王太子の謝罪
「セシリア」
ふと頬に、温もりを感じた。
アルヴィンがセシリアの頬に手を掛け、心配そうに覗き込んでいた。
「すまなかった。避けるのではなく、最初から排除するべきだった」
「それは駄目よ、アルヴィン」
さすがに襲われる前に攻撃をしたら、こちらが犯罪者になってしまう。
「だが、怖かっただろう?」
「アルヴィンがいてくれたから、平気よ。それに、彼はわたしに近寄ることもできなかったわ」
怖かったのは、ダニーではない。
彼の背後にいる、得体のしれない何かだ。
それを伝えようとしたが、警備兵が近寄ってきたので、アルヴィンの誘導通りにその背後に隠れる。被害者が公爵令嬢とその守護騎士であることもあって、警備兵は丁寧に事情を尋ねた。
セシリアはアルヴィンの背後から、遠目から姿を見て怖いと思ったこと。裏門から入ろうとしたとき、彼と目が合ってしまい、そのあと急に追ってきたことをゆっくりと話した。
さすがに襲撃された直後なので、彼らは護衛を申し出てきたが、セシリアはアルヴィンがいるから大丈夫だと断った。
警備兵たちはその話をさらに上に伝えるべく、去っていく。
「部屋に戻ろう」
アルヴィンはそう言って、セシリアの手を取る。
「でも、授業は……」
今日は初日なのだ。交流会に続いて欠席してしまうと、ますます行きにくくなってしまう。
でも、おそらく今日の授業は中止になるだろうと言われて、納得する。
さすがにこんな事件が起こったのだ。生徒たちの安全のためにも、今日はそれぞれの部屋で待機になるかもしれない。
せっかく袖を通した制服も、すぐに着替えることになってしまった。
侍女に事情を簡単に説明して着替えをすませ、応接間のソファーに腰を下ろして背伸びをする。
(今日の襲撃も、イベントだったのかなぁ……)
襲われたにも関わらず、のんきにそんなことを考えていられるのは、やはりアルヴィンの存在が大きい。彼は剣も使うが、大抵の敵なら先ほどのように接近さえ許さずに倒せるのだ。
(でも、魔族が相手なら? 魔族は人間よりも簡単に魔法を使うし、魔力もかなり強いわ)
アルヴィンは、魔族と戦っても無事でいられるだろうか。
そう考えたとき、セシリアが先ほどから感じている不安は、彼の身を案じていたからだと気が付いた。
ゲームの内容はよく覚えている。
悪役令嬢セシリアの罪をすべて暴き、彼女を断罪して修道院に送るまでが、ゲームの第一部だ。だからセシリアが悪役令嬢にならなければ、第二部は始まらないと思っていた。
でも現実は、まだ第一部さえ始まったばかりだというのに、もうあの恐ろしい魔族の影を感じる。
しかも第二部は、第一部の恋愛中心の学園生活とはまったく違い、ほとんど戦闘ゲームだ。ヒロインは毎日のように魔族の配下と戦い、国中を転戦していた。仲間たちも傷つき、攻略対象ではない仲間は、死なないまでも戦闘不能になってしまい、何度も入れ替わっていたくらいだ。
それなのに、今のセシリアにとって仲間といえる存在はアルヴィンだけだ。
(ゲーマーとしては、その難易度の高さに燃えたわ。でも、それが現実になるかと思うと……)
アルヴィンが傷ついてしまうかもしれないと思うと、たまらなく怖い。
「セシリア」
自らの肩を抱いて身を震わせたセシリアに、背後からアルヴィンが声を掛ける。
「少しは落ち着いたか?」
「……うん」
心配を掛けたくなくて無理に頷いたが、様子が変だと見抜かれているようだ。
「あの男が恐ろしかったか?」
「ううん、違うの。たしかにこっちに向かって走ってきたときは怖かったけど、すぐにアルヴィンが倒してくれたから大丈夫だったわ」
「では、何を恐れている?」
「……」
セシリアが口を閉ざしてしまったのは、どうやって話したらいいのか、わからなかったからだ。
自分はゲームの内容を知っているから、魔族の存在を知ることができた。でもそれを、どうやって伝えればいいのだろう。
黒い瘴気も魔族の存在も、ゲームで得た知識だ。きちんと示せるだけの、根拠がない。
「大丈夫よ。ただ昨日から色々なことがあって、少し疲れただけ」
だから、そう言って笑うことしかできなかった。
アルヴィンに嘘を言ってしまったのは、初めてのことかもしれない。
でもセシリアが不安に思い、案じているのはアルヴィンのことだ。
それを上手く本人に伝える術がないことに焦燥を覚えながらも、心配させないように笑うしかなかった。
学園は、一週間閉鎖されることになった。
事件当初の状況が知りたいと、アルヴィンは何度も学園に呼び出されていた。セシリアに声が掛からなかったのは、襲撃のショックで寝込んでいるとアルヴィンが言ったからだ。
だからこの日も、セシリアは部屋で魔法書を読んでいた。
学校はまだ始まっていないが、もう学生であることには変わりはない。しっかりと勉強をして、学校の再開に備えなければならない。
ふと、誰かが部屋に近づいてくる気配がして、顔を上げた。
まだ出かけたばかりだ。アルヴィンではないだろう。
セシリアは侍女に対応を頼み、寝台に籠ることにした。アルヴィンが不在のときに、誰かと会うつもりはない。だが、来客の対応に向かった侍女は、困り果てた様子で戻ってきた。
彼女のこんな顔を見るのは、二度目だ。
(まったく……。面倒ね)
また王女か、それとも王太子か。
セシリアはうんざりした顔をしないように気を付けて、来客が誰だったのか侍女に尋ねる。
「あの、アレク王太子殿下です。先日の事件のお詫びをしたいとおっしゃっておりました」
「殿下が?」
もし王女なら、気分が悪くて臥せっていると告げてもらい、あとでお詫びの手紙を送ればいいと思っていた。
だが、王太子となるとそうもいかない。しかも、相手の要件は謝罪だ。会わずに帰すわけにはいかないだろう。
(アルヴィンが不在のときに来るなんて……)
仕方なく、セシリアは寝台から起き上がる。
ひとりの侍女には王太子を応接間まで案内してもらい、その間にもうひとりの侍女に急いで身支度を整えてもらう。
王太子を待たせてしまうことになるが、急に訪れた向こうにも非がある。先触れくらい出せなかったのだろうか。
ようやく正装に着替え、アレクを待たせている応接間に移動する。
そこには、ソファーに腰を下ろしてどこかぼんやりとしているアレクと、王太子とふたりきりになってしまい、どうしたらいいかわからずに困惑している侍女の姿があった。
「お待たせしてしまい、申し訳ございません」
「いや、私の方こそ突然訪れてしまい、すまなかった」
アレクはそう謝罪したあと、思い詰めたような顔をして俯く。
話をこちらから切り出すわけにもいかず、セシリアは静かに待つことしかできなかった。
「ダニーのことも、すまなかった。あれは、私の責任だ」
やがてアレクは、声を振り絞ってそう告げた。
「あの後、しばらく傍を離れるように、ふたりに告げたのだ。私を思ってくれるのは嬉しいが、自分よりも高位の令嬢に敵意を剥き出しにするなど、許されることではない。互いに少し距離を置けば、冷静になれると思ったからだ」
「……」
セシリアは溜息をつきそうになり、それを押し殺す。
ダニーが暴走したことから考えても、きちんと経緯を説明せずに、ただ傍から離した可能性が高い。
色々と問題はあるが、王太子に対する忠誠は何よりも強い男である。何の説明もなく放逐され、それをセシリアとアルヴィンのせいにして思い詰めるとは、思わなかったのだろうか。
でもまさか王太子が謝罪しているのに、その通りだと頷くわけにもいかない。
「殿下のせいではございません。それに、わたしはアルヴィンが守ってくれたので、無事でしたから」
にこりと笑ってそう言うと、アレクは呆然とセシリアを見たあと、少し頬を染めて俯いた。
「君は、優しいね。ダニーに襲撃されるなんて怖かっただろうに、こうして私を許してくれる」
「……いえ」
王太子相手に、許していませんと言える貴族がいるだろうか。そんなことを考えているうちに、彼は勝手に語り出した。
「いずれ王になる者として、臣下がもし道を誤ったら、厳しく罰しなければならない。それはわかっている。だが、もともとは私のせいだ。それなのにダニーは、学園を追放されるだけではすまないかもしれない」
それは当然だと、セシリアも思う。
王族も通う学園で剣を抜いたのだ。普通に犯罪者として、投獄されると思われる。
「臣下でもあるが、友だった。それなのに、私のせいで……」
「……殿下」
アレクはこの国の王太子だが、前世の自分から見るとまだ子供の部類だ。まだ心も身体も不安定で、彼を支える補佐が必要なのだろう。
それでも、思ってしまう。
今のアレクよりも、十歳のアルヴィンの方がしっかりとしていた。
あのときのアルヴィンこそ、まだ保護を必要とする子供だったのに。
でも彼は身体の痛みも心の傷もひとりで抱え込み、さらに助けてほしいと言ったセシリアを守ってくれた。セシリアが彼の過去を知ったのは、アルヴィンが自力ですべて乗り越えたあとだった。
セシリアのお陰だと彼は言ってくれたが、何もできなかったという思いが強い。
そんなアルヴィンを傍で見てきたせいか、アレクがとても弱々しく、頼りなく見えてしまう。
慰める言葉も出てこなかった。
あれが、王太子ルートのイベントだったのかもしれないと気が付いたのは、彼が帰った直後のことだ。
皆の前では完璧な王太子が、ヒロインの前では、弱さや本音を語る。
ヒロインはそれを慰め、支えていくうちに、ふたりの間には恋心が芽生えていくというイベントだった。
(下手に慰めなくて、よかった……)
セシリアはほっとして、深く息を吐く。
アルヴィンのことを思い出さなければ、つい落ち込んでいる彼がかわいそうになって、慰めていたかもしれない。
(傍にいなくても、守ってくれたのね)
もうすぐ帰って来るだろう彼に、王太子が訪ねてきたことを話さなくてはならない。きっと怒るだろうが、アルヴィンのお陰で大丈夫だったと伝えよう。
セシリアは緊張していた侍女を労うと、窮屈な正装を脱いでしまおうと、立ち上がって寝室に向かった。




