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4.『源氏物語』は『妄想恋愛小説』――なぜ『源氏』は貴族女子にウケたのか――

 さて、『源氏物語』がどのようにその性格を変えていったかを語るに当たり、まずは性格が変わる前の『源氏』――単なる「同人小説」に過ぎなかった作品が、なぜ貴族女子から熱狂的に評価されたのか、を考えていきたい。

 といっても、ここで僕が検証したいのは「『源氏』の文学性」ではない。

 現代日本人の目からすると、確かに「源氏物語」は「文学的」に映るが、紫式部と同時代の平安貴族たちが、それと同等の感覚を「源氏」から得ていたかどうか、検証することはできない。むしろ、後世の人間は、源氏物語、及びそこから派生した美意識をあまりに当然のものとしてきたがゆえに、無意識のうちに「源氏」的なものに「文学性」=「かっこよさ」を感じ取ってしまうのではないか、と思っているからである。

 だから、ここでは「文学性」はいったん横に置き、それ以外の「源氏」の「評価されたと思われる理由」を、指摘していく。


 『源氏物語』が貴族女性の間でベストセラーになった理由として、大きく三つの「人気の秘密」があったと、僕は考えている。

 まず一つ目は、「閉鎖性」。

 源氏物語は、難解である。

 登場人物が多い場面でも主語を示さず、指示語や、ぼんやりした表現を多用するために、一読しただけでは、なにを言っているのか理解できないことが多い。

 僕も、高校時代、国語の授業で初めて「源氏」の文章に触れた時、なんとわかりにくい文章なのかとあきれた――以前から「物語文学の最高峰」「平安貴族文化の精華」などといった非常に高い評判を聞き、どれほど面白い物語なのかと期待していた分、余計に――記憶がある。

 そして、この「難解だ」という感覚は、おそらく現代人だけのものではない。

 紫式部より20~25歳ほど年下と思われる貴族女性「菅原孝標女」は、その作品『更級日記』の中で、少女時代、初めて源氏物語を読んだ時のことを書いているが、そこに「(途中を読んだだけでは)よく分からなかった源氏物語を、一の巻から読み始めて……」という一節がある。

 ほぼ紫式部と同時代人としていい菅原孝標女でさえ――しかも、若年ながら、学者一家に生まれ、相当な教養を身につけていたと思われるのに――途中から読むとよく話が理解できなかった、という感想をもらしているのである。

 まあ、それも『源氏物語』の成立事情――私的な、せいぜい仲間内だけでの「回覧小説」――を考えれば、分からないではない。

 もともと仲間内で楽しむものなのだから、仲間内にさえ、理解できればいいのである。仲間にだけ通じる表現、仲間にだけ分かる描写を多用し、仲間の理解力を当てにして、どんどん物語を進める――執筆を始めた当時の紫式部は、そのように(無意識に)考えたはずだ。

 その結果、当時の貴族女性で、ある程度以上の年齢に達しており、教養もある程度身につけた上で、一の巻から通して読むことができる者――本当に選ばれた者にのみ、ストーリーが理解できる作品になった。

 この「選ばれた者」というのがポイントだ。

 誰かを物語に熱中させるに当たり、大切な要素の一つに「この作品は、自分のために書かれた作品だ、と思わせること」というのがある。ターゲットとする読者層に特有の心理や行動、流行語などを作品に盛り込むことによって、読者をストーリーに引きつける、というやり方だ。

 物語を創作するに当たり、この「読者の絞り込み」は相当に重要な要素になる。一般的な表現を用いて、一般的な心理を多用し、物語を作れば、多くの人に理解はされるものの、心の底から作品に共感してくれる読者は減少する。その逆に、ある特定の読者に特有の心理や行動を盛り込めば盛り込むほど、作品の内容を理解してくれる人は減少するが、その代わり、共感してくれる人――いわゆる「ハマる」人――が増えるのである。

 この点で『源氏物語』は相当に「読者層を絞り込んだ」作品である、ということができる。なにしろ、そもそも貴族女性、それも「仲間内」で楽しむことしか考えずに書かれた――「閉じた」作品なのだから。

 その代わりに、その内容に共感できる「選ばれた貴族女性」からは、熱狂的な支持を受けたのではないか、と考えられるのである。


 「人気の理由」の二つ目は、「読者層に適合した設定」。

 前にも述べたが、貴族女性は相当にヒマである。日がな一日屋敷の奥に引きこもり、室内遊びやおしゃべり、習い事、音楽演奏などで一日を過ごさなければならない。

 逆にいうと、それだけ貴族女性は自由を制限されていたのである。

 悪い虫がつかないよう、自由に出歩くことを禁じられ、貴族としての体面を保つために、家事や雑事を禁じられる。適齢期になれば、父親の意向に沿う相手との縁談が勝手に進み、結婚して子供を作れば、今度は家を守ることを――たとえ、結婚相手が家に寄りつかなくなったとしても――求められる。息苦しいことこの上ない生活だ。

 しかも、腹立たしいことには、形式的には貴族女性にも「自由恋愛」が認められており、選ばれた「かっこいい」女性は、自分で相手を選び、気に入った男性と恋愛することができた。

 一般的な貴族女性にとって、これは相当、ストレスがたまる状況であったに違いない。

 自分も、和歌の世界で歌われているような恋がしてみたい。しかし、いざ現実をみると、がんじがらめに縛られた生活を送っており、そうそう恋愛のチャンスは訪れない。こういった貴族女性たちの不満を、虚構の中で一挙に解決する存在――それが、光源氏だったのだ。

 光源氏は無類のイケメンである。そのイケメンぶりときたら、まさに「光り輝くよう」であり、しかも、教養があって、漢籍にも和歌にも通じている上に、おしゃれにもうるさい。つまり、恋愛対象の女性からしても、ぜひとも恋人にしたい存在である。

 また、光源氏は、これ以上ないほどに身分が高い。なにしろ、臣籍降下したとはいえ、天皇の息子である。しかも、亡き母は天皇がことのほか愛した女性である、ということで、天皇の覚えめでたく、財産も不自由がない。ということは、女性の両親としても、願ってもない結婚相手だ、ということになる。

 さらに、光源氏は女性関係に熱心で、積極的である。どこかに美人がいる、といううわさを聞きつければ、屋敷に忍び込んででもその顔を拝みに行こうとするし、一度女性を見初めれば、万難を排し、あらゆる手練手管を尽くしてその人に求愛し、思いを遂げようとする。女性からすれば、ただ、屋敷の奥でぼけっとしているだけで、向こうが勝手に自分を見初め、勝手に気持ちを盛り上げ、勝手に恋愛相手となってくれる、実にありがたい存在なのである。

 この主人公設定には、おそらく紫式部の若い頃の苦い経験からきているに違いない。

 結婚適齢期に父親が長いこと失業し、続いて地方へ赴任していたせいで、才能豊かであるにもかかわらず、誰も自分に求婚してくれなかった(若い貴族男性は、将来の出世を夢見て、内裏に強力がコネがあったり、持参金を多く持っている女性に求愛することが多かった)。しかも、経済的に困窮しているため、気晴らしにぱあっと散財する、というわけにもいかない。屋敷にこもり、なるべく出費を切りつめて細々と暮らさなければならない。

 同年代の友人たちが次々に結婚し、出産していく中、紫式部は、どれほどつらい思いをしたか、想像に難くない。

 想像力――妄想力?――豊かな彼女は、そんなとき、きっと考えたのだ。

 もし、とんでもなく身分が高くて、多くの財産を持っている人――私自身に華麗な屋敷を与え、何不自由のない生活を生涯保証してくれる上に、両親の面倒まで見てくれるような、そんな人が、私を見初めてくれたら。

 もちろん、金持ちといっても年寄りではなくて、若くて爽やかな貴公子。もちろん、誰が見てもうっとりするようなイケメンで。

 あ、それから、私を見初めても、どうしていいか分からず、ぼやぼやしてるような人ではだめ。時には強引なくらい積極的に――でも、おしゃれに――アプローチしてくれて、屋敷にこもりがちな私でも、ついついその気にしてくれるような。

 そんな人が、(私の恋人として)いてくれたらいいのに……。

 光源氏は、紫式部のそんな思いから生まれたのだろう。

 そして、ほんのわずかな例外を除き、当時の貴族女性は皆、多かれ少なかれ「自由を奪われた状況」に置かれていた。だからこそ、その状況を易々と打破する主人公――光源氏に惹かれたのだ。

 光源氏はまさに、閉塞した貴族女性の灰色の生活を打破する為に創造された――読者である貴族女子の理想をそのまま形にした――主人公なのである。


 「人気の理由」の三つ目は、「リアリティ」。

 いくら光源氏が「女子の理想そのまま」の設定であるからといって、それがあまりに荒唐無稽な存在であれば、作品に没頭することは難しい。「こんな人、いるわけないじゃん」と、すぐに気持ちが冷めてしまう。

 ものすごいイケメンでクールな性格なのだけれど、動物好きで、子犬にはメロメロになるとか、天才ギタリストで作曲なども楽々こなす音楽の天才だけど、極度の方向オンチで、一人で出かけると必ず迷子になるとか、どこか人間くさい特徴がないと、読者はなかなか、その主人公に好感を持ってくれないものだ。

 当初の『源氏物語』のような、「サークル内回覧小説」――せいぜい数人~数十人の読者しか想定していない物語であるなら、「実在の人物」をモデルにしてもいい。いや、むしろその方が効果的だ。

 ちょっと読んだだけで、「ああ、これあの人だわ」と分かるような人間を主人公のモデルにすれば、読者はその人物を思い浮かべつつ、物語を読むことができる。その人物とヒロイン――読者自身――のリアルな恋愛物語として、ドキドキしながらストーリーを楽しむことができるのである(現代の「BL女子」が身近な存在をモデルにして「カップル妄想」――男性同士の恋物語を創作し、回覧して楽しむ感覚に似ているかもしれない)。

 しかし、である。

 光源氏は、相当「恵まれた」主人公だ。超絶イケメンでおしゃれで風雅で身分が高くて金持ちで、しかも並外れた情熱と行動力があり(なにしろ「絶対のタブー」である「天皇の側室に手を出す」ことまでしてしまうのだ)、積極的。一昔前の少女マンガの主人公レベルの「主人公特性」を備えた人物である。

 いくらなんでも、こんな恵まれた人物が存在するわけがない、と思いたいところだが……実は、いたのだ。

 紫式部と同じ時代を生きた貴族男性で、長身でイケメンでおしゃれで風雅で身分が高くて金持ちで、さらにその上仕事でも有能、自信家で胆力があり、しかも爽やか、ついでにスポーツも得意と、そんじょそこらの少女マンガの主人公など蹴散らすほどの「モテ要素」を備えていた――少なくとも、当時の貴族社会ではそのように見なされていた――人物が、実在した。

 その人物こそ、誰あろう、藤原道長その人なのである。


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