲の対象とした……、その事実にジョシュアは暗澹とした思いを抱きながらも、
「何でもないよ」
とほほ笑む。
――子供は輝く笑顔を取り戻す。ただし、両の手は未だに悪戯を実行中だ。
「じゃあ、もう一回鶏ぃ」
「コ、コ――」
と真似を始めたところで、部屋に一つきりの扉が開く。そこから、若い女性が姿を現した。その外見は決して華やかではないが、健康的で活力に満ちている。
あ、とジョシュアは固まる。とんでもなく恥ずかしいところを見られた。うわぁ……――。
相手も、一瞬目を丸くして固まる。そして、
「こら、ニコル。お客さんに何してるの!」
と子供を叱りつけた。
わ、とニコルは慌てた様子でジョシュアから手を離し、女性へと向き直る。
「あ、あのね、ママ。おきゃくさんと遊んでたの!」
「それを言うながら“お客さんで”の間違いでしょッ。もう、この子は!」
必死に弁明するニコルを母親は睨み付けた。
「――あ、あの、お気づかいはありがたいのですが、怒らないであげて下さい」
自分への悪戯で怒られているという事実に居たたまれなくなって、ついジョシュアは口を挟んでしまう。
そこでやっと、女性はこちらの存在を思い出したらしく視線を向けて、「すみません」と頭を下げた。
「い、いえ。元気なお子さんですね」
「元気過ぎて、本当に困ってるんです。あなたを見つけたときだって――」
“見つけた”? ――子供の母親の台詞にジョシュアは眉をひそめる。その単語は重要な事実に結びついている予感を抱く。
「そうなの、あなた川岸に流れ着いてたのよ――憶えていない?」
こちらの表情の変化から何を思ったのか読み取り、彼女は言葉を重ねた。
川岸に流れ着いて、そう胸中で繰り返したところで不意に脳裏で記憶が弾ける。何があったかを思い出す――。
「そうか、川に落ちて……」
流されたのだ。
2
食卓兼居間となっている部屋で、ジョシュアはニコルの家族と共に食卓を囲んでいた。卓上に並ぶメニューはパン、白いんげんの小鳥風、肉のスープといったものだ。
開け放たれた窓からは昼の長閑な農村の光景が視界に入る――畑が家続きに広がり、その向こうには柵に囲われた家畜の豚たちの姿が見えた。そして、敷地の外には似たような構成の家々が点在している。
「助けてもらった上に、本当にすいません」
ジョシュアは卓を挟んで向かい側に腰を下ろす柔和の顔立ちの農夫の格好をした若い男、家の主であるベンジャミンに頭を下げた。彼の左手には妻のローラが、右手には息子のニコルがそれぞれ座っている。
「いやいや、行き倒れた方を見捨てたとあっては、この村の名折れになるからね」
ベンジャミンは笑みを浮かべて首を左右に振り、「さあ、いただこうか」と食事を勧めた。若いが、村長としての振る舞いは自然だ。
きっと彼が長を務めるこの集落は住みよいだろう――ジョシュアはそんな風に思いながら、一方で自分は絶対的にたどり着けない場所として平和な風景のことを捉えていた。そもそも、そんな暮らしを手に入れる資格は自分にはない。
いただきます、とジョシュアは恐縮しながら木のスプーンを手に取る。まず、豆料理を口に運んだ――次にスプーンを置いてパン。一昼夜意識がなく食べ物を口にしていなかったせいで、食が進む。
「遠慮なさらないでいい」
不意に向かい側からそんな声が飛んできた。
「いえ……」
ジョシュアは食事の手を一時止めて、視線を正面に向けた。遠慮じゃあないんだけどなぁ……――。
相手の手は肉スープの盛られた深皿を指している。こちらがその料理に手をつけていないのを目に止めて、ジョシュアが遠慮していると勘違いしたのだ。
「夫の私が言うのも何だが、妻の肉料理は最高だよ。ぜひ、召し上がってくれ」
「……はい」
家長の親切から出た言葉を撥ね退けることができず、ジョシュアは仕方がなしに深皿を手に取った。
精力をつけるために肉食は必要だ――しかし、“とある出来事”のせいで肉全般が苦手な彼は、出来れば最後に口をつける気だったのだ。
そろそろとスプーンで肉を口もとに運ぶ。うう、嫌だ……――。胃の付近が不快に蠢く。
……口内に肉が侵入する。料理を作ったローラの手前、咀嚼するのを躊躇する訳にもいかず顎を動かす。
肉を噛む感触、脂の味などが舌の上に広がった。下茹で、中火での煮込む作業、刺激のあるハーブやサフランでの味付け、パン粉でのとろみづけ、そして風味を高めるためのワイン酢などの使用――一切の手抜きのない調理の姿勢が料理からは伝わってきた。
常人なら、幼い頃のジョシュアならそれらを美味いと感じることができた。だが、今は嫌悪感に背筋が震える。今すぐ吐き出したい――。
「どうだい?」
とベンジャミンの期待の眼差しをこちらに注いだ。どうやら、妻の料理を自慢したくて仕様がないらしい。
ジョシュアは言葉に窮する――美味いという安易な言葉しか頭に浮かばなかったのだ。しかし、相手はそれだけでは不満だろう。
「鶏ぃ!」
唐突にニコルがこちらを指さす。どうやら、例の物真似を求めているらしいとジョシュアはとっさに理解した。
「コ、コケエ――」
助かった――気恥ずかしさに耐えながらも、彼は鶏を真似る。
「こら、ニコル。お客さんに失礼でしょ!」
「ジョシュアさんも、そんなことはなさらないで」
目を吊り上げるローラ、苦笑を浮かべるベンジャミン――料理の感想を求める雰囲気はうやむやになった。
そのことに安堵すると同時に、ジョシュアは仲の良い家族の様子に自然とほほ笑む。
が、次の瞬間、その笑顔が凍りついた。
(血ノ臭イ、ガ、スルッ)
右手が感動を覚えたように身震いする。
血の臭いがこの村で? ジョシュアは信じられない思いを抱いた。窓の外に広がる景色は、余りにも右手の言葉とはかけ離れている。
だが、吸血擬手の血に対する敏感さは狼が獲物の臭いを求めるのに劣らないものだ。
右手が“言う”からには嘘ではない――。