出逢い
シャテル王国の公爵令嬢であるセシリア・ブランジーニに前世の記憶が蘇ったのは、十歳の誕生日のことだった。
父は毎日忙しく、母は生まれつき病弱で、この日も誕生日だというのに、セシリアは朝からひとりきりだった。
まだ幼いセシリアは寂しさのあまり、こっそりと屋敷から抜け出して、ひとりで町を歩いていた。
屋敷の門は、いつもなら警備兵によって厳重に守られているはずだった。だが父が王城に出向くために馬車を出したあと、母の主治医が駆けつけるまで開け放たれていて、簡単に通り抜けることができたのだ。
今思えば、この日はそれほど慌ただしく、今日はセシリアの誕生日だとみんなが忘れていても仕方がなかったと思う。
でもセシリアにはまだ、そこまで理解することができなかった。
今までは屋敷の人間によって甘やかされ、大切にされていたから、それも当然だ。
(わたしなんかいなくても、お父様もお母様も困らないのよ)
泣き出しそうになりながら、そう思ったことをよく覚えている。
幸いなことにシャテル王国の王都は治安がよく、十歳の少女がひとりで歩いていても、危険ではなかった。でも町には幸せな家族連れが溢れていて、セシリアの寂しさをますます煽っていく。
とうとう堪えきれなかった涙が、頬を流れた。
(私はひとりきりなのに……)
絶望に苛まれながら俯いたとき、地面に座り込んでいるひとりの少年を見つけた。
彼はとても目立っていた。
艶やかな黒髪に、白い肌。
スミレ色の綺麗な瞳。
その容貌は、人形のように整っている。
(綺麗な子……)
思わず泣いていることも忘れて、セシリアは彼に魅入ってしまっていた。
それほどまで綺麗な少年が、たったひとりで路上に座り込んでいる。もしここが治安の悪い町なら、たちまち連れ去られてしまったかもしれない。
だがここは平和な王都である。
そのせいで誰もが、厄介な事情を抱えているらしい少年に関わりたくない。自分たちの平穏を乱したくないと考えている。
だから彼は、ずっとひとりで地面に座り込んだままだった。
その表情には何の感情も浮かばず、その美貌をますます人形のような無機質なものに見せていた。
(あの子も、ひとりなのね)
何か事情があるのは間違いない。でもまだ幼いセシリアは、そんなことまで考えず、無防備にその少年に近寄った。
「ねえ、あなたもひとりなの?」
急に話しかけてきたセシリアに、少年は警戒したような視線を向ける。だがセシリアは、そんな彼の警戒にまったく気が付かず、彼の隣に座った。
「わたしはセシリア。あなたのお名前は?」
「……アルヴィン」
無邪気なセシリアの言葉に毒気を抜かれたのか、彼はそう答えてくれた。
「アルヴィン。あのね。わたし、今日は十歳の誕生日なのに、ひとりきりなの」
膝を抱えて彼にそう訴えると、寂しさが蘇ってきた。セシリアの瞳に、たちまち涙が溜まっていく。
「お父様は出かけてしまったし、お母様は寝室から出てこないのよ。お兄様も、ずっと部屋に籠ってお勉強しているの」
突然近づいてきて、泣き出してしまったセシリアをどう扱ったらいいのか、アルヴィンも困っている様子だった。それでも、まだ出逢ったばかりで互いに名前しか知らない間柄だったのに、何とか慰めようとしてくれた。
「お前は、両親に疎まれているのか?」
「うとまれる?」
「叩かれたり、食事を与えなかったりすることはあるか?」
「……ないわ」
父と母にそんな扱いを受けたことはない。
セシリアは大きく首を横に振る。
「そうか。だったら大丈夫だ」
アルヴィンは安堵したようにそう言うと、セシリアに言い聞かせるように言った。
「大人は、俺たちが思っているよりも余裕がない。約束を忘れることもある。でも、疎まれていないなら殺されることはない。大丈夫だ」
「こ、殺され……」
慰めようとして言ってくれたらしい彼の言葉に、セシリアは激しく衝撃を受けた。
いくら誕生日を忘れられたからといって、さすがに両親から危害を加えられるなんて思ったことはない。
でもアルヴィンの口調はあまりにも淡々としていて、まるで自分の体験談を語っているかのようだ。
いや、本当にそうなのかもしれない。
だってこの年でそこまで達観しているなんて、普通ではあり得ない。
「それに暴力を振るわれたり食事をもらえなかったりって、普通に虐待よね? 間違いなく通報案件だわ」
そんな言葉を口にした途端、ふいに前世の記憶が蘇った。
(あれ、わたし……。わたしって、誰だっけ)
虐待とか通報とか、セシリアは知らない言葉だ。
混乱した思考のまま、両手を広げて眺めてみる。
視界に映るのは、子供の小さな手のひら。
でも蘇った記憶は、今とはまったく違う姿で生きてきた人生。
今の容姿とはかけ離れた、黒髪の女性の姿が浮かぶ。
(ええと、わたしの名前は……)
上嶋蘭。
享年二十九歳。
車で出勤中に、多重事故に巻き込まれて死んでしまったらしい。
まだ人生も半ばで、恋人もいないままだったのは残念だが、今さら悔やんでも仕方がないことだ。
だってこれは、前世の記憶なのだから。
(異世界転生って、本当にあるのね)
思わず自分の美しい金色の巻き毛や、幼いながらも白くて美しい手などをまじまじと眺めていた。
(しかもこの容姿。今のわたしって、とんでもなく美少女ね)
さらに両親の顔や住んでいる屋敷などを思い出してみると、間違いなく高位の貴族だ。
(お父様はブランジーニ公爵……。公爵家? 美少女で公爵令嬢だなんて、もしかして今世は勝ち組?)
でも思い出してみると、ここはとても不思議な世界だった。
服装や身分制度などをみると中世のヨーロッパ風だが、ここには魔法というものがある。そのため生活はとても便利で、文明が発展しているからか、食文化も豊かだ。調味料や嗜好品もそれなりにある。
(さすがにパソコンとか車はないけど、それなのに便利な道具とかはあったような気がする。この世界って、何だかゲームの世界みたいだわ)
それから、今の状況をもう一度思い出してみる。
セシリアはまだ十歳だが、もう家庭教師がついていた。
とくに大切なのは魔法の力で、この世界では貴族の血を持つ者しか魔法を使うことができない。
そして、王家に近い者ほど強い魔力を持っている。
だから公爵である父が持っている魔力も、かなり強かった。
だが残念なことに、母が子爵家の娘だったせいか、異母兄の魔力はそれほど強くない。
(そうそう。わたしとお兄様は、母親が違うのよね)
公爵家の嫡男だった父は、貴重な魔法書欲しさに、兄の祖父と魔法契約を交わしたらしい。その対価に娘を娶ることを懇願され、承知したと聞いている。
父はセシリアの母と出逢うまで、他人にまったく関心を持たなかった。だから公爵家の嫡男が、貴重とはいえ魔法書と引き換えに子爵家の娘を娶ってしまったのだ。
でもそのせいで、兄はとても苦労をしていた。
公爵家の嫡男なのに、魔力が子爵家の者程度しかないのだ。だから毎日のように部屋に籠り、必死に勉強をしている。
十二歳の兄は、三年後には貴族の血を引く者だけが入れる魔法学園に入学する。それまで、少しでも魔力を伸ばしたいのだろう。
セシリアの母は、その兄の母が亡くなったあとに嫁いできた侯爵家の令嬢だ。
(だからお兄様より、わたしのほうが魔力は強いのよね。そのせいで、お兄様は追い詰められているのだわ)
思考がセシリアのものに切り替わると、口調も貴族の令嬢のものになる。
それをどこか不思議に思う。