5.「超絶イケメン男子」藤原道長――なぜ藤原道長は光源氏のモデルとなったのか――
藤原道長といえば、強引に自分の娘を三代の天皇の皇后にしたり、気に入らない天皇に退位を迫ったり、「この世をばわが世とぞ思ふ望月のかけたることのなしと思へば」という傲慢極まりない和歌を詠んでみたりと、現代では、どちらかといえばいいイメージのない――むしろ、悪徳政治家とか、権力に執着する傲慢な悪党とかいう感じの漂う――人物だ。
だが、当時の貴族たちの評価は、まるで違っている。
道長は、966年――清少納言とほぼ同じ頃――兄弟の四男として生まれた(五男説もある)。
父は一条天皇の摂政であった――つまり、貴族としては最高権力者であった――藤原兼家。とはいえ、道隆(中宮定子の父)、道兼という有力な兄、及びその息子たちが存在したため、道長は本来、貴族社会の最高権力者になれる立場ではなかった(他の貴族たちからすれば、十分身分の高い「貴公子」ではあったろうが)。
若い頃から豪胆な自信家で、自らが見初めた美人を嫁にするため、当時それほど高い身分ではなかったにも関わらず、自分の家とはライバル関係にある高位の貴族の家に直接乗り込み、堂々と「娘さんを嫁にください」と頼み込んだとか、当時最高権力者であった兄の息子たちを、弓勝負で散々に負かしたとか、びっくりするような逸話を数々残している。しかも、イケメンとしても相当知れ渡っていたようで、肖像画を見ると、どれも長身の爽やかなものばかり(もっとも、これには道長に対する画家のおもねりもあったのかもしれない)。
見逃せないのは、990年、定子が一条天皇の中宮になると同時に、兄道隆から中宮大夫に任じられていることである。
中宮大夫とは、中宮・皇后の世話を行う役所の長官のこと。宮中で中宮が必要とするもの全てを滞りなく取りそろえなくてはならない役職だ。
なんだ、単なる「社長の奥さんの世話焼き係」か、などと侮ってはいけない。この時代、貴族の権力の源は、自分の娘を天皇の妻として宮中に送り込み、次期天皇候補となる皇子を生ませることで成り立っていた。そうなるには当然、娘が天皇の寵愛を受ける必要があり、天皇が娘の御殿へと足繁く通う気になるよう、居心地よい場所にすることが求められる(だからこそ、実力者たちはこぞって、中宮である娘に優秀な才能を持つ「秘書役=女房」を仕えさせた。こうして内裏の御殿が「サロン」的な場所になっていったのだ)。その重要な「権力の源」である娘の御殿を維持管理し、居心地良さを演出するためにありとあらゆるものを調達するのが、中宮大夫。だから、極めて重要であると同時に、無能なもの、「かっこよくない」ものには務まらない、難しい役目でもあったのだ(とはいえ、一般的な「超エリートコース」からは、外れる役職ではあったが)。
道長は、この難しい役割を、定子の入内から、自身が最高権力者となる995年まで、務めていたようだ。
この990~995年という間は、そっくりそのまま「中宮定子・清少納言全盛期」に重なる。つまり、道長は、中宮定子と清少納言の「かっこいい」生き様を、すぐ側で見聞きし、さらには事務方として、裏から支えていたのである。
「かっこよさ」とは、結局のところ、身の回りにどれだけセンスのいいモノ(物・者)を揃えるか、で決まってくる。貴族社会の「トップレディ」であり、中宮定子の優秀な「第一秘書」でもあった清少納言が、中宮定子の身の回りに置く調度品に、妥協を許したはずがない。当然ながら、自らの鋭敏な感覚に沿った、最高にセンスのいいモノばかりを求めたはずだ。
その求めに応じて、実際のモノを手に入れてくるのが、道長であった。
鋭敏な感覚を持った相手がどのようなモノを求めているか理解し、入手するには、相手と同じレベルの鋭敏な感覚(と実務能力)が必要になる。元々道長には「かっこよさ」を理解する能力があったようだが、この時期中宮大夫を務めたことで、さらにその繊細な感覚を磨き、高めたに違いない。
中宮定子、清少納言らと、ある時は議論し、ある時は内心を推し量り、彼女らの心にかなうモノを手に入れる――その過程で、道長自身も二人の「かっこよさ」を身につけ、さらに男ぶりをあげていく。そのことにより、今度は清少納言らも刺激を受け、さらに「トップレディ」としてのセンスを磨いていく……この時期の両者の関係は、信頼できる同僚であると同時に、お互いを高め合うライバルでもあった。
だからこそ、清少納言は中宮定子から「あの若い人(=道長)は、あなたのお気に入りですものね」などとからかわれるほど、道長を気に入っており、道長が最高権力者になった後には、「敵方に通じている」として、一時期定子陣営から遠ざけられる原因にもなったのだろう。それぐらい、お互いを認め合っている仲だったのだ。
この結果、道長が運良く貴族社会の最高権力者となる頃には、「トップレディ」と肩を並べるほどの「かっこよさ」を身につけた、まさに貴族社会一の「ダンディ」に成長していた。
しかもこの男、身分は申し分ないし、財力もある。さらには、当時には珍しいほどの長身で、和歌に長じ、弓が得意で……とまあ、貴族女子が憧れる材料を、全て持っていた。
さらに、これが何より重要なのだが、道長はただ単に「かっこよくてセンスのよいイケメン」というだけではない。先ほど挙げた「ライバル貴族の屋敷に乗り込んで、娘を嫁にほしいと直談判する」逸話からも分かるように、道長は、心にかなう女性を手に入れるためなら、かなり思い切った手を使うのも辞さない、決断力と実行力の持ち主でもあった。
つまり、貴族女性からすると、たとえ相手が「身分が低くてつましい生活を送っている貴族女性」であっても、その逆に「あまりに高位であるために、全く男性との出会いがない貴族女性」であっても、一度見初めたら、どんな困難も乗り越えて、自らの思いを遂げにやってくる――この人ならきっと、それぐらいやりかねない――という「希望」を抱かせるに十分な男だったのだ。
紫式部が私人の立場で『源氏物語』を書き始めたとされる1001年頃は、道長が娘の彰子を中宮として入内させ、権力の地盤を盤石にした頃である。しかも、30代初めの男盛りだ。
政治的実力も、センスの良さもある、貴族社会きっての「セレブな伊達男」。しかも、一度女性を見初めたら、どんな無茶でもやらかしてしまいそうな、「危険な香り」。まさに、光源氏そのものだ。
紫式部はおそらく、仲間内に見せるだけの気軽な物語なんだし、それなら「あの人」を主人公にしちゃえ、と軽い気持ちで道長をモデルにしたのだ。けれども、そのまま「道長」の名前をつかうのは――さすがに相手は最高権力者なので――気が引ける。だから、同じ高位の貴族で、ライバル関係にあった「源氏」の名前をつかうことにした。けれど、仲間が見たら、ああ、これ道長様だわ、とすぐ分かるように、特徴は全て道長そっくりにして……という感じで、光源氏というキャラクターを創造したのだと思う。
このことによって、読者である貴族女性は、脳裏に道長を思い描き、ヒロインである女性に自分を当てはめて、ドキドキしながら物語を読み進めることができた。そのリアリティはたちまち仲間内の女性たちをとりこにし、あっという間に宮中へとうわさが広がり、そこでも人気をさらうことになった……ということなのだと思う。
様々な理由により、貴族女性の間でベストセラーとなった『源氏物語』。やがてそのうわさは、藤原道長の耳にも入る。その内容について、おそらくは誰も、はっきりとは告げなかっただろうが、ちょっと読んでみれば、その主人公が自分をモデルにしているであろうことに、すぐ気づいたはずだ。
くすぐったいような感覚とともに、虚栄心を満たされた道長は、やがて作者である紫式部本人にも、興味を抱くようになる。そこで、自らの屋敷に彼女を呼び出し、人となりを確かめた上で、自らの娘である中宮彰子の女房に任命する。このことにより、紫式部は「内裏」という表舞台に登場することになる。