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8.紫式部は「理念原理主義者」――なぜ彼女は「同僚」和泉式部まで批判したのかー

 中宮彰子の女房となった後に書かれた『源氏物語』の各巻は、このようにして徐々に若い世代を「洗脳」することにより、10年、20年という時間をかけて貴族社会の「かっこよさ」基準を塗り替える、という壮大な意図を裏に隠し持っていたのではないかと、僕は考えている。


 『源氏物語』の執筆時期や執筆期間、各巻の成立順序等については、初巻から書き始められ、短期間にほぼ現在と変わらぬ形で書き上げられた、という説をはじめ、いくつかの説が唱えられている。

 その中で、武田宗俊・丸谷才一・大野晋各氏などが唱える「源氏物語四部構成説」というのがある。全体を第一部(桐壺~朝顔)、第二部(若菜~幻)、第三部(匂宮~夢浮橋)に分けた上で、第一部をさらに(a)紫上系、(b)玉鬘系の二つに分け、「原」源氏物語のa系が先に成立した後、その物語を補足する形でb系が書き足された、とするものだ。

 僕も、この説を支持したい。というのも、紫式部の「立場の変遷」と、この四部構成説による内容の変遷が、よく符合するように思われるからだ。

 紫式部がまだ「私人」であった頃に、友人たちと回し読みして楽しむ「妄想回覧小説」として書かれたのが、第一部a系。当代随一のイケメンである藤原道長と自分自身の分身の主人公「紫上」の恋愛物語を純粋に楽しむために書かれたために、内容が「めでたしめでたし」で終わるおとぎ話的なものになっている。

 その後、道長の目にとまり、中宮彰子の秘書兼家庭教師役の女房として抜擢された後に書かれたのが第一部b系。a系の内容を補うとともに、より様々な立場のヒロインを設定することにより、より多くの貴族女性に喜ばれるようにした。さらに、当時貴族の間で美的基準となっていた清少納言の美学「をかし」に対抗し、一新するため、「あはれ」の美学――運命にあらがわず、ただ嘆き悲しむことが美しい――を前面に押し出す。そのために、内容も自然、悲恋に終わるものばかりとなっている。

 このように考えると、すっきり理解できるように思われるのだ(第二部、第三部の書かれた意図については、後に述べる)。


 また、紫式部が中宮彰子派の――ということは藤原道長派の――第一秘書である、と自認しており、その立場に立った後の執筆活動には、貴族社会の「かっこよさ基準」を塗り替える、という目的があった――少なくとも、目的の一つではあった――と考えることで、なぜ彼女が『紫式部日記』の中で、清少納言のみならず、和泉式部に対しても、批判めいた評価を下しているのか、が理解できる。

 清少納言は、ライバルである中宮定子派の理論的支柱であり、伝説のトップレディ。さらに、現在の流行を席巻している『枕草子』の作者でもある。だから、「たいした学識もないくせに、得意顔で、人と違うことばかりしたがる生意気な女!」と強い口調でけちょんけちょんにけなすのも――けなさなければならないのも分かる。だが、和泉式部は、自分と同じく、中宮彰子に出仕していた女房なのである。にもかかわらず、紫式部は彼女について「素行は悪いし和歌の知識や理論も理解が浅いし、一流の歌人とは言えないんじゃない」などと、かなりきつい評価を下す。

 当時、和泉式部は当代一流の歌人として、すでに名をはせていた。中宮彰子の「サロン」を盛りたてることのみを目標にするなら、この「同僚」の名声にあやからない手はない。すなわち、同じく同僚であり、有名歌人でもあった赤染衛門を褒め称えたのと同じように、「中宮彰子様のサロンには、こんなに素晴らしい歌人もいるのよ」と、持ち上げてやればいいのだ。

 だが、紫式部はそうしなかった。

 和泉式部は、当時の有名歌人であると同時に、道長から「浮かれ女」と評されるほどに、その恋愛に対する積極性でも、有名であったからだ。

 人妻であったにもかかわらず、皇族との恋に落ち、その恋の相手が若くして亡くなると、程なくその弟と付き合い始める。そして、それらの恋愛時の感情を情熱的な歌として読み、発表する……和泉式部はまさしく「をかし」系の積極的な「かっこいい女」であった。

 このような女性を褒め称えてしまえば、自分の提唱する「あはれ」の美学と食い違うことになり、ひいては貴族社会の「かっこよさ基準」を塗り替える、という大目標を実現する可能性も、低くなってしまう。

 だからこそ、紫式部は、同僚である和泉式部を低く評価した。自分こそが中宮彰子派の第一秘書であり、理論的支柱であり、清少納言に代わり、新しい時代の価値観を築き上げるのだ、という強烈な自負があるからこそ、低く評価せざるを得なかったのだ。

 一見華やかに見えるかもしれないが、あのように「積極的に」生きることは、結局は「かっこよく」ないのだ、あくまで受け身で、あくまで慎み深く生き、その時その時の状況をひそかに嘆いたり喜んだりする、それこそが美しいのだ……このように主張することで、『源氏物語』との整合性を取り、みずからの提唱する美学を、より直接的な形で打ち出したのである。


 なお、『紫式部日記』には、このように「積極的でかっこいい、をかし系の女」を評価しない理由として、「中宮彰子が奥ゆかしく、消極的な方であり、その性格こそを貴族女性は手本としなければならないから」と読める部分がある。

 確かに、自らの(名目上の)上司であり、「サロン」の主催者でもある中宮彰子を「かっこよさ基準」の象徴としたい、という意志は、紫式部にもあったのだろうと思われる。しかし、「中宮彰子が消極的」だから、「消極的で奥ゆかしい」ことは素晴らしいのだ、と考えていた、とするのはどうかと思う。『紫式部日記』の中では、「あまりに消極的すぎて、貴族男性たちから、あそこのサロンは楽しくない、なんて思われてるのよねえ」などと、消極性の実害について述べている部分もある。消極的な性質は、当時の貴族男性からは「受けがよくなかった」のだ。

 現実的に考えて、サロンの主催者の第一秘書であり、家庭教師でもある立場の人間がこのような状況に直面すれば、当然、なんとか状況の改善を図ろうとするはずだ。つまり「あまり消極的すぎてもよくないのですよ」と主催者である中宮彰子に、それとなく意見を申し上げるなりなんなりして、少しでも貴族男性からの人気が上がる方向へ変えるようにしていく――していかなければならないはず、なのである。

 だが、紫式部はそうしなかった。「軽々しいまねはできないから」「軽薄と思われてはならないから」などと言い訳し、むしろ「をかし」系の「ライバル」たちをけなすことにばかり注力する。

 もし「中宮彰子のため」を思うならば、これはおかしい。その時その時の「内裏での人気」こそが天皇の(ちよう)(あい)と、それに続く皇子の懐妊、ひいては「一族の繁栄」につながる以上、「現実的に考えるならば」サロンの「人気のなさ」は致命的失策だ。にもかかわらず、「第一秘書」たる紫式部が何らの手を打たないというのは、理屈に合わない。

 となると、答えは一つだ。

 紫式部は「中宮彰子の性格に合わせて、をかし系女を批判した」のではない。逆に、自らが提唱する「あはれ」の美学にぴったりマッチしている「中宮彰子」を、将来的な女性の理想像とするために、あえて今現在の不人気には目をつぶることにしたのだ。「人物」から「理想」を抽出したのではなく、まずはじめに「理想」があって、それに対するシンボルとなる「人物」を選び、育てたのである。

 ここに、紫式部のある性質がよく現れていると思う。

 彼女は、徹底的に「理想主義的」な人間であったのだ。

 

 今、僕は「理想主義的」といったが、この用語はあまり適切ではない。というのも、理想主義とは、人間性や守るべき倫理などを考えぬき、隙のない「理想的世界」を論理的に構築した上で、その理想に現実を少しでも近づけるべく、「現実的な」目標を立てて行動する立場を指す言葉だからだ。

 ところが、紫式部は、これとは少し違う。

 「あはれ」の美学を理想とするものの、なぜそれが人間の理想であるのか、きちんと考えている形跡はない。ただ単に「をかし」の美学は気に入らないから、自分にはそぐわないから、「あはれ」を選んだだけに過ぎないように思われる。

 本来「理想」とは、実現可能なものであり、しかもその「理想」を実現することによって「幸福」をもたらすものでなければならないはず。なのに、そのあたりをよく考えず、そのくせ、一度構築した「理想」は絶対のものとして、一切の妥協を許さない。

 さらに、その「理想」へ至るための手段も、無垢な少年少女を洗脳することで、その美意識を一新する、などという、かなり思い切った――あまり「現実的」とは言えない――ものになる。

 自ら構築した「美学」こそ、この世の何よりも素晴らしいものであると信じ、その美学にそぐわないものは、徹底的に排斥する。「現実」に妥協して、「理想」を変質させるなどもってのほか、「理想」が何より大事であって、その思想を評価しようとしない「現実」に価値はない、だから、どんなに思い切った、どんなにえげつない、どんなに非現実的な手段であろうと、理想実現のために行使するのをいとわない……これはもう、理想主義とは似て非なるものだ、としか言いようがない。

 あえてそれに名前をつけるとするなら「理念至上主義者」「理念原理主義者」ぐらいになるだろうか。


 紫式部は、本質的にそのような傾向を持った人間――「理念原理主義者」であったと思われる。

 だからこそ、中宮彰子の「サロン」を楽しいものにする方向――「現実」に妥協し、多少の遠回りをして少しずつ「理想」へと至る方向――には、その努力が向かなかった。むしろ、そのような努力や全てを「理想」を裏切るものとして位置づけ、どれほど中宮彰子の人気が落ちようとも一切気にせず、ひたすら理想実現に向けて一直線に――手段を選ばず――突き進んでいく。

 サロン主催者の第一秘書としてはあるまじき態度である。


 さて、こうなると気になるのは、彼女を第一秘書にした男であり、実質的なパトロンでもあった藤原道長との関係だ。

 道長は、このような「理念原理主義者」紫式部を、どのようにとらえていたのだろうか。

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