真実の愛
ふとセシリアは、前世のことを思い出す。
自由に生きてきた。
毎日のように大好きなゲームをして、自分で選んだ土地に住み、それなりに楽しい仕事。
充実していたし、幸せだったと思う。
でも、人との繋がりはあまりない人生だった。
両親のことは好きだったが、年に数回会うだけ。先に死んでしまったのは申し訳ないし親不孝だと思うが、しっかりとした兄がいるので、そんなに心配していない。
仲の良い友人やゲーム仲間もいる。でも、それも職場や好きなゲームが変わると、だんだん疎遠になっていく。
恋人もいない。好きな人さえ、いなかった。
恋をしたこともない。
それでも楽しかった。
とても充実していた人生だと思う。
でも離れたくなくて、会いたくて苦しくなるくらいの人はいなかった。愛しくて、切なくて、泣きたくなるような人もいなかった。
(でも、今は違う。アルヴィンと離れたくない。離れるなんて、考えたくもない。アルヴィンはわたしの大切な……)
大切な――何だろう。
ふたりの関係について、セシリアは初めて深く考えた。
身内のように近しいが、兄妹のような関係ではない。友人とも違う。
もっと近くて、離れがたい。
魂さえも共有しているかのような、親密な間柄。
目を閉じて、真剣に考えてみる。
それなのに、適切な言葉がどうしても見つからない。
「……守りたいと思っているのに。今日の俺は、セシリアを泣かせてばかりだ」
ふと、そんなアルヴィンの声が聞こえてきた。
目を開くと、アルヴィンは困り果てたような顔をして、セシリアを見つめている。
「もう泣かないわ。だから、そんな顔をしないで」
にこりと微笑んでみせると、アルヴィンは安堵したように手を伸ばした。髪を撫でられ、心地良さに目を細める。
「ドレスが皺になってしまうな。着替えをしたほうがいい」
「あ、そうね」
王女を迎えるために、正装したままだったことを思い出す。
立ち上がろうとしたセシリアは、もうひとつ、気になっていたことを思い出して、アルヴィンの手を掴む。
「待って。結界のことを聞いていなかったわ。本当に危険はないの?」
王都に結界を張るためには、かなりの魔力を必要とする。でも、父ならできるのではないかと思っていた。それなのに、どうして断っていたのだろう。
「お父様は五年前、どうして結界を張ることを拒んだの?」
「それは結界を張っていた先代の王妃陛下が、魔力を使い過ぎて視力を失ってしまったからだ。公爵夫人は夫を心配して、辞退してほしいと言ったそうだ」
「視力を?」
母が父に、危ないからやめてほしいと言ったのなら、どんなに国王に懇願されても頷くはずがなかった。
父は王都に住んでいるたくさんの人々を守るよりも、母の心を守ることを選んだ。
それでも、単純に母を責めることはできない。
セシリアだって、もし危険があるのなら、アルヴィンにもしてほしくないと思っている。
「そんなに危険なの? アルヴィンは、大丈夫?」
ゲームの中では、ヒロインだって、魔力を使い過ぎて昏睡状態になってしまっていた。
心配でたまらなくなって、アルヴィンの手を握りしめて、彼を見上げる。
「ああ、もちろん。それに普通に結界を張ることも可能だが、今回はこれを使うつもりだ」
アルヴィンは、三角形の石のようなものを取り出した。大きさは、手のひらよりも少し小さいくらい。漆黒で、表面がつるつるしている。
「これって、魔道具なの?」
セシリアはそっと、それに触れた。
魔道具は、この国ではあまり発展していない。アルヴィンにこの腕輪を贈られるまで、実際に見たことがないほどだ。
それなのに、王都に結界を張れるほどの魔道具を、どうやって手に入れたのだろう。
「どうやって手に入れたの? 結界が張れる魔道具なら、とても高価では……」
「いや、これは結界を張る魔道具ではない。使った魔法の威力を保つものだ。公爵家の屋敷にある、冷蔵室に置いてあるようなものと同じ効果だ」
「え?」
たしかに冷蔵室には、一定の温度を保つための魔法を掛け、それを維持するために魔石を使う。でも魔石は、小石ほどのとても小さなものだ。
「もしかして、魔道具じゃなくて魔石なの?」
アルヴィンは頷いた。
「そうだ。結界を張るにはかなりの魔力を使う必要があるが、起動してしまえば、もう魔力を使う必要はない」
「そうだったのね」
それにしても、こんなに大きな魔石は見たことがない。
でも結界で一番大変なのは、その威力を保つことだ。それをこの魔石が担ってくれるのなら、安心かもしれない。
セシリアはほっとして、力を抜く。もし危険があるなら、何としても止めなくてはと思っていた。
「結界を張るときは、わたしも立ち会うわ」
「……ただ魔石を使って結界を張って、それを維持させるだけだ。見ても面白くないぞ」
「アルヴィンは、お父様の代わりに王都に結界を張るのよ? わたしはきちんと見届けないと」
「わかった。必ずそうする」
強い意志を込めた瞳でそう宣言すると、アルヴィンは困ったように笑いながらもそれを承諾してくれた。
「今日はもう着替えをして、ゆっくりと休んだほうがいい。明日から授業だ」
「うん。わかったわ」
その提案に、素直に頷く。
もう当分イベントは発生しないでほしいが、これから三年間、ヒロインと同じクラスだ。
何が起こるかわからない。
今日のところは休息して、明日に控えたほうがいい。
それからセシリアは別室に控えていた侍女を呼び、着替えを手伝ってもらった。アルヴィンも、自分の部屋に戻ったようだ。
「ふぅ……」
綺麗に巻いていた髪も解いて、広い寝台の上に横たわる。色々とあったせいで、思っていたよりも疲れが溜まっていたらしい。
ゆっくりと意識が途切れていく。
セシリアによって、救われた。
アルヴィンがそう言ってくれたことを思い出すと、切ないほどの幸福感が胸を満たす。
大切な人を守れたということは、とてもしあわせなことだ。
「アルヴィン」
小さく名前を呼びながら、セシリアは眠りに落ちていた。
◇◇◇
守護騎士として宛がわれた部屋に戻ったアルヴィンは、重厚なマントを脱ぎ捨て、煌びやかな装飾の上着も脱いで、白いシャツ姿になる。
ほとんどは主であるセシリアの傍にいるため、ここは休むだけの部屋であり、物もほとんど置かれていない。
アルヴィンはそのまま寝台の上に座り、シャツのボタンを外しかけて――。急に面倒になり、仰向けに転がった。
(とりあえず、最初の危機は脱したか)
深く、溜息をつく。
セシリアの守護騎士を辞めることもなかったし、何よりもセシリアが王太子と婚約することも避けられた。アルヴィンは彼女に予知夢の話を聞いてから、王太子との婚約だけは、絶対に避けなければならないと決意していた。
こちらの申し出に対する国王の返事を聞いていないが、恐らく断ることはないだろう。いまだにブランジーニ公爵に、国王から王都に結界を張れという命令が下るくらいだ。
それだけ切望しているだから、国王がこちらの提案を断ることはないという確信があった。
達成感が、少しずつ疲労に変わっていく。
目を閉じると、先ほどまでこの腕に抱きしめていたセシリアの顔が浮かんだ。
フィンという男に激高した姿。
自分の過去を聞き、助けたかったと涙を流してくれた姿。
彼女が浮かべる感情のひとつひとつに、こちらに向けられた深い愛情を感じることができた。
まだ、恋ではないのだろう。
それでも、愛してくれている。大切に思ってくれている。
そう思うと、心が満たされていく。
セシリアに愛を告げるのは、簡単だ。
溢れそうになっているこの想いを、ただ愚直に告げればいい。
でも、自分の壮絶な過去を知ってしまった彼女は、恋という感情を知らないまま、その告白を受け入れてしまうだろう。
誰にも愛されなかった自分を、愛に飢えていた過去を知ってしまった今、突き放せるはずがない。セシリアはそれだけ優しく、慈悲深い女性だ。
だが、それでは駄目なのだ。
アルヴィンは辛抱強く、セシリアが恋に目覚める日を待っていた。その前に強引に行動してしまって、自分の言葉が、言動が、もしセシリアを傷つけたらと思うと、恐ろしい。
父と母はたしかに愛し合っていたが、今思い返してみれば、その愛は独りよがりなものだった。
どちらも自分の愛に夢中で、お互いが傷つくかもしれないとは考えなかったのだろう。
愛を恨み、疎んじていた自分に、真実の愛を教えてくれたのはセシリアだった。
「セシリア。愛している……」
アルヴィンはそっと目を閉じて、まだ告げることのできない言葉を呟いた。




