1-1 私の前世
私の新しい雇用主ーー旦那様は、おかしい。
紹介してくださった元旦那様の執事から、あらかじめ変わっているという話を聞いた。
けれども給金が高くて、休暇もたくさんもらえる。
好条件に釣られて、頷いた。
「旦那様は今朝もとても美しかったわ。まるで芸術品のよう。それだけじゃなくて思わずクシャミをしてしまった私を気遣ってくれたり、本当優しいわ」
同僚のメグは旦那様の部屋から戻ると溜息混じりに話す。
「そうね。古ぼけたドレスの匂いを嗅いだり、香水を撒き散らしたり、鏡を見て、うっとりとしていなければ、本当に素晴らしい主人だと思うわ」
「ジャネット。それは言わないことよ。メイド長がどこで聞いてるかわからないわ」
休憩室にいるのは私とメグの二人っきり。だからこそ、正直な感想を漏らしたのだけど、彼女は少し怯えた様子であたりを窺っている。
私の名前はジャネット。
十五歳の時に家を飛び出して、こちらで働き始めて二週間が経った。
メグを含め、同僚は優しい。もちろん、上司であるメイド長も旦那様のロン・ハレット様のことに触れなければ、とてもいい上司だ。
ご飯も美味しいし、休みも四日置きにいただける。
旦那様様があんなに変わっていなければ、ずっと働いてもいいのだけど。
「ジャネット。いいところだけを見て。旦那様は少し変わっているけれども、それを除けば完璧な旦那様じゃない」
いや、除く時点で完璧じゃないと思うけど。
そう言いかけて、私は口をつぐんだ。
メグは旦那様が大好きだ。けれども恋愛とはそういう感情ではない。彼女にはちゃんと彼氏もいる。ただ崇高している感じだ。
私はまだこのお屋敷にきて二週間だし、その域に達していない。
いや、無理だと思う。
だって、いくら顔が良くて優しくても、ちょっとね。
使用人を虐げたりする旦那様もいるので、それくらいは目を瞑るべきだと思うのだけど、何か許せないのだ。
旦那様の姉さんは十七年前に亡くなっている。
どうやら旦那様を暴走してきた馬車から庇って亡くなってしまったらしい。
それが心の傷になっているらしくて、旦那様はお姉さんのことをずっと思って生きている。
気持ちはわかるけど、もう十七年も経ってるし、傷も癒えるだろうと思うのだけど、旦那様にとってはそうじゃないらしい。
鏡を見て姉上と呼びかけたり、相当重症だと思う。
彼女の遺品であるドレスや装飾品を持ち出して、匂いを嗅ぐのも本当におかしいと思う。
お姉さんは旦那様によく似た容姿をしていて、それはそれは美人だったらしい。
彼女は十六歳の誕生日を待たずなくなり、旦那様の荒れ具合は酷かったらしい。
だから、今のようにちょっとおかしくても、生きていればいいと大旦那様夫婦は温かく、いや諦めて見守っている。
「さあ、休憩はこれくらいで、お茶の準備をしましょう。ジャネット、旦那様のところへ持っていってくれる?」
嫌です。
そう答えたかったけれども、メグの視線はお願いというよりも命令という感じで私は頷くしかなかった。
☆
旦那様が執務室にいなくて、安堵した。
不在の場合もお茶と焼き菓子を置いていくように指示が出されているので、お茶用のテーブルに並べて部屋を出ようとしたら扉が突然開いた。
勢いよく扉に頭をぶつけて、ヨロめく。その瞬間、何かが弾けたような感覚がして様々な記憶が押し寄せた。
妄想とは思えなかった。
「すまない!大丈夫?頭を打ったのか?」
旦那様ーーロンは慌ててよろめいた私を支え、謝罪をする。
ふわりと柔らかそうな銀色の髪、空色の瞳が近くにあって、懐かしくなる。
思わず彼の髪に触れそうになって、慌てて手を引っ込める。
「ろ、旦那様。申し訳ありません」
「申し訳ないのはこちらだ。医者にみせよう」
「大丈夫ですから」
完全な不注意だ。
自室に誰かがいるなんて彼は思わなかっただろう。
扉を開けて中に入るべきだった。
いつもの癖で扉を閉めてしまった。
「旦那様。どうぞ。ごゆっくり。今日の焼き菓子はあなたの大好きなシャリスですよ」
たかが扉を頭にぶつけただけだ。
大騒ぎすることはない。
ロンに頭を下げると、メイドらしく部屋を出た。
前の旦那様は結構なお年で、お一人住まいだったのだけれども、息子夫妻の屋敷へ引っ越すとかで、解雇された。それでこのお屋敷、ハレット家を紹介してもらったのだけれども。
言いづらそうに、少し変わっている。だけど、とても優しい方だからと前の旦那様の執事が言っていた。
そう、旦那様は変わっていた。
けれども旦那様としては誠実で優しくて、おかしなところに目を瞑れば問題はなかった。
でも、私は気になった。
なぜ旦那様のおかしな行動を見て胸がムカムカするのか、ちょっといい加減にしたほうがいいとイライラするのか、わからなかった。
だけど今はわかる。
彼がおかしくなったのは、私のせいだからだ。
だから、罪悪感も感じて、それが苛立ちに変わったんだろう。
それと十七年も経つのに、私のことを忘れられないロンにもイライラしたのもあったはず。
あの時は記憶はなかったけど。
前世を思い出して、前の私の苛立ちを理解する。
……でも、でも。
忘れられない気持ちは理解する。そんなに思ってくれることも嬉しい。
だけど、あれはないだろう。
確かにロンの顔は私に似ていた。
けれども鏡を見て、呼びかけるのはおかしい。
匂いを嗅ぐとは正気を疑う。
なんで、あんなにおかしくなってしまったのか。
私が庇って、死んだから。
彼の心に傷を残してしまったからだ。