妻子
メリルと5年ぶりの再会を果たしたロイドは、その週末に妻の実家を訪れていた。
妻のナタリーは里帰り出産をして、赤ん坊の首が据わるくらいまでは実家で暮らすことが決まっていた。
育児に参加したい気持ちはあるが、仕事は3交代制で不規則で、任務によってはひと月ほど家を空ける場合もある。
家は狭苦しい借り家だ。
妻にしても初めての慣れない育児だ。広々とした実家で、育児の先輩である両親の下で暮らしたほうが楽だろうと、しばしの別居を決めたのだった。
それにしてもタイミングが良かったと、ロイドは思い返した。
里帰り前の妻は大きなお腹を抱えて、普段より神経質になっていたし、そんなときにメリルが突然現れて家に押しかけていたら、どうなっていただろうか。
(押しかけて……あれはやっぱり押しかけて来たんだろうか? 目が覚めたら、当たり前のように隣にいたんだよな)
あまりにも自然で、不自然な登場だった。
メリルにも説明したが、家の鍵は付け替えていたのだ。
メリルを送って行き家に帰ってから、色々調べてみたが、鍵を無理やりこじ開けた形跡や閉め忘れた窓もなかった。
目が覚めたら普通に隣にいたのだと、メリルも言っていた。
そして彼女には、失踪した記憶も、失踪中の記憶も残っていなかった。
「まるで神隠しだな……」とロイドは呟いた。
昔、航海中の外国船が忽然と姿を消し、10年経って、近海で漂っているのを発見したとニュースになった事があった。
船はボロボロの幽霊船になっていて、乗組員は白骨死体になっていた。10年間も行方知れずだった船が突然現れたことが不思議で、「神隠しにあった船」だと話題になったのだ。
赤ん坊を寝かしつけ終えたナタリーが、ロイドに声をかけた。
「どうしたの、ロイ。ぼんやりして」
「ああいや、可愛いなと思って」
小さな天使、ルーシーは専用のベビーベッドですやすやと寝ている。
その寝顔を見下ろして、「ええ、本当に」とナタリーが相槌を打った。
ナタリーは看護師をしていて、ロイドが士官学校時代に実地訓練で怪我をしたときに入院した病院で働いていた。
入院中はただの患者と看護師だったが、退院後に偶然再会し、お茶をしたのが交際の始まりだ。
メリルが忽然と消えたのは、ロイドの入院中だった。緊急手術が終わるまではずっと病院にいたが、手術後の説明を担当医から受けた直後に消えたそうだ。
手術後、麻酔が切れてからも昏睡していたロイドは奇跡的な回復をみせ、意識を取り戻したが、待っていたのはその知らせだった。
まだ若かった彼女は、婚約者の生死の危機に直面し、耐えきれなくなって逃げたのだろうかとも考えた。実家へ帰ったとか。
しかし実家にも、どこにも、メリルはいなかった。荷物もお金も持たずに、一体どこへ消えたというのか。彼女の荷物はほとんどそのまま、2人の暮らす借り家に置いたままだった。
これは事件性のある失踪ではないかと警察へ届け出たが、未成年でもない成人の家出に関して必死で捜査してくれるほど、警察は暇ではなかった。
そこでロイドは自力でメリルを捜し続けたが、何の手がかりも得られず月日だけが過ぎていった。
捜すことを諦めて、ずっとそばで支えてくれたナタリーと結婚したのは去年だ。それから間もなくして、ナタリーの妊娠が分かった。
もしも、もう少し早くメリルが戻って来ていたら、いま隣に並んでいる相手は違ったかもしれない。
しかし「もしも」の世界など実在しないのだ。
ベビーベッドの柵にかけているナタリーの手に、ロイドはそっと手を重ねた。
薬指のマリッジリングに触れたとき、思い出した。メリルが電話で言っていた「見覚えのない指輪」のことを。
詳細を聞き、自分にも見覚えのない指輪だとロイドは答えたが、改めて考えるとどこかで見たような気がしないこともない。
銅製の小さな黒い石がついたアンティークな指輪ーー……どこで見たのだろう。気のせいだろうか。
(それに、今さらそれが何だと言うんだ。俺が贈った物でないことは確かだ。失踪中、そういう関係の男がいたということだ)