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7.『枕草子』的「かっこよさ」の弱点――「をかし」の美学と「あはれ」の美学の根本的な違いとは――

 よく『枕草子』は「をかし」の文学、『源氏物語』は「あはれ」の文学、などといわれる。この評価は、そのまま清少納言、紫式部両者の能力の違いと、そこから生じた「戦略」の違いまでをも表していると、僕は考えている。

 清少納言の長所は、直観の鋭さ、頭の回転の速さと当意即妙のやりとり――つまり、「思考の瞬発力」にある。『枕草子』の中でも、その長所は存分に活かされ、常人では気づかないような、あるいは気づいても素通りしてしまうような「美」を鋭い観察力で見抜き、「これってかっこいいよね!」といわんばかりの生き生きとした描写で、その「もの」の良さを語る。常に周囲にアンテナを張り巡らし、「美」を見いだそうととする積極性と、鋭敏な感性、そして深い教養とを併せ持った清少納言だからこそ可能な「かっこよさ」の発見。その発見した「かっこよさ」を一言で表す言葉こそ「をかし」だ。

 すなわち、「をかし」とは「発見の美」なのである。

 前に述べたが、『枕草子』は当時の貴族社会における「かっこいい生き方指南書」とでもいうべき性格を持った作品であった。

 その中で、「をかし」を「かっこよさ」基準として採用するということは、おのずと「理想的な生き方」まで、読者に推奨することになる。つまり、常に自分を磨き、感性豊かな人間でいることで、「をかし」である事物を見抜くことができるようになること。そして、たとえその「発見」が常識に逆らうものであったとしてもひるまず、自らの発見した「美」に自信を持ち、堂々と発信すること。そのような、時に「攻撃的」とさえ思われるぐらい積極的な生き方こそ「かっこいい」のだ……清少納言は『枕草子』を通じて、このような「かっこよさ」基準を主張しているのである。

 きらめくような才能で、誰も気づかないような「美」にいちはやく気づき、自信を持ってそれを積極的に打ち出していく。その生き方は、誰にも文句のつけようのないほど鮮やかで、「かっこいい」。その集大成とも言える『枕草子』が、感嘆とともに貴族社会で広く受け入れられたのも、当然のことと思われる。

 これほど見事な「かっこよさ」基準を、一体どうすればひっくり返し、一新できるのか、通常では皆目見当さえつかない。

 が、作家であり、深い思考力・洞察力の持ち主であった紫式部は、気づいていた。清少納言の提唱する「かっこいい生き方」には、致命的ともいえる弱点があったのだ。

 一言でいうと、その生き方は「かっこよすぎた」のである。


 新しい美を常に発見し続ける生き方は、確かに魅力的だ。だが、それは誰にでもできることではない。清少納言のように、元から才能がある上に、常にその才能を磨き続け、その上で、常に周囲のあらゆる事象に対し鋭い目を向ける、という「不断の努力」ができる者にのみ許される「選ばれたかっこよさ」なのである。

 普通の人間は――たとえ、それが「かっこよさ原理主義」社会に生きる貴族であったとしても――そこまでのレベルに達することは、なかなかできない。「常に自分を磨き続ける」なんてしんどい、面倒くさいことはしたくないし、「常に周囲にアンテナを張り巡らせ」てたりしたら、疲れてしまう。それにそもそも、持って生まれた才能が足りなければ、普段の生活に隠れた「美」に気づくことすらできないではないか。

 清少納言は、本人が有り余るほどの才能(教養、直観力、タレント性)に恵まれ、しかもそれらを磨き続けることに喜びを見いだすタイプの女性だった。それは、彼女にとってあまりにも当然のことであったがゆえに、彼女はごく自然に、「人間は皆、こういう生き方をしたいと思っているし、努力すれば必ずできるようになる」と思っていたに違いない。だが、現実の人間のほとんどは、もっと怠け者で、鈍くて、でも結果だけはほしがる「ずるい生き物」であると、紫式部は知っていた。そして、そこに、つけ込む隙を――「文化革命」を引き起こす可能性を見いだしたのである。


 清少納言の長所が「思考の瞬発力」にあったとすれば、紫式部の長所は、「思考の構成力」――洞察した状況を整理し、起こりうる将来や読者の反応を幅広く予想する奥深い想像力と、それらに合わせて隙のない行動や文章をあらかじめ構築できる能力――にあった。

 この力でもって、彼女は読者である多くの貴族女性たちを物語のとりこにし、その熱狂的な人気を背景に、中宮彰子の女房にまで「出世」する。

 紫式部は「大衆作家」だったのだ。

 そして、中宮の第一秘書となった彼女は、中宮定子派の文化的影響力をそぎ落とすため、この「大衆からの人気」をさらに高める、という方策を選んだ。その際に打ち出した美的基準が、「あはれ」なのである。


 「をかし」が即物的な美であるとすれば、「あはれ」は情緒的な美である、などとよく言われる。「ものごと」そのものに美を発見するのが「をかし」であるのに対し、あるどうしようもない状況の中に身を置かざるを得なくなった人物が、状況の中にいる自分を悩み、苦しみ、哀れんだりしていること、あるいは、美しい光景や、華やかで晴れがましい情景の中にいる自分を意識し、その幸運を改めて喜んだり楽しんでいたりしていること――つまり、「とある状況と、その状況の中にいて喜怒哀楽の反応をしていること」全部をひっくるめて「美しい」とするのが「あはれ」なのである。

 もう少しわかりやすくいうと。

 例えば、「小さい子が、こっちにはいはいしてくる途中、ゴミを拾い上げてじっと見せたりするのって、チョーかわいいよね」とか「台風の次の日、風に吹かれた落ち葉が、わざわざ誰かがマス目の一つ一つに入れたみたく、格子戸の格子の中に入りこんじゃってて、なんかおもしろーい」とか、普通の人には思いもかけないところに美を発見し、それを「どうよ」と読者に提示するのが「をかし」。それに対し「私ってば、大好きな人に求愛されてすごく嬉しい。けれど、私、一応人妻だし。夫のある立場で、あの人の求愛を受け入れるわけにはいかない。ああつらい、どうしてこんなひどい運命なの……」という「嘆き悲しんでいる状況」そのものが美しいとするのが「あはれ」だ。

 「をかし」が「発見の美」であるの対し、「あはれ」は「状況の美」なのである。

 ちなみに、この「あはれ」の美学、紫式部が発見したものではない。

 平安初期に成立した『竹取物語』『伊勢物語』などにも、つらい状況に置かれた自分を嘆き悲しむ「あはれ」を見て取ることができる。紫式部は、この古典的な美である「あはれ」を追認し、洗練し、新たな形で打ち出すことで、読者である貴族女性の心をつかむ。それには、「あはれ」の美の性質が大きく影響していたと思われる。

 「あはれ」は「をかし」と違い、本人の努力を必要としないのである。


 「発見」の美である「をかし」を体現するには、持って生まれた才能と、自分を磨き続ける努力とが必要であることは、すでに述べた。これに対し「あはれ」は、「状況」の美。「自分の力ではどうしようもない運命」――ここがポイントだ――に翻弄される自分自身を嘆き悲しむことを「美しい」とするものである。

 おわかりだろうか。

 運命が、自分の力ではどうしようもないものである以上、持って生まれた才能や、その才能をさらに高める努力などは、不要なものとなる。いや、不要であるどころか、それらは「運命にあらがおうとする意志」を生じさせる可能性を生んでしまうために、むしろあってはならない、持ってはならないものとなる。

 才能など「運命」の前には無力。努力など、もってのほか。そんなものは全て放棄し、ひたすら思うに任せぬ自分の運命を嘆き悲しみ、時に降ってわいたように訪れる幸運を、全力で喜びなさい。そのような「徹底的に受け身な生き方」こそ、美しい生き方なのです……「あはれ」の美学は、読者にそう訴えかける。

 読者である貴族女性にとって――そして、その貴族女性を「出世の糸口」として思うがまま操りたい貴族男性にとって――これ以上に受け入れやすい美学は、ない。


 さらに。物語は、当時の常識では、和歌や漢詩などと比べ、一段「レベルの低い」文学だとされていた。が、その分貴族女性には「とっつきやすい」文学でもあった。

 文字を習い覚えた後で、まず読み始めるもの――それほどの教養がなくても楽しんで読むことができ、和歌などの「より高度な」文学を習い覚える基礎となるもの、それが物語だったのだ。

 この「幼い時期に読み始め、後の教養の基礎になる」ことに、紫式部は目をつけた(あるいは、ある程度『源氏物語』が成功した後、そのような効果があることに気づいたのかもしれない)。若い貴族女性全てに「これこそが貴族の「かっこよさ」なのよ」という内容をさりげなく盛り込んだ物語を愛読させれば、自然とその女性たちの脳裏に「物語で読んだかっこよさ」基準が根づく。つまり、「あはれ」の美学が、彼女たちの「基礎教養」になるわけだ。

 その若い女性がやがて成長し、母として、あるいは乳母として、次代の子供を育てる立場になった時、子供に伝えられるのは、自分が身につけた「基礎教養」――すなわち、彼女らが幼い頃「物語で読んで身につけたかっこよさ」基準になる。

 親のいうままに和歌や音楽を学び、親のいうままに、よく知らない相手と結婚しなければならない「運命」の自分。密かに好きな男性がいたとしても、その気持ちが成就する可能性はない。だが、それでいいのだ。その思うに任せない自分の立場を嘆き、ふと見上げた空に輝く月でも眺めつつ、涙を一筋流せば、それだけで、悲劇のヒロインになれる。

 両親のために身分の高い男へ嫁いだのに、そこへこっそり通ってくる男を拒否することができない。それもまた「運命」。思うに任せぬ自分の気持ちを恨み、どこからか聞こえてくる楽の音に耳を澄ませつつ、流れる涙を袂で拭えば、それだけで美を体現したことになる。

 そして、いよいよどうしようもなくなってしまったら、立場を捨てて逃げるなり、出家するなり、いっそ死んでしまうなりすればいい。それこそ、全身で美を体現したことになる。だから安心して受け身の立場を甘受し、そしてひたすらその立場を嘆き悲しみなさい。それこそが、何より美しい……『源氏物語』は、読者――無垢で世間ずれしていない少女たち、やがて成長し、貴族の子供全てに「美しさ基準」を教える立場になる若い女性たちに――そう、ささやき続けるのである。


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