対峙
役場会議室が様々な意思と葛藤に支配されている中、上岸地区で睨み合っている警官たちは県警機動隊の第1小隊と入れ替わっていた。第2小隊は沼田市方面に抜ける山道を封鎖しており、更にその先では騒ぎを聞き付けた沼田署PCも規制線を張っているため、人間の出入りは完璧に封鎖してある。
小型警備車が車体を横付けにして道路を封鎖しており、機動隊員たちはその左右に展開。狙撃班は小型警備車の屋根に寝そべってスナイパーライフルを据えていた。
「各員、射撃は一斉ではなく交互に行え。全員同時に弾切れを起こせば野犬の接近を許す事になる」
隊員たちは、自身が装備する拳銃を取り出して装弾のチェックを終えた。M37やM360Jが入り混じる不思議な光景である。
それを眺める小隊長の伊庭警部補は、とんでもない事態の矢面に立たされた事に内心で毒づきながら指示を飛ばしていた。狂犬病で凶暴化した野犬の群れをこの地区に押し留めろなんて、長い警察官人生で誰も経験しないであろう命令をこなさなければいけないプレッシャーに押し潰されそうだった。
「小隊長、こちらから5匹を確認。発砲基準の指示願います」
狙撃班長こと江住巡査長が、小型警備車の屋根から声を伊庭に掛けて来た。
「射程内ではあるんだな?」
「はい、十分過ぎます。ただ、ちょっとばかし近い気もしますが……」
屋根の上には、狙撃班が構える2丁の豊和M1500が銃口を睨ませている。余り動きのない目標であれば一撃必殺も期待出来るだろうが、相手はどう動くか予想の出来ない野犬の群れだ。しかも狂犬病を発症しているとなると、有効弾を送り込む難易度も高くなるだろう。
M1500を構える狙撃班の小坂巡査と佐々野巡査は、スコープの中でウロウロと落ち着きなく動き回る5匹の野犬を捉えていた。どうにも気味が悪い光景である。
「……変な動きだな」
「じきに暗くなる。両脇の茂みからも襲い掛かって来ないか警戒しろ」
2人共に射撃の腕は、銃器対策部隊の狙撃分隊に勝るとも劣らない自信がある。しかし、犬のような動きの予想出来ない目標に対し、どれだけ当てられるかは全く分からなかった。
「巡査長、下の連中に両脇の茂みも警戒するよう伝えて下さい。そこから襲って来る可能性もあります。こちらも最大限警戒します」
「分かった。ついでだ、投光車がどの辺を走ってるかも訊くか」
現在、ここには現場指揮官車と小型警備車、人員輸送車が1両ずつで到着していた。投光車は30分ほど前に電源車を伴って庁舎を出たばかりで、到着は陽が落ちてからになりそうだった。誰もが、その前に野犬が何らかの攻撃行動に出ない事を祈っている。
群馬県警機動隊庁舎 銃器対策部隊長 八幡警部
置いてきぼりを食らった気分だった。県警の実働部隊としては最後の切り札となる我々が、順番的にも最初から呼ばれないであろう事は分かっている。だが、後詰の第3小隊が人員輸送車で出動待機に入っている今、人の居なくなった庁舎は異様な寂しさを醸し出していた。
「……落ち着かんな」
「今に出番が来ますよ。じゃなきゃ、陸自を呼ぼうにも呼べないじゃないですか」
副部隊長を務める藤野警部補が、重い防弾衣に身を包んでそう話す。確かに、我々を飛び越して陸自に協力を要請する事はまずないだろう。だがそれは、こちらにある程度の出血が必要になる事も確かだった。
自分を含め、部下たちの装備を見渡す。バイザー付きの防弾ヘルメットに、首と肩周りを防御出来る比較的新型のボディアーマー。両手に携えるのは、長年の上申によって実現したオープンダットサイトを備え付けるMP5サブマシンガン。拳銃も小型だがオートマチックの物を装備している。SAT隊員が殉職したあの事件を教訓に装備の更新が強化され、パッと見では謙遜ない状態だ。
「お前、家族には連絡したか」
「何があってもいいようにしといてくれと常に言ってあります。遺書は机の中。警察共済と生命保険で、数年は暮らせるだけの額がドカンと入って来ますよ」
「随分と用意がいいな」
「あ、これ秘密ですからね。夜道で誰かに襲われちゃ堪りませんし」
こちらの空気に触発されたのか、分隊長同士でも雑談が始まった。張り詰めた空気が次第に緩んでいく。
テレビでは上岸地区の騒動が軽いニュースになる程度で、核心に迫るような報道はまだされていなかった。しかしそれも時間の問題だろう。もし感染した野生動物が他にも居るならば、それが人里に下りて来る可能性も否めない。それらに対する何らかの処置も必要になる筈だ。
岸菜町役場裏手 喫煙所
猪又は、姿を消した助役の高井を探してここを訪れていた。ベンチに座り込んで、力なく煙を燻らす高井の姿がそこにある。顔を上げた高井が猪又の姿を目で確認した。
「……ああ、失礼」
「いえ、そのままで構いません。取りあえずですが、そちらと猟友会のいざこざについて説明願えますか」
高井の隣に座り、話しが始まるのを待つ。まるで取調室に居るような気分だ。
「…………樋口が言っていたように、現町長の牧田は動物好きです。だからこそ、地域猫の整備を推し進め、周辺地区の飼い犬へ万一に備えワクチンの接種を行うよう、通達を出しています。ですが同時に、捨てられた犬猫をどうにかして救えないかとも考えていました」
猪又は聞き役に徹した。次の言葉を待つ。
「猟友会の皆さんには多大な協力を頂いており、我々も感謝しています。しかしまぁ、皆さんも山に分け入って仕事をする以上、不意の遭遇で怪我をされる場合もあります。それを考えると、猟友会主導で行う捕獲の活動は、牧田の与り知らぬ所で殺処分にされてしまう可能性があるんです。実際に猟友会から役場へ上がって来る報告の中には、野犬を撃ち殺したとの事後報告が入っている時がありました。牧田はその度に猟友会と喧嘩になり、お互いの空気は悪くなりました。ですので、役場の主導で捕獲作戦を行い、猟友会にはその支援をお願いする計画を樋口と練っている最中だったんです」
もう少し行動が早ければ、と考えるのは全員同じだろう。牧田の慎重な意見も分からないではないが、猟友会にして見れば自分たちだけでなく他の誰かにも危害を加える危険性を孕んだ野犬が徘徊している状態は、一刻も早く何とかしたかった筈だ。捕獲は絶対に上手くいくとは限らないし、それならば待ち伏せして撃ち殺した方が手っ取り早いのも確かである。
しかし、猪又にはそれよりも気になる事があった。この厄介な状況を作り出した、狂犬病ウイルスが何所から顔を出したかと言う、誰もが気になりつつも話題に出す事を憚る問題だ。
「そちらの関係性は分かりました。それで一番の問題ですが」
「分かっています。狂犬病が何所から現れたのか、と言う事でしょう。私自身、あれは日本国内から根絶された病気と言う認識しかありませんでした。海外から帰って来た人間が数年に1度発症してニュースになるぐらいで、実際に犬猫へ感染して騒動が起きるなんて考えもしなかったです」
こんな田舎町で、と言う言葉も付け加えられるだろう。恐らく、これまでで最も微妙な扱いの問題に直面している事は確かだった。そこへ猪又が引き連れて来た本部班の警官が現れる。
「次長、現場に動きがあります」
「何があった」
「10匹近い野犬が押し出して来たそうです。他にも野良猫がちょっかいを出して来ていると」
狂犬病が関係なければ微笑ましい光景だろう。しかし、機動隊員たちは命の危機に直面している。むざむざと見殺しにする訳にはいかない。
「佐川は何と」
「発砲の許可を出しました。後詰の第3小隊と銃対も出張らせるそうです」
山奥から銃声が聴こえて来た。爆竹のような軽い音が連続して鳴り響いている。
「戻るぞ」
「はっ」
駆け出す猪又と警官を、煙草の火を消した高井が大急ぎで追い掛ける。
現場は、緊迫した空気の中にあった。野犬たちは見境なく襲い掛かり、小型警備車の装甲にすら噛み付こうとしている。
「大盾二段隊形、隊列を崩すな!」
小型警備車の両脇に陣取る隊員たちは、ヘルメットのバイザーを下ろして防炎マフラーをマスク代わりにし、ウイルスの吸引を防いでいた。
伊庭警部補の命令一下、後列の隊員が大盾を高く掲げ、前列となる隊員たちの盾に上から被せて壁を築く。これで野犬は彼らを飛び越える事は出来ないだろう。だが、旧型のジュラルミン製大盾と違って現行のライオットシールドは、視認性を高める目的で透明に作られている。そのせいで襲い掛かる野犬が目前で牙を向く光景を嫌でも目の当たりにするため、隊員たちは思わず目を瞑ったりしていた。
小型警備車の屋根に居た狙撃班はM1500での射撃を早々に諦めて拳銃で応戦。前列だった隊員たちも、屋根から響く銃声を耳にしつつ拳銃を引き抜いてその時を待った。
「第1第3分隊撃ち方用意」
盾を少しズラして銃口が入るだけの隙間を作った。ぶつかって来る野犬がそこに飛び込んで来そうで、気が気ではない。
「撃て!」
至近距離からの射撃で数体の野犬が崩れ落ちる。同時に血肉が飛び散り、透明なシールドを赤く染め上げた。隊員たちが狂犬病に対して正しい知識を持っている筈もなく、感染を恐れた何人かが逃げ出そうとしてしまう。
「大丈夫だ落ち着け! 盾を放すんじゃない!」
「おい三島! 逃げるな!」
「杉中ァ! どこへ行くつもりだ!」
隊列から飛び出した2人の隊員を、分隊長たちが取り押さえた。伊庭警部補もそこへ加わる。
「落ち着け! 持ち場へ戻れ!」
2人は半ば恐慌状態だった。他の隊員たちに伝播して集団パニックを起こしかねないため、担ぎ上げて人員輸送車に押し込んでいく。伊庭警部補はそれを尻目に、最前線の指揮を続けた。
「状況はどうだ」
「退けました。ですが、士気は最悪です」
M37を握り締めた江住巡査長が状況を伝える。隊員たちには諦めの空気が漂い、自分が感染した可能性に打ちひしがれているのが感じ取れた。これでは阻止線を維持し続けるのは困難である。その場から動かずに盾を構えているだけでも表彰ものだ。
「……第2小隊と交替させるか」
「いえ。最悪の場合を考えると、このままの方がいいかも知れません。悪戯に感染疑惑のある隊員を増やせば、部隊の立て直しが出来なくなります。ここは我々で何としても阻止しましょう」
最早、伊庭警部補自身も感染疑惑のある人間に数えられる事を、受け入れざるを得なかった。ここで下手に交替すれば、県機は感染疑惑のある人間で溢れ返り、瓦解してしまうだろう。それを考えると文字通り、我々だけでこの場を死守しなくてはならない。
「……無線を」
「はっ!」
伝令の喜久田巡査が無線機を伊庭の手に渡す。苦い顔付きのまま、佐川警視への回線を開いた。
「県機01、伊庭です。野犬の突破は阻止しました。しかし、野犬の血肉が飛び散って非常に危険な状態です。既に我々は感染している可能性を拭えません。最初の段階で防毒マスクの着用を命じなかった事を後悔しています」
自分の失態だと、伊庭は深く後悔した。これでは30名近い小隊の命を預かる資格なんて無い。多くの若い命を感染の危機に晒し、扱いの難しい存在にしてしまった事を悔んだ。
『佐川だ。現在、隣県の保健所や医大から人間用のワクチンを掻き集めている最中だ。第2小隊が現着し次第、直ちに持ち場を移譲して上白井運動場へ向かえ。そこに感染症対策チームが拠点を作っているから、十分な検診を受けられる。一先ずそこで休んでくれ。ご苦労だった』
「了解。しかし、自分は取り返しの付かない事を」
『それを言うなら第1小隊を誘導した渋川署の警官たちだって同じリスクを背負っている。余り多くは言うな。これから銃対も前面に出して時間を稼ぐ。県警本部と県庁を通して、陸自への協力を仰いでる所だ。心配はするな。非常に難しい局面をよく支えてくれた。感謝する』
その優しさが痛かった。これで何人かが発症すれば、自分は隊員の家々に頭を下げて回らなければならない。いっそ自分だけが発症して、それで罪滅ぼしになればなんて事すら浮かんで来る。
「伊庭さん、上は何と」
江住と目が合う。彼の目は、覚悟を決めた者の目付きだった。それを踏みにじるようだが、分隊長たちも交えて佐川からの命令を伝える。
「我々は第2小隊と交替し、上白井運動場に設けられた防疫拠点で検診を受ける。ゆっくりと撤収の準備を始めてくれ」
4人の分隊長は、安心した表情になった。それと違い、江住は納得のいかない顔付きだ。
「不服か?」
「2小隊が上手く立ち回る事を期待します。何にせよ、1度は退けた我々の方が経験値を持っています。発症するまで時間が掛かるなら、感染疑惑のある人間だけで作戦を最後までやり遂げる方が色々と被害は少ない筈です。ですがまぁ、上の判断ですから従います」
江住の言う事も痛いほど分かる。特に彼は、県警が金を掛けて育成した2人の狙撃手を預かっているのだ。その2人にも感染のリスクを背負わせた事で、内心は腸が煮えくり返る思いで居る事だろう。
「では各自、第2小隊の集結に備えろ。後ろの方で聴こえて来た猫の鳴き声が止んだが、どうなった」
「向こうは渋川署の警官隊が追っ払いました。催涙スプレーが抜群に効いたようです」
伊庭は自身の問い掛けに答えた分隊長の言葉に注目した。催涙スプレーがあれば、拳銃を使わずに野犬を追い払えるかも知れないと思ったのだ。悪戯に銃器を使用して肉片を飛散させ、感染の危険性を上げるのは得策ではない。ここに来て非致死性兵器の有用性を見出した。
「使えるかも知れんな。指揮車と人員輸送車に積んでいるのを集めてくれ。それと第2小隊にインパルスの使用を提案しよう。我々は置いて来てしまったが、庁舎に残ってる誰かに持って来て貰うか」
「分かりました。連絡を取ってみます」
伝令の喜久田巡査が庁舎に無線を繋げる。特車の整備班がその無線に応答し、彼らが一式を運んで来てくれる事となった。
第2小隊は規制線を張っていた沼田署のPCを呼び寄せ、自分たちの持ち場を彼らに頼んで転進を始めた。第3小隊がその空いた穴を埋めるため、1時間以内には転進した第2小隊と後から駆け付ける銃対にここを任せる事になるだろう。
陸上自衛隊 相馬原駐屯地
第12旅団司令部を構えるこの相馬原駐屯地では、県庁と県警本部長から連名で送られて来た依頼をどう扱うか思案に明け暮れていた。曰く、狂犬病を発症した野犬の群れが上岸地区を占拠しており、取り残された住民たちが命の危機にある事。封鎖を実施している機動隊員たちや警官も感染のリスクにあり、現段階で可能な最大限の協力を得る事は出来ないかとの内容だった。
旅団長の楠木陸将捕はこの事態を重く見つつも、前例のない要請に困り果てた。取りあえずの措置として、同じ駐屯地に所属する第12偵察隊から2台のオートバイと1両の軽装甲機動車、及び第12化学防護隊の感染症に精通した隊員4名が乗る小型トラックによる、情報収集及び相互連絡を目的とした先遣班を編成。一先ず、対策本部の設けられている岸菜町役場へ向けて出発するよう命じていた。
「整列!」
運動場の片隅に、第12偵察隊長こと立花二佐と楠木陸将捕が並んでいる。目の前には10名からなる先遣班が、個人防護装備の収まる背嚢や医療器具の詰まったバッグを携え整列していた。
「現状として、我々の出来る事は諸君らを送る事が精一杯だ。だが状況の進行具合によっては、災害派遣を行う可能性も出て来る。現地の人員と連携及び情報共有を密に行い、その見極めをして欲しい。以上だ」
「総員乗車」
班を預かる田川一尉の掛け声によって、全員が分乗した。田川一尉はそもそも偵察隊の小隊長だが、事態の度合いによって左右される行動を鑑みて、本来ならば陸曹の役職である班長を尉官とする事によってその権限を大きくさせていた。これで通常よりも大胆な行動が出来るだろう。
「十分に注意して事に当たってくれ。頼んだぞ」
「分かりました、出発します」
2台のオートバイと軽装甲機動車、そして小型トラックは2人だけの見送りによって駐屯地の正門を出て行った。楠木と立花は、これから起こる事の予想される事態に備えるため、急いで司令部へと戻り始めた。




