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肥え太った御玉杓子

作者: 彩華霧景

「僕、という人間が見ている世界は、きっと世間から見れば異常なんでしょう。

けれど、それを指さし笑う権利など、

……きっと、あなたたちにはありませんよ。」



『大きくなった御玉杓子』



ヒトっていうモノは、現在イマ流行はやりに敏感な生き物だ。それでこそヒトである――とすら、俺は思っている。

それが別に悪いことだとは思わない。それ故に世の中のメディアは発達したのだし、俺たちのような記者は食っていくことが出来るのだし。言うなればむしろ「万々歳」。

その証拠に、街を歩く人々からは同じ話題が飛び出し、同業者はそれに笑みを浮かべながら奔走している。

『MoSfW』――それが、今の世界に、比喩や誇張無くその「単位」で流行している物の名称だ。簡単に言えば、科学者のグループ。正式名称は『Masters of Science for World』世界のため科学を極めた者たち、だとかそんな意味だったはずだ。

昨日までは、彼らは何を成し遂げたというワケではなかった。だけど、今やアイドルが結婚でもしたみたいに、世界中でその名前がささやかれている。

当然、理由無しに、なんてワケも無い。

『医療拡張端末』通称『MCET』。めちゃくちゃ簡単に言うなら、お医者さんお手伝いシステム、フォー、民間人。みたいな感じだろうか。スマホみたいな薄っぺらい機械一枚で、ほぼ病院と同じだけの検査が出来る、といううたい文句と共に発表されたデバイス。

全世界の言語に対応し、昨今の流行病はやりやまい含むあらゆる病の情報が入っている為、世界的にこの情報は広まった。

価格こそどうなるか不明だが、いつかは一家に一台、なんてことになるかもしれないと言われている。

そんな、今の流行を具現化したような彼ら。そのメンバーの一人。恐らく、今現在知らない人は一、二割程度なんじゃないだろうか。グループ最年少、『蒲生がもう柊斗しゅうと』年齢、二十七歳。

俺の、大学時代の先輩。

物腰柔らかで穏やかで、でもどこか強くて、なんとなくミステリアスで、でもわかりやすいような、不思議な――言ってしまえば、変な人。

敬意はある、が、彼をどう説明しても、変な人、に戻ってきてしまう。

そんな先輩と、彼は今日、これから――会う約束をしている。


「そろそろ、時間か。」


記者を始めてから、なんとなく続けている五分前行動。待っている間に、今日聞くことを頭の中で纏めるのは、俺の癖になっている。

体感五分。シンプルな腕時計に目を落とせば、丁度その時間を指し示す数十秒前。誰に言うでもなく、ぽつりと独り言を呟く。

凭れていた石の塀から身を起こし、ぐるりと周りを見渡す。右から左へと回った俺の首は、左向きで止まる。向こうから、ゆっくりと歩いてくる見覚えのある人影が目に留まった。

向こうも俺の姿を確認したようで、少し小走りに俺に向かってくる。


「ごめん、お待たせ。」

「いえ。……お久しぶりです。蒲生先輩。」


謝罪を、気にも留めていないという意を含ませた二文字で受け流し、こちらも小さく頭を下げる。


「久しぶり、有間君。」


時間にして二、三年ぶりに出会ったその人は、口調や性格もさして目立った変化は無いが、容姿はそれなりに変容していた。

少なくとも以前までメガネは無かったし、髪もここまで綺麗に整えてはいなかったような気がする。服も、彼が着ているのは見たことのない、一年前ほどに流行ったブランド品になっている。

それでも、一つだけ全く変わっていないものはある。

この人とは、目が合わない。今日もどこか、俺の背後を見ている、……ような気がする。彼が話を聞いていないとか、上の空だ、とかじゃないと思う。ただ、目が合わない。


「今日はありがとうございます。先輩も忙しいでしょうに。」


あはは、と目を細めて遠慮がちに笑うその姿に、否定もしない辺りその通りなのだろう、と少し申し訳ない気もする。

けれど、こちらも一応仕事。じゃあ、と切り出し、予約していたカフェへと向かう。

ここら一帯で、俺が良く取材に重宝している店。席が区分けになっており、いかにも『話しやすい空気』を作りやすい。お菓子も、まぁ少し高いが、その分美味い。

一時テレビにも取り上げられていたのだが、そこまでの宣伝にはならなかったようで、客が増えたのも一日二日だったのを覚えている。そのタイミングでちょっとしたお偉いさんの取材があったから、俺としては都合のいいことこの上なかったわけだけど。

いつも使っている席に座り、向かいに座った先輩にメニューを渡す。


「俺はもう決まってるんで、どうぞ。」

「よく来るの?」

「取材で、まぁ、良く来ますね。」


そうなんだ、と返事をしながら先輩がメニューに視線を落とす。

写真のないシンプルな見開きの表。それに真剣な表情で向かい合う先輩は若干面白い。声をあげて笑うことは、流石にしないが。


「有間君は何食べるの?」

「チョコレートケーキです。あと、珈琲コーヒー。」


我ながら大人っぽいセットだと思う。


「苦いの大丈夫なんだ?かっこいいなあ。」


そういえば、この人は比較的甘党だったか。

数十秒して、よし決めた、とメニューを机上に置き、手をあげ店員を呼んでくれる。任せてくれればいいのに、とは思ったが、その言葉を口から出すのは辞めた。

バイトらしき大学生ぐらいの女性が、店の雰囲気を壊さない程度の元気さを携えて注文を聞いてくる。

メニューに目をやることなく、先程先輩に告げた二つを女性にも伝える。続くように、メニューを指さしながら先輩も注文をする。ラズベリータルトと、期間限定らしい「さくらソーダ」なる特別メニュー。

伝え終え、バイトが復唱して確認も終える。少々お待ちください、と頭を下げて去っていったのを見送り、背凭れに背を預ける。


「取材は注文来てからにしますか。最近、どうです?忙しい以外に、何かありました?」


雑談の掴みになりそうな切り口を投げる。こういう時間を、俺はいつも取っている。理由は諸々あるが、俺にとっての理由は準備のため。鞄から、メモとシャーペン、スマホを取り出して机の上に並べる。古典的と言えば古典的だが、俺のやり方はこうだから仕方ない。


「んー、……まぁ、健やかに生きてるよ、ってこと……ぐらいしか。」

「一番いいっすよ、それが。」


スマホの画面を、録音が出来る状態にする。こういうのは相手に見せた方がわかりやすい。

まあ、取材には本気だから、実はもう一つ録音機器はあるんだけど。


「有間君は?記者やってる、って聞いてちょっとびっくりしたんだけど。」

「……そう、かもしれないですね。」


知り合いには、ほとんど誰にも自分からは言っていないから当然と言えば当然だ。

昔の俺はそれなりに、というより大分暗かったし、何というか、人に自分からアクションを起こすような人間でもなかった、というのは事実。


「まぁ……興味、っていうんですかね。新聞好きだったんで。」


好きなことを仕事にするのが一番、なんてよく聞くが、こうして記者を始めてからは、その意見を本気で支持したくなったものだ。興味と好意で、仕事は案外続けられる。それは、目の前に居る先輩も同じかもしれないが。

めげる、とか、諦める、みたいな言葉は随分前に俺の辞書から消えたらしい。その代わりに、好奇心と、度胸、っていうやつが新しく追加された。


「楽しくやってますよ。」

「そっか。」


にこ、と音が付くような笑顔で俺に笑いかける。お互い特に苦は無いようで、漠然とした安堵が胸を満たす。

間も無く、先程のバイトが、頼んだものを持って戻ってきた。トレーの上は赤と黒で二分されており、向かい側からは「トランプみたいだね」、なんて声が聞こえてくる。

机の上に並べ終え、会釈をして再び別の席へと移動する背を見送って軽く手を合わせる。ならうように先輩が手を合わせたのを横目に、じゃあ、と一息おいて、声を揃え頂きます、と呟く。


「じゃあ、何から聞きましょうかね。」


本当は既に決まっているが、誰だって常套句というのは心構えに必要なモノだろう。というか、俺がその一人。

大きめに取ってしまったらしい一口を少し時間をかけて飲み込んでから、何でも聞いてくれていいよ、なんて言ってくれる。

「何でも」。その言葉は記者にとっては余りにも甘美な響きだが、その「何でも」も所謂いわゆる常套句であることも知っている。多少答えられないことがある方が自然だ。

いや、この人の場合は――本当に何でも、かもしれない。それは多分、これからわかるだろう。


「いつからプロジェクトはあったんですか?えらく、突然の発表でしたけど。」


始まり、ってのはかなり大事なものだ。始まりそのものよりも、期間の方かもしれないが。

まぁ、何にしても、始まりさえわかれば色々なことが浮かんでくる。


「二年前、かな。グループが出来たのは。プロジェクト自体は、一年半前くらいだったと思う。」

「早い――ですよね。それ、相当。」

「うん。」


柔らかい、けれど、自信を持った強い返事。昔通りの先輩の面影。

圧迫感すら感じるその声音に伸されてしまわないよう、手を動かしてペンを走らせる。


「プロジェクトの創始者は?リーダーさん……えーっと、戸塚さん、です?」

「ううん。創案者は桐野きりの叶実かなみ。医学の方の先輩。」


桐野叶実。元は医療従事者で優秀だったらしいが、一時育児休暇を取ったらそのまま解雇され、路頭に迷っていたところを戸塚――『MoSfW』のリーダーに声をかけられたそうだ。

なるほど、だから『医療拡張端末』か、と一人納得する。


「桐野さんはね。」


書き続ける手は止めず、耳を彼に傾ける。目線も一瞬向ければ、彼はその続きを口にする。


「『復讐』だ、って言ってた。」

「……復讐?」

「あたしを解雇した彼奴等あいつらに、後悔させてやる、って、さ。」


聞き慣れない言葉を復唱する。即座に入った先輩の説明で、ああなるほど、とストンと言葉が心に落ちる。

何とも人らしい。人間らしさなど、同類にはどう頑張ったって計れないモノだが、俺が持っている価値観は、桐野という人間をいやに「人らしく」させた。

復讐は何も生まない、なんて言うけれど。その言葉の嘘が立証されたんですね、と先輩に茶化せば、同意が返ってくる。


「桐野さんは強い人だね、……とっても羨ましいな、って。」

「俺は、先輩も強い人だと思いますけどね。」


羨ましい、という単語が先輩から出てきたことに少しだけ驚く。羨望、って言うのは、確かに才能ある人に感じる思いとしては自然なものだとは思うが、なんとなく先輩がそれを告げるには違和感があった。……単に、大学時代聞いたことが無かっただけ、かもしれないけれど。

フォローも兼ねて、自分がついぞ思っていたことを告げれば、乾いた笑いが彼の口から零れる。お世辞と受け取られたのがありありと分かって少々ムッとするが、顔にも、勿論声にも出さない。

聞いた話を自分なりに纏めて、いずれ桐野さんにもアポを取ってこの話の真偽は確かめないとな、とメモ帳に昔貼った付箋を剥がして貼りなおす。


「それじゃあ、先輩――蒲生さんは、どう今回の『MCET』に貢献されたんですか?」


今日の本題。取材は、その人本人が何をしたのかを聞くためのものだ。あまり、事細かに聞いても仕方ない。……二年前くらいに、学んだことだ。

言葉の終わりと共に、一旦ペンを置き目をあげる。


「……先輩?」


見上げた先輩との目線は、やはり合わない。どこか表情の抜け落ちた顔で、虚空を、遠くを……見つめている。

目は口ほどに、という言葉があるが、視線の方向でその人が今何を考えているか、というのはわかるらしい。思い出すには左上、作り出すには右上、だったか。

けれど、先輩はどちらでもなく、真っ直ぐに、空を見つめていた。視線を追うように振り返り、背後の窓の向こうを見るが、特別目ぼしいものは無い。人通りも少ないため、ここから見えるのは木々くらいだ。

疑問を心に呈したまま体を元の位置に戻せば、先輩の表情は柔らかく戻っていて、「そうだねぇ」なんて間延びした声で左上の方に視線を彷徨さまよわせる。まるで先程の数秒なんてなかった、みたいに。何事も無かったかのように言葉を紡ぐ。

……「変」な人だ。「変わらず」。

こういうことは初めてじゃない。ただ、昔はもっと……表情があったような気がする。学生時代は、なんとなく聞くのを躊躇っていたけれど、今なら。


「僕は……結構年の離れた、加賀さん、って人と所謂いわゆる"センサー"周りを作ってた、って言うのが一番わかりやすいかな。体温とか、口内をカメラで写したときに異常があるかを検知できるカメラ、とか。」


続けて詳細を話してくれる。多少の知識を詰め込んでは来たが、やっぱり今の俺では理解が追い付かない。ペンを置き、録音がちゃんと出来ているかを理解する。こういう時は、後で調べながら聞き直すのが一番だ。適当な相槌を打ち、いくつかの疑問を挟む。

あまり手を付けていなかった糖分を補給する。先輩の穏やかな声音の説明を肴にしていると、学生時代に先輩に奢ってもらったことが自然と思い出される。出会って間もないくらいの頃だった。やたら……こう言っては何だが、先輩には目をかけられていたというか、懐かれていたというか。よく話すことがあった。

何も出来ない、その上性格すら暗かった俺にとっての憧れの一人だった。今も尊敬はあるけれど、道は違えたから、憧れ、ではなくなってしまった。

話を聞き逃さない程度に感傷に浸る。器用なワケではないが、いくつかのことを同時に考えるのには慣れていた。そういえば、その話をした時、彼は俺に羨ましい、と言葉を投げていた覚えがある。

……あの時も、先輩は変な顔をしていた。怯えたような、そんな顔。

少し遠くの席で、椅子が倒れる音がした。

丁度先輩の説明が一段落し、薄赤色を呈する飲み物に口をつける。合わせるように俺も珈琲を一口煽り、一旦録音を止める。


「長々とごめんね。纏めるの、って苦手で。」

「いやいや、わかりやすかったですよ。」


世辞のつもりは無いのだが、どうにも伝わらない。俺の褒め方が薄っぺらいと言えばそれはそうなのだけれど。物を書く仕事をしていても、咄嗟の言葉選びは経験が足りない。そのことで失敗したことは未だ特にないから、今どうこうしよう、とかそういう気持ちも特にない。


「そう言ってくれるのは、嬉しいけど。」


はにかむように笑いかける。その表情は、どこか暗いような、霞んでいるような気がする。褒められることがそんなに苦手な人だっただろうか。


「けど、って何ですか。素直に受け取ってくださいよ。」

「うーん、善処する。」


一番信用できないYESが来た、と苦笑する。

俺につられるように先輩も目を細めて笑い、小さく謝罪を口にする。

まぁでも、人に褒められたのを取り敢えず否定したくなる気持ちもわかる。本来、俺は大学生の時はむしろ、そういう側の人間だった。こちらもすみません、と謝り、置いたメモを開きなおして録音を再開する。


「それじゃあ……先輩から見て、『MoSfW』って、どうですか?何か思ってることとか。」

「……どう、かぁ。」

「え。」


突然、目があった。


「ん?」

「あぁ、いや、いえ。」


頬杖を付いて、少し困ったような表情で笑ったその瞳が、多分、初めて俺の目を見た。

驚いてつい声が出てしまったのを、慌てて誤魔化す。そうしている様もじっと見つめられているようで、なんだか落ち着かない。真っ直ぐ見ていると、別人のように見えてくる。

その視線が、ふ、っと俺の背後に向けられる。


「リーダーの戸塚さんは、リーダーなだけあって、個性どころか知っていることすらバラバラな人達をすごくしっかり纏めてくれるんだよね。モチロン、戸塚さん自身も、東京大学を出てる人だし。そりゃ頭も良いし、人を集められる人望もあるし、思い切りも抜群に良い。」

嘘を吐いているようには聞こえない。でも何故だろう、また――これは、圧迫感。

俺が感じているんじゃない。感じてるのは、恐らく先輩の方。まるで、頭に銃口を突き付けられているような、首筋にナイフでもあてられているような。


「他の人たち……当然、桐野さんも、加賀さんもだけど、みんな僕より長く生きてて啓蒙けいもうが高い、っていうのかな。全員が全員、僕に足りない、どうしても追いつけない、経験、って言うのを持ってる。それに……正直、僕がここに居るのは間違いなんじゃないか、ってぐらい……凄い人達ばっかりなんだよ。」


自分を卑下しているのとも違う。先程まで言っていた羨望じゃ、何かが足りない。そんな声音が、淡々と述べる内容は、傍から聞けば、素晴らしい謙虚さを持ち合わせた人間だと称賛されるだろう。これを記事にそのまま書き起こせば、世の人々は『若者として』という接頭語と共に絶賛されるだろう。確実、なんてこの世にはないが、確実に。

だけど……手が、動かない。どうしても、気になって仕方ない。彼の視線の先が。

突然奥の方から、ガラスの割れる音が響いてくる。焦った様子のバイトが、すみませんお客様、なんて叫びながらふためいている。


「大丈夫かなぁ。」


先輩の口から洩れる心配は、確かにその色を湛えた声だが、目は、表情は、変わらない。


「あの、先輩。」


ずっと前に、俺の辞書にある言葉が追加された。それは、誰かを、何かを殺すかもしれないモノで、突き詰めれば成長するがリスクを伴うソレ。

俺はそれでも――抑え込まなかった。それは、俺が未熟だからだろうか。


「……何か、居るんですか?その――俺の、後ろとかに。」


先輩の視線は動かない。静かな笑顔が、眉を顰めた悩ましげな表情へと変わっていく。細められた瞳には、何を言っているんだ、みたいな不審の感情も、驚愕も共にびた一文すらなく。

そこに浮かんでいるのは、懊悩の色に、俺には見える。

先輩の手が、おもむろに机上へと移動し、何かを握りつぶすように握り込まれる。緩慢な動きでそれを解き、握り、解き、……両手を顎の下で組むように重ね合わせ、視線が俺の背後を通り過ぎ、首元あたりに向けられ、反射的に自分の首元に手を添える。……当然、そこには何もない。自分の、肌の感触だけ。


「いるよ、って、言ったら、」


視線が、俺の事実を求める手の内に向けられる。


「有間君は信じる?」


揶揄うような、それでいて真剣な、矛盾した二つが折り重なった声が、試すように俺の耳を打つ。

信じるか、信じられないか。その二つ、何方どちらかを取れというのなら、まず間違いなく後者。俺の目には何も映っていない。此処に居るらしいその何かの存在は、だけど、此処で信じられないと言ってしまえば、きっとこの話はここで終わりだ。

ずっと……それこそ、出会った時から変な人だと思っていたんだ。その一端、いや、もしかしたらその全てを明らかにするかもしれないこの話。


「俺は……聞きたい、ですね。……何が、居るのか。」


そんなの、気にならないワケがない。

きっと答えとしては正解ではない。二択の質問に三択目で答えるのは、往々にして不快感を与えるもの。だけど、何方も答えたくなかったのだ。だから許してほしいと思うのは、小学生並みの俺の我儘。

先輩は、一瞬驚いた顔をした後、一度目を閉じて小さく息だけで笑う。呆れているのだろう。微苦笑を浮かべる先輩は、ちょっと怖い話だよ、なんて前置きの後、組んでいた指を解いて、俺の頭の横あたりを指さす。


「う~ん。……御玉杓子、かな。形状だけなら。」

「……オタマジャクシ?」


想像の数倍、何方に分類するかと言われたら百人の内九十人くらいは可愛いに入れるだろう、可愛らしい名前の生き物に、首を傾げて復唱する。


「そう。大きな、御玉杓子。」

「大きな、って……御玉杓子のまま肥大化している、とかそういうことですか。」

「そうそう。」


それは、多少怖いかもしれない。さっきの視線の運びを、その御玉杓子の全長を目でなぞったとするならば、俺の首周りを覆えるほどの大きさ、ということなのだろうか。

少しだけ血の気の引いた思いで、身をすくませる。


「それで――顔には、口しかない。大きな口。虚空みたいに、中は見えないんだけど、のこぎりみたいに歯が並んでてね。ずーっと、大口を開けっぱなしで、そこに居るの。腕と足もあるんだけど、……人の腕から、筋肉が無くなって、それが四つん這いになってる時みたいに折れ曲がってる。足も同じ。それが、一体じゃなくってね。……ねぇ、有間君。僕には、外が見えないんだ。何かいるのか、じゃない。僕には、それしか居ないんだよ。……ねぇ、有間君?本当に痛くないの?それ。腕、めちゃくちゃ掴まれてるけど。首も……苦しくないの?それに、――」

「ちょっと、ッ、待ってください。」


ヒートアップしていく先輩の声を止める自分の声は僅かに震えていて、何故か、客観的に、今、俺は怖いと思ってるのか、なんて頭の隅の方で考えていた。


「もう……十分、ですよ。」


何が怖いのだろう。見えない「何か」か。先輩か、いや、違う。どちらも。

もう十分だ。何も居ないと、何度も確認したのに後ろを向けない。誰にも触られていないはずの腕に謎の違和感がある。こういうの、何て言うんだっけ。思い込み?一種の洗脳、かもしれない。息が詰まるような感覚があるのは、いつも先輩から感じている圧のせいだ。


「妖怪とか、お化けとか、そういうのなんですか、それって。先輩って、霊感とか、ありましたっけ。」


そんな話は聞いたことも無い。それに、一緒に肝試しに行ったこともあるにはあるが、あの頃からそれが見えていたんだとしたら、俺にはもう区別がつかない。

なんだか祈るような気持ちだった。普通に考えれば幽霊で当然だし、そういう答えが返ってくるに決まっていた。何者かわからない、そんな謎に塗れた化け物だ、って。でもなんとなく。そんな常識が通用しない気がして。

記者になってから気付いたことがある。別に自慢できることでもないけれど。


「違うよ。」


俺の勘って言うのは、当たる。

きっぱりと否定した先輩の声に、自分の口から諦めたような笑いが漏れる。


「じゃあ……それ、一体何なんですか。」


信じるか、信じないか。俺は選ばなかった。どうしても信じられない、と俺が思ったのなら、信じなければ良い。意味わかんないですね、って笑えばいい。そのくらいの受け流し方は、たった数年。されど数年で培った。

先輩に乱されっぱなしのペースが、少しだけ余裕を取り戻す。自分とは対照的に、余りにも落ち着いた様子の先輩と目が合う。隠し事は無くなったからだろうか。なんていうのが一番わかりやすいかな、なんて言っている。


「それは……多分、嫉妬、っていう奴だよ。」


……嫉妬。


「人の、ですか。」

「聞くんだ。」


尤もな返答に口をつぐむ。

ずっと感じていた、先輩が口にする羨望への違和感。それを形にした二文字。


「だからまぁ……ある意味。僕自身、みたいなモノなのかな。」


自嘲気味に笑う先輩は、どこか諦めたような、受け入れてしまったような、愛おしさすら感じさせる視線を、また俺から外す。

狂ってしまっているんだろうな。

柔らかく、人当たりの良いその顔を見て、こんなことを彼に思うのは、きっと今現在生きている人間の中では俺だけだろう。


「……いつ、から。」


吐きなれた質問が、意思を介さずに発される。聞いてどうしようというのか、なんて俺にもわからない。取材でもない。記事にするつもりも無いのに。


「物心ついたころから、かな。」


過去を思い出すように、小さく呟く。


「ずっと、誰かが羨ましかったんだ。羨ましくて、妬ましくて……」


とつとつ、という風に語り始める。低くゆったりと流れる言葉の優しさに、その内容は苦しいほど反している。


「でも、最初はただのお化けとかだと思ったんだよ。霊感がある、だとか……でも、そうじゃない、って。気付いて。」


泣きそうに声が震える。自分だけ違うって言うのは、誰だって信じられない。すぐには受け入れられないモノだろう。

俺もそうだったから、わかる。……わかる、って言うのを他人に言うのは無責任極まりないが、同調は、他人が求めるものよりも、個人が自分のエゴのためにやるものだ、と俺は思っている。

不意に、先輩が空を仰ぐ。ハハッ、なんて笑い声と共に天井に焦点を合わせる。


「あーでもっ……」


ふー、と息を吐き出して、体を元の向きに戻す。

飲み物の入ったグラスを揺らし、一口だけ喉に流し込む。一連の動作になんとなく惹きつけられ、頭がぼんやりと白塗りされていく。

ゆるり、と目線がかち合った。何故か、異様なまでに嬉しそうな顔。大学の頃にずっと見ていた、あの人懐っこく柔らかな笑顔。


「君はそうじゃなかった。」

「……はぁ、い?」


俺?

白塗りされていた頭は、理解するよりも先に疑問を彼に渡す。

白に色が付いていく。それが正しく描かれる前に、先輩が口を開いた。


「君には……有間君には、そういう……嫉妬、って感情が生まれなかった。」

「……そう、なんですか?」


うんっ、なんて楽しそうに、一切の毒も無く俺に視線を注ぐ。

漸くしっかりと思考を紡げるようになった頭が、高速にそれを回し始める。

嫉妬が生まれなかった。それは、良い事なのだろうか、悪い事なのだろうか。善悪の差って言うのは、俺にはわからない。きっと先輩にとっては、例の『化け物』を見ることが無いから善い事なんだろう。嫉妬というものが引き起こすのは、大抵は喧嘩とか、何かのトラブルだけだ。一般的にも、良い方だろう。

だけど……先輩にとっての嫉妬は、きっと一般の人間の"羨ましい"、のそれだ。


「羨むようなところが無かった。……こう言っちゃったらさ、失礼、って君は思うのかな。」


……どう、なのだろうか。俺はそれを、失礼だ、と今感じているんだろうか。自分のことのはずなのに、まるで空気を掴んでいるかのように、手応えが無い。

自分には、確かに先輩に羨まれることなんてない。そんな存在ではなかった。嫉妬するような才能も、人格も、何一つ持ち合わせていなかった。

高校から大学に上がるまで、無個性と名のついた、誰も必要としない価値を抱えたまま生きていた。なんとなく行った大学で、なんとなくサークルに入り、出会った先輩は――輝いていて。違う世界の人だと思っていた。

なのに、矢鱈と先輩は俺と関わりを持ってくれようとして。その時に……初めて思ったのだ。変な人だ、と。変わった人だ、と。

だから、俺は今――ショックなんだろうか。


「それって、先輩が俺と仲良くしてくれたのは、俺が凡人だったから、――いや、何もない人間だったから、ってこと、ですよね。」


それがわかったからと言って、別に涙を流すわけじゃない。怒りたいわけじゃない。絶望しているわけでも、喜ばしいわけでも、ない。

先輩の瞳が、真っ直ぐに俺を射抜く。グラスに添えられていた手指が、机上水滴をなぞる。一粒の水滴から指を引き、少しだけ角の立ったそれは、水で出来た御玉杓子のようだった。

注がれる視線から、ふい、と目を逸らす。


「そうだよ。」


間の空いた、短い肯定。逆切れしても別におかしくは無いし、出会ったばかりの頃なら、そうしていたと思う。

けれど、彼の見ている世界を知った今なら。そりゃ、化け物なんて見たくも無いだろうから、俺みたいな奴とずっと居たくなるのも当然のことだろう。

思考の歯車が引っかかる。一つだけ、噛んでいない「歯」がある。

動くことのない御玉杓子に目を落とした。


「そう。……だったんだけどね。」


哀しそうな声の響きが、耳に突き刺さる。純粋な悲哀の中に、震えに隠れた酷い憎しみが感じ取れてしまう。その矛先は、当然俺。

未だ残っている冷めた黒い液体が、俺の表情を反射する。写り込んだのは、恐怖というやつだった。


「君といた時は、僕は普通の人だと思えたのに。……化け物は、僕には関係ないと、思えたのに。」


浴びせかけられる恨み言。きっと、俺が聞いている必要はないし、どこかで止めて、さっきみたいに、もうわかったから構わない、と告げても、別に良い。

それでも、わかっていても止めずに、こうして聞き続けているのは、――俺に、俺自身に、朧げな罪過の意識があるから。……それと、もう一つ。どうしようもなく、怖いのだ。周りに、得体のしれない化け物がいるみたいに。それが、何をするでもなく、俺の体に圧し掛かってきているみたいに。

逸らしていた目線を、先輩の揺れることのないそれに掬われるように合わせる。


「っ、はははは。」


乾いた笑い声、少し遠くの席の人が、一瞬こちらを見て、何でも無かったようにまた向き直る。


「化け物は――どうしても、僕みたいだ。」


先輩の表情が、ぐにゃりと歪む。笑っているような、絶望しているような、細めた目から得られる情報は少ない。何もかもを遮断しているように笑っている。

吸い込まれた視線が、彼の顔から離せない。嫌になるほど、人の顔をしている。その表情から、ぞわ、と冷たい何かが背筋を伝い落ちていくような感覚がする。

乾いた喉に、音を立てて唾液が流れ込む。

突然。何かが手の甲を滑る感触がした。


「っ、う。」


漏れた声は、情けない震え方をしている。自分の手に目を落とす。そこにあったのは、俺の手に重ねられた先輩の指。


「ねぇ。」


短い声にはじかれたように、視線を先輩の瞳へと戻す。

その表情は、……美しく、作られていた。まるで、人形のように。それでも、その表情を、先輩を人だと俺に理解させるのは、俺の手に添えられた指に熱があり、爪が突き立てられるように力が籠っているからだ。

背後の窓が、ガタ、と風で揺れる。今日は、そんなにも風の強い日だっただろうか。


「僕は――君が、羨ましいよ。その優しさが。……僕には。足りないんだ。」




数週間後。

俺が売り出した新聞は、今この世界を揺るがす「流行」に乗って、飛ぶように売れた。

相も変わらずに、今日も町中では、『MoSfW』の名前が闊歩している。新進気鋭の科学者グループ。

俺はあの日から、先輩と連絡を取り続けている。まるで、あの日なんてなかったように。あの日先輩が俺に話した内容が。いや、話したことそのものが、夢だ、とでもいうように。

そうした先輩の振る舞いに――俺は、乗ってしまっている。

スマホに入った録音は、その責務を全うすることも、削除されることも無く、俺の記憶と、スマホの中に眠り続けている。

最後までお読みいただきありがとうございます。

楽しんで頂けれたのであれば幸いです。

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