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9.藤原道長は「リアリスト」――パトロン道長と紫式部との関係はどのように変わっていったのか――

 憧れの存在であった道長に見込まれ、紫式部は「ファーストレディ」である中宮彰子の第一秘書になった。その期待に応え、貴族社会から清少納言らの精神的影響力を払拭しようと、紫式部は「あはれ」という価値基準を「長期戦」によって貴族社会に根づかせようとした、とこれまで述べてきたが……当の道長本人は、彼女の一連のこの行動を、どのように評価していたのだろうか。

 藤原道長は、リアリストである。

 豪放磊落で、細かいことに目を配らない人間のように思われがちだが、世話になった人間には欠かさずお礼をし、社会不安の高まりをおさえるために新たな法令を発して社会秩序を引き締め、また物価対策などにも取り組んでいる(このあたり、若い頃に中宮大夫として実務に励んでいた経験が、大いに役立っているものと思われる)。権力の座を守るためには、人脈を大事にし、同時に社会を安定させなければならないことを知っている人間ならではの行動である。

 自分の意に従わぬ人間を蹴落し、失脚させるため、強引な上にも強引な駆け引きやいやがらせ、恫喝に近いような要求を繰り返した、なんともダーティーな一面も、おそらくは、道長がリアリストであったからこそ、の行動であると思われる。たとえどれほど強引な手法を使おうとも、権力の基盤をしっかり作っておかなければ――兄二人が相次いで死んだことで自分に権力が転がり込んできたように――いつ、いかなることが原因で、失脚するやも分からないということを、彼はよく分かっていたのである。

 そのような人間が――しかも「トップレディ」清少納言のきらめくような才能を、ずっと間近で見続けていた人間が――いくら才能豊かな作家であるとはいえ、タレント性が不足した、どちらかというと引っ込み思案な女性に、「かっこいい基準」全ての一新などという「大それた企み」を全面委託するだろうか。

 僕には、そうは思えない。

 紫式部を女房にしたのは、女性に大人気の作品を次々書いてもらうことにより、中宮彰子の無聊を慰め、その機嫌を取るため。また、教師役に据えたのは、教養豊かな女性との評判であり、漢籍を読みこなすことができたという、ただそれだけの理由。中宮定子に対する清少納言と同じ立ち位置に任命はしたが、持っている才能のポテンシャルからして、彼女を超える存在になるなど、まああるまい、とりあえず娘のご機嫌を取り、教養を豊かにしてくれればよい……そんな程度の軽い考えで、彼女を抜擢したのではないか。

 彼の本心としては、できることなら清少納言本人を――この時期、宮仕えこそ辞めていたが、彼女はまだ生存していた――女房として、中宮彰子につけたかったのではないか。

 だが、それは明らかに不可能だった。

 中宮定子の父親の死をきっかけに、その息子であり、本来の後継者でもあった藤原伊周を追い落とし、さらに失脚させたのも、中宮定子が晩年の五年間、内裏で肩身の狭い思いをしなければならなかったのも、全ては他ならぬ道長本人の差し金である。しかも、道長が実権を握って間もなく、清少納言は「道長派に通じている」というあらぬうわさを流され、定子の側から遠ざけられる(僕はこの「うわさ」も、定子派の弱体化を狙った道長が、わざと流したものではないかとみている)。

 定子・伊周兄妹をこよなく尊び、愛していた「プライド高き才女」清少納言が、彼らと自分に数々の苦難を味あわせた、その張本人である道長の軍門に降るはずがない。道長が権力を握った後になってからわざわざ「かっこよさ指南本」としての『枕草子』を執筆、流布させ、定子派の「精神的優位」を見せつけるような「復讐」をしたことからも、それは明らかである。

 ならば、仕方がない。彼女の他に、才能豊かな女性はいないのか……ということで、白羽の矢が立ったのが、紫式部だったのではないか。つまり、道長にとって、彼女はあくまで「次善の策」だったのではないだろうか。


 そんなこんなであまり期待もせず紫式部を任用したのだが、彼女にとって、道長は「憧れのイケメン」である。そりゃもう一途に彰子――と、その背後にいる実質的権力者である自分――に尽くしてくれる。女房になってからも書き続けていた物語も相変わらず人気で、内容もまあまあ面白い(暇つぶし程度だが)。自然、道長は彼女をかわいがるようになり、彼女の局(つぼね:内裏内にある女房のプライベートスペースのこと)を頻繁に訪れては『源氏物語』を楽しみ、続きを催促するようにまでなる。

 このあたりの、なんとも言えないなあなあの雰囲気からして、おそらく、この時期すでに二人は、男女の仲になっていたのだろうと思われる。


 『源氏物語の謎』(国研ウェブ文庫)の中で、増淵勝一氏は、『紫式部日記』中にある、「男に一晩中戸口を叩かれ、入れてくれよと和歌を贈られたが、戸を開けていたらどんなに後悔したか、という和歌を返し、扉を開けなかった」という場面を「紫式部が藤原道長の求愛を断った」場面として挙げている。また、同じ『紫式部日記』に、酔った道長らにとらえられた時に「いとわびしく恐ろしければ」と記されていることより、「式部が道長を愛していたなどとは考えられない」と結論づけている。

 氏の意見を初めて目にした時、そのあまりの純朴さに、あきれるのを通り越して、思わず微笑んで――「困り笑い」を浮かべてしまった。「ああ、この増淵氏という人はきっと、若い頃から研究一筋、すごく真面目で、恋愛とは無縁な人生を歩んで来られたのだろうな。だから、『紫式部日記』に表れている男女間の機微とか、そういうものに一切気づかれなかったのだ」と、少々気の毒になってしまったのである。

 なぜ、そのように感じたのか。氏が挙げておられる場面の前後を、少し多めに引用すれば、すぐにおわかりになることと思う。


 まずは、氏が挙げておられる『式部日記』の二つの場面のうち、「歌の贈答」の方の記述内容(下巻年月不詳記事)のあらまし。


「その日、中宮様の前に『源氏物語』があるのを道長様が見つけて、冗談を言いながら「(この『源氏物語』のおかげで)お前はすっかり好き者だと世間に知られたね。一体どれほど多くの男が言い寄ってきたのかな?」なんて歌をこっそり見せるの。だから「そんなふうに言い寄ってくる男なんておりませんわ」って返したの。

 ある夜に、私の寝所の扉を一晩中叩く男がいて、恐ろしさに返事もせず一晩過ごしたのだけど、その翌朝、道長様から「入れてくれればよかったのに」っていう和歌が届いたの。だから、「どうせつかの間の出来心でしょ?開けたら後悔してたわ」って返したの」


 この「入れてくれればよかったのに」の歌が、『新勅撰集』に道長の歌として、また、「どうせつかの間の出来心でしょ?」の歌が、紫式部のものとして入集している。だから、確かにこの贈答は、「道長が夜にこっそり訪ねてきた」のを「紫式部が断った」というやりとりになっている。

 しかし、これより前の部分があるのとないのとでは、印象がまるで違う。

 前半部分、道長と紫式部は、いかにも親密だ。道長がニヤニヤしながら「お前、モテるんだろ?」と式部をからかい、式部は「もう、そんなこと言って、からかわないでください!」と頬を赤らめながら、つんとそっぽを向く……というような、それこそ二人の男女関係を濃厚に想像させる場面である。

 それに続いて、「開けてくれれば」「出来心でしょ?」の後半部分、どうにもつながりがはっきりしない。

 一体、この前半と後半は、どういう関係になっているのだろうか。


 まず気になるのは、道長が「戸を叩く男」という形で登場し、「式部に外から声をかけた」との記述がないことだ。

 情報が少なすぎて、はっきりしたことは分からない。が、この二人の間に約束事があったようには思えないから、おそらくこれは、道長が初めて式部の元を訪れた=求愛に来た場面であろうと思われる。

 道長は、そっと戸を叩き、式部が起きているのが確認できたところで、声をかけ、戸を開けてもらおうと思ったのではないか。

 それに対し式部は「誰か男が忍んできた」というだけですっかり恐れをなし、一切返事をしなかった。つまり、やってきた男が道長だ、とは分からなかったのではないか。

 その「すれちがい」のせいで、道長は一晩中戸を叩く羽目になり、夜が明けてから「なんだよ、開けてくれればよかったのに」という歌を贈る。そこで初めて、式部は昨夜訪ねてきたのが道長だと知ったのではあるまいか。

 であるならば、一見前半とつながりがないように見えるこの後半を、なぜ書いたのか――なぜこの「お前、好き者なんだろ?」「からかわないで!」のやりとりの後で、「入れてくれればよかったのに」「入れたら後悔してたわ」の場面を書いたのかも、すんなり理解できる。

 この部分は「前半部分の補完」なのだ。

 道長に「好き者」とからかわれ、「好き者じゃないもん!」って答えたけど、もし、初めて道長が求愛に来たあのとき、誰がやってきたかも分からないのにホイホイ返事をしてたりしたら、言い訳できなくなるところだった。あのとき開けなくてよかった……と、道長のからかいに対し、どうにか対抗できてほっとしている、という場面なのである。


 とすると、当然、新たな疑問が生じることになる。

 なぜ紫式部は、道長に「好き者」とからかわれて「そんなことないです!」と言い訳できたことに「ほっとしている」のか。

 相手になんの感情も持っていないのならば「好き者」でもなんでも、好きなように思わせておけばいい。この時代、恋愛遍歴が盛んなことは、むしろ「トップレディ」の条件の一つでもあった。これがもし清少納言なら「ええそうよ、私は好き者なの。だって周りが私を放っておかないから」ぐらいは言いそうなところだ。

 ところが、紫式部は「ほっとしている」。これは明らかに、「道長に好き者だとは思われたくない」=「道長に一途な女だと思ってもらいたい」という気持ちの表れだと思われる。

 つまり、この場面は、道長が「お前はモテるから(心配だよ)」とからかったのに対し、式部は「言い寄る男なんていません(私はあなたに一途だもの)」と答えた、という形にまとめられるのだ。

 一体どこのバカップルか、と言いたくなるような、気恥ずかしさ全開のやりとりである。

 もちろん、少ない情報からの推察だから、中には間違っている部分もあるかとは思う。しかし、少なくとも、この「愛情まみれの」部分をもってして「紫式部は道長を愛していなかった」根拠とする読解は、そのセンスを疑わざるを得ない。

 

 さて、次に、氏があげておられるもう一つの場面(寛弘五年十一月一日条)を見てみよう。


「(敦成親王誕生五十日のお祝いで、喜びのあまり道長らは大いに酔い、間仕切りの向こう側に隠れていた私(紫式部)ともう一人の女房(「宰相の君」であると考えられている)を捕まえ、目の前に座らせる)そして、「(祝いの)和歌を一首ずつ詠め。そしたら許してやろう」っておっしゃるの。とても困って怖いので「今後、若様の御世が数え切れないほどずうっと続きますわ」って詠んだら、「おお、見事に詠んだな」っておっしゃって、すぐに「もし私に長い寿命が与えられるなら、若様の御世を数えきってやる。そのぐらいの覚悟で、私は若様にお仕えするつもりだ」ってお返しになったの。あんなに酔っ払っていらっしゃるのに、道長様ったら、本当に若様誕生を待ち遠しく思っていらっしゃったもの、こんなに見事な歌を詠まれるのも当然よね。実際道長様が盛りたてられるから、儀式とかお祝いの品とかも、輝きが増すのだもの……(以下省略・傍点引用者)」


 傍点部分が「いとわびしく恐ろしければ」に当たる。一見すると、確かに道長本人を畏れての感想のように見えるが、そうではない。

 少し、詳しく解説していく。

 この『紫式部日記』だが、断じて「私的な覚え書き」ではない(当時の「日記」は基本的に、誰かに読まれることを前提として書かれた)。一読すればおわかりになると思うが、これは、道長の「かっこよさ」とその絢爛豪華な栄華を伝えようとして書かれたものだ。『源氏物語』が虚構を通じて若い世代を洗脳し、「かっこよさ革命」を図るための作品だとすれば、『紫式部日記』はもっと直接的に、道長のあふれる才能とその「かっこよさ」、そこからさらに「これからは「あはれ」がかっこよさの基準になるの」ということを、若い貴族女性に限らず、広く世間に――貴族社会に伝えるために書かれた作品である。つまり、一言で言えば、清少納言の『枕草子』に対抗するため書かれた「真・かっこよさ指南本」なのだ。

 そのように意識してこの場面を読み返すと、この場面で「いとわびしく恐ろしければ」と書いた紫式部の意図がよく分かる。


 この時代、女性があまりに才能をひけらかすのは「はしたない」と思われていた。かの「伝説のトップレディ」清少納言ですら、誰かをやり込める前には「もう、問い詰められてどうしようもなくなっちゃって」だの「あんまりにしつこく言ってくるから」だのといった「いいわけめいた前置き」を、必ずといっていいほど書いている。

 ましてや、紫式部が標榜するのは「あはれ」の美学。才能をひけらかすなどもってのほか、女性はあくまで受け身で、慎ましやかに行動しなければならない。

 ところが、道長の才能豊かさを「自らが見聞きした」という体で語るには、まずは読者に「自分の才能」を印象づけねばならない場面が出てくる。そうしておいて、「そんなふうに才能あふれる私よりさらに才能豊かな素晴らしい道長様」ともっていくわけだ。

 もちろんその際、なるべく自分は目立たないように描写することを心がける。けれども、あまりに目立たなさすぎて、「紫式部って、この程度の才能しかないの?」と思われてしまってもまずい。自分が非才なら、その自分を凌駕している道長の才能も、たいしたことないのでは、と思われてしまうからだ。

 そこで、彼女が取ったのは、「本当はイヤだったのに、強要されて「仕方なく」私は自分の才能を披露した。その作品を易々と上回るほどに素晴らしい作品を、道長様はあっという間に披露された。やっぱりあの方は素晴らしいわ」という形で描写すること。このように書いておけば、自分の才能を「ひけらかしている」と読者に思われることなく、道長礼賛文を書ける、と考えたのだろう。

 先ほど引用した『紫式部日記』寛弘五年十一月一日条は、そういう意図でもって書かれた場面なのである。「いとわびしく恐ろしければ」は、道長自身に感じた印象ではなく、「どうしようもなく追い詰められてしまって仕方ないので」才能を披露した、と文章を続けるための言い訳、前置き。もっと言えば、「自らの才能を自慢する前につける、(あまり意味のない)決まり文句」に過ぎない。

 いや、そうではない、この場面では本当に紫式部は道長を恐れ、嫌っており、いやいやながら歌を詠んだのだ、と強弁なさる方も、いらっしゃるかもしれない。しかし、その可能性はほぼない、と僕は考える。

 それならば、そのすぐ後で、彼の才能や財力を褒めそやしている意味が分からない。それに、もし紫式部が「このとき詠んだ歌はいやいや詠んだ歌で、皆様に披露する価値がない。価値があったとしても、自分はそのようなことをひけらかしたりはしたくない」などと本当に思っていたのならば、歌を詠んだのは自分以外の人物――間仕切りの後ろに隠れたもう一人の女房、宰相の君だ、とすればいい。そうすれば「自分の才能自慢」などというはしたない真似をすることなく、道長を持ち上げることができるのだから。

 ところが、実際には、おそらくこのとき、紫式部とともに歌を詠まされたであろう宰相の君の歌は記載されず、自らの詠んだ歌と、それに対する道長の歌だけが書かれている。である以上、この場面には「自ら詠んだ和歌の素晴らしさを見せつける」意図があった――少なくともその意図が含まれていた――としか思われない。やはり「いとわびしく恐ろしければ」は、ただの決まり文句に過ぎない、という結論になる。


 以上、増淵氏のあげた「式部は道長を愛してなかった説」の根拠とする部分を、僕なりに解釈したものを披露した。なぜ僕がこの説を初めて目にした時「困り笑いを浮かべた」のか、おわかりいただけだろうか。

 だが、古典文学、特に平安中期の文学を研究していらっしゃる文学者の多くが、この増淵氏のような「謹厳実直」「文章を字義通りにしか理解しようとしない」人であることを思うと、微笑んでばかりもいられないのだが。


 とはいえ、こういう方々の気持ちも、分からないでもないのだ。

 研究成果がそのまま人類の新しい知見になる自然科学や、人類の文明に大きく貢献する工学系の――いわゆる理系の――学問とは違い、文系の学問の多くは、趣味的な部分が非常に大きい。その分野に興味を持たない人からすると「それって、一体なにが楽しいの?」「それが一体なんの役に立つの?」と本気で困惑するようなことを、嬉々として研究している「変な人」――それが、文系研究者に対する一般的な評価だろう。

 そのせいか、文系の研究者は、自分の研究成果について発表する場が与えられると、その研究対象を必要以上に持ち上げる傾向が強い。「ほら、この人って、こんなにすごい人なんだよ!」「この作品には、こんなに隠れた意味があったんだよ!」などと強調することで、自らの研究には深い学問的意味があるのだ、人間の文化に貢献しているのだ、変人とか、ただのヲタクじゃないんだ、と強弁したいが故の行動であろう(いっそ開き直って「え、役に立たないよ?でも、僕は好きだから研究してんの。だって僕、ヲタクだし」とはっきり言ってしまう方が、よほど潔いと思うのだが、そうはできない「大人の事情」があるのかもしれない)。

 ましてや、文学研究は、本人の趣味嗜好からその世界に入る場合がほとんど。幼い頃に読んだ古典文学にハマり、中でも『源氏物語』のきらびやかな王朝世界に魅せられ、その世界を深く知りたいと思うがままに研究者となる、という人が非常に多い世界である。

 彼らが惚れて惚れて、惚れ込んでいる『源氏物語』のヒロインは――なにしろ「あはれ」美学を体現した存在だから――みな儚げで奥ゆかしく、真面目で考え深い、思わず守ってやりたくなるような女性揃い。そのようなヒロインを造形するのだから、作者の紫式部だって、きっと同じような、真面目で考え深い女性であったに違いない、そのはずだ、そうでなくちゃ嫌だ、そうに決まっている……とばかり、一途に思い込んだ結果「紫式部貞女説」なるものが生まれ――なんと、室町期ぐらいから存在しているそうである――そしていつの間にか、それが研究者の間での「常識」と化してしまっているようなのだ。

 紫式部は亡くなった夫を一途に愛していた。夫亡き後は、自らの「未亡人」という立場をわきまえ、男たちの求愛にもなびかず、毅然とした人生を送った。であるからして、藤原道長の愛人であった説などもってのほか、検討する価値もない――「紫式部タン、マジ尊い」「式部タンは天使」などと思い込んでしまっているがゆえに、研究者たちは、長くこのような態度をとり続けてきた。ごく最近になって、ようやく「作品と紫式部本人とは分けて考えるべき」という意見が唱えられるようになり、その考えに沿った研究もなされるようになりつつあるのは、本当に喜ばしいことだと思う。

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