3.紫式部は「無名の苦労人」――『源氏物語』執筆までの紫式部の反省と、その執筆動機――
さて、このような「内裏のトップレディ」「伝説の才女」であった清少納言に対し、紫式部は、当時の貴族社会でどのように評価されていたか。
先ほど述べたとおり、紫式部は、清少納言より10歳前後年下である。そして、清少納言と同じく、幼少の頃より「漢文を読み書きできる才女」であったらしい。
が、似ているのはここまで。
清少納言は10代で最初の結婚をし、子供をなしている(当時の貴族女性は、10代後半での結婚が通例であったようだ)。それに対し、紫式部が初の結婚をしたのは、20台前半~後半。結婚する直前、ちょうど適齢期であった2年ほどの期間、越前守に任命された父親に付き従い、都を離れていた、という不運はあるにしろ、これは当時の貴族女性としては、かなりの晩婚である。
しかも、結婚した相手は、親子ほどの年の差がある男。それも、相手は四度目の結婚で、式部本人よりも年上の息子までいる。
平安貴族の結婚といえば、通い婚。当人同士、相手が気に入るかどうかがなにより重要であり、そのためにまずは和歌のやりとりをして……などと古文の授業は習ったことと思うが、いかに20代前半の「婚期を逃しかけている女」とはいえ、このような男と「自由恋愛」に燃え上がり、結婚しようと思うものだろうか。
いや、現代の「婚活女子」の例を見るまでもなく、適齢期外れかけの女だからこそ、むしろ、自由恋愛などというよりは、その後の生活の安定を考え、打算と妥協でもって、結婚を考えるのではないか。
実は、紫式部の父親、藤原為時は、996年、越前守に任命されているのだが、それより前の10年ほどを「散位」の状態であった。散位とは、官職に任命されないこと。つまりは、「失業状態」である。
為時は、元々それほど高位の貴族ではない。このような貴族は、自らの領地である「荘園」を持つことができず、その収入の大半を、官職に就くことで得られる「食封」に頼っていたようである。だから、なんとしてでも官職に就こうと、様々な「就職活動」を繰り広げなければならない。そのためには、もちろん都に住み、自らの「かっこよさ」をアピールするため、生活や服装にも気を遣い、皇族や上級貴族の目にとまるよう、手土産を持って矢先を訪ねなどする必要があるのだが……このような生活を維持するには、当然ながら、かなりの財力が必要になる。
結局、官職について収入を得るためには、湯水のように資産を消費しなければならないという、悪夢のような状況に陥ってしまうのである。その「悪夢」を失業している10年もの間、続けなければならなかったのだから……どれほど表面上は華やかに見えたとしても、紫式部たちの実生活は、さぞ苦しいものであったに違いない。
さらに、当時の「貴族の通い婚」についてだが、どうもこの結婚が「当人同士の意思」によって成立した、というのも、かなり怪しい。
戦国時代の武将たちが、自らの地位と領土の保全を画し、娘を有力武将や近隣の大名に嫁がせたように、平安貴族たちも、有力な貴族とのつながりを作るために、自分の娘を嫁がせる――いわゆる政略結婚――ということを、頻繁に行っていたようなのである(こういう場合、嫁をもらいたいと思う側は、あらかじめ嫁の両親に対し、自らの意向を伝え、了承されたところで、夜、娘本人のところへ通ってきていたようだ)。
「通い婚」という形は残っているものの、それはあくまで形式。実際は、親同士の話し合いにより、嫁ぎ先が決められ、結果、自分のところへ通うようになった男と、半ば強制的に結婚する。自らの好みで結婚相手を選ぶことができたのは、例外的事例に過ぎず、ほとんどの貴族女性は、それまであったこともないような相手と結婚しなければならなかった、というのが現実だったのだ。
これらのこと――紫式部一家の逼迫した経済状況と、「政略結婚」全盛の社会状況、二人の年齢差、そして適齢期を逃しかけているという本人の事情――を考え合わせると、どうも僕には、紫式部のこの結婚は、「恋愛」によるものではなかったのではないか、としか思われないのである。
結婚して後、一子をもうけているのだから、もちろん「家族としての情」はあったのだろう。しかし、せいぜいそれだけであり、それ以上の感情――夫を「男として」恋い慕う感情などは、全く抱いてなかったのではないか。そのように思われて、仕方ないのである。
ともあれ。
結婚してわずか三年ほどで、夫宣孝は、疫病により亡くなってしまう。
その後、藤原道長に乞われ、中宮彰子の女房として出仕するようになるまでの5年前後の間、公的な記録から彼女の記録は途絶える(伝承では、この時期、道長の妻であった倫子の女房を務めていた、とされているようだ)。彼女の代表作である『源氏物語』は、この時期に書き始められているのである。
この「公的立場が一切ない時期に、『源氏物語』が書き始められた」という事実は、見逃せない。
井沢元彦氏は、著書『逆説の日本史』『源氏物語はなぜ書かれたのか』の中で、「『源氏物語』は、藤原氏のライバルである源氏を虚構の世界で大活躍させることで、かつて藤原氏が現実の政治の世界において、不法な手段で追い落とした源氏の魂を慰め、鎮魂するため、書かれたものである」との説を主張しておられる。
氏の様々な歴史的事例に対する言説は、示唆に富み、非常に興味深く、納得させられることが多い。が、この「源氏物語怨霊鎮魂説」説には、さすがに肯けない。そのような目的のために書かれた(道長の依頼によって書かされた)とするには、無理がありすぎるように思われるからだ。
まず、「物語」の位置づけ。
これは伊沢氏本人も指摘しておられるが、儒教文化の影響の濃い東アジアでは、つい百年ほど前まで、「小説」は卑近で矮小なものであり、それを書くのは犯罪行為に近いものであった。さらにいうと、まさに紫式部本人が『源氏物語・蛍の巻』の中で「物語とは、本当のことはごくごく少ない絵空事なのに、それを喜んで読むのだから、女とは、だまされるために生まれてきたようなものだ」と主人公の光源氏に言わせている。
つまり、「物語」とは女子供が読むような「つまらない・くだらないもの」であり、教養ある成人男性が真剣に読むようなものではない、というのが、平安時代の常識だったのである。今で言う、「子供向け、少女向けマンガ」のような扱いだったのだろう。
だとするならば、伊沢氏は例えば「子供向けマンガの中で不当に滅ぼされた一族を大活躍させてやれば、それは相手に対する立派な鎮魂になる」と主張しておられることになる。当時の公用語である漢文でもって、一族の功績を記し、それを建立した寺社などに奉納すれば、鎮魂にもなるだろうが……さすがに「マンガで鎮魂」は考えにくいのではないだろうか。
次に、当時の「鎮魂」が、「一族」に対し行われることなどあったのか、という疑問。
怨霊といえば、まず頭に浮かぶのが菅原道真だ。
道真は、忠実な性格と豊かな教養により天皇に重用され、右大臣にまで出世する。が、政敵の讒訴(「ざんそ」と読む。他人を陥れるために、目上の者にありもしない告げ口をすること)によって失脚させられ、太宰府へ大宰権帥として左遷された後、失意の中、死を迎える。その死後、天変地異が相次いだために、その怨霊を鎮めるために、朝廷は彼の罪を赦し、神としてまつることで、たたりを鎮めようとした……というのが菅原道真に対する「怨霊鎮魂」の流れである。
この道真の例からも分かるように「怨霊鎮魂」の対象になるのは、「失意の死を迎えた個人」である。崇徳天皇、平将門など、他にも「怨霊」として思い浮かぶのは、基本的に特定の個人だ。このことから、平安期の人々は、基本的に「怨霊となりたたりをなすのは『特定個人』」という意識があったのではないかと思われる。だとするならば、「源氏一族に対する鎮魂」のため『源氏物語』は書かれた、という伊沢説は、「個人に対する鎮魂」を当然のことと考えた「平安貴族の常識」に反することになってしまう。
では、特定の源氏に対する鎮魂だ、と考えると、どうか。
『源氏物語』の主人公である光源氏には、モデルと目される人物が複数いる。その中で「源氏」となると「源融」「源高明」の二人となる。が、このうち「源融」は左大臣にまで出世し、そのまま失脚することもなく没している。つまり、そもそも「怨霊」として「鎮魂」する必要のない、幸福な人生を全うしているのだ。
もう一方の「源高明」は、左大臣にまで出世した後、失脚しているから、確かに「怨霊」になる可能性はある。その「鎮魂」のために『源氏物語』を書いた(書かせた)ということも、あり得ないとは言い切れない。
しかし、である。先ほども述べたように、『源氏』を書き始めた頃の紫式部は、単なる「一私人」である。そのような立場の人間――それも女性が、ある時急に「そうだ、源高明様の鎮魂をしなければ」と思い立ち、物語を書き始めるものだろうか。
そうではなくて、誰か――おそらくは道長――の依頼により、鎮魂のために書き始めたとする。ならば、それと分かるように――つまり、少なくとも当時の貴族たちに「この物語の主人公は源高明である」と分かるように、何らかの形で示されているはずだ。
だが、源高明の逸話を探しても、どうも光源氏とオーバーラップする部分は見えてこない。教養豊かで和歌にも優れ、学問を好んだ、とあるが、光源氏のようにイケメンで女たらしでおしゃれだった、という風説は、全く見あたらない。
さらに、「源高明鎮魂のため、道長が創作を依頼した説」には、致命的な弱点がある。
実のところ、道長の正妻(の一人)である源明子は、この源高明の娘なのである。しかも、明子と結婚したのは、高明が失脚した後のことなのだ(叔父である盛明親王の養女になっていた)。
つまり、道長にとって、高明は「妻の父」であり、その境遇を気の毒に思うのであれば――あるいは、妻からの懇願でもあれば――好きなだけ、正式に鎮魂を行うことのできる立場にあったのだ。
そのような立場にあるものが、なぜわざわざ非公式に、しかも「物語」という形で、若い女房に鎮魂を依頼しなければならないのか。正直言って、理解に苦しむ。
鎮魂がしたければ、まずは当人の名誉回復のため、官位を追贈し、正式に寺社でも建立して、大々的に法会など実施すればよい。道長には、それだけの財力と権力があったのだから。
だが、道長の事績には、それらを実施した記録はない。朝廷から高明に官位が追贈された記録はあるが、それはなんと15世紀になってからである。
これらのことから読み取れることは、明白だ。
源高明は、平安貴族たちから、「怨霊」と見なされていない。従って、彼を鎮魂する必要などなかった、ということである。
以上のような理由から、僕は、『源氏物語』が執筆された理由は、少なくとも「怨霊鎮魂」にあるのではない、という立場をとる。
では、紫式部は、一体どうして、『源氏物語』を書き始めたのか。
状況を整理してみよう。
その女性は、父親の失業などの影響で婚期を逃し、親子ほどの年の差がある男と結婚せざるを得なかった。結婚生活は意外にも平穏なもので、娘にも恵まれたが、結婚後数年で、夫は病没。しかしながら、先妻の息子がすでに成人し、一家を支えていたため、生活の心配はなく、日がな一日、屋敷でぼんやりする生活が始まる(あるいは、暇を持て余していたところへ、時の有力者に乞われ、夫人の話し相手として、屋敷にお邪魔するようになる)。
有り余る文学的才能と、持て余すほどの暇な時間。そして周囲には同じような「有閑マダム的友人」が複数いる状態。となると……この女性=紫式部は、一体なにを始めるだろうか。
当然「創作」ということになるのではないだろうか。
先に少し書いたが、なにしろ当時の貴族女性は、本当に暇である。仕事はない。家事は召使い任せ。育児は乳母任せ。外出はそうそうできず、日がな一日家の中で過ごし、娯楽といえば、音楽演奏に室内の手遊び、そして、際限のないおしゃべりと……読書。これが常態であった。
こんな生活を、毎日毎日朝から晩までずっと繰り返していれば、誰だって飽き飽きし、暇を持て余すようになる。
「あ~、ヒマ」「ヒマね~」「なんかすることないの?」「何にもないわよ」「なにか面白い話は」「ないない」「なによ、なんかないの、おもしろいこと」「だから、ないって」「え~」「つまんないな~」「あ、そうだ!ねえ、あんたさあ、なんか面白い話つくれないの?才女って言われてたんでしょ、昔から」「あ、それいいかも」「うん、あんたならきっと書けるって」「なんか書いてさ、あたしたちに読ませてよ」「楽しみにしてるから」「決まり!じゃあ、待ってるから、頑張って急いで書いてね!」
……などという会話があったかどうかは分からない。が、おそらく、これに近いことを貴族女性皆が感じており、それならば、ヒマな友人たちのために、いっちょ一肌脱いでやるか(私自身の暇つぶしにもなるし)と、軽い気持ちで書き始めたのが、後の『源氏物語』ではなかったか、と僕は考えている。
ともあれ。できあがった物語は、大当たりした。
読者の――当時の貴族女性のハートをわしづかみにしたその作品は、まずは友人たちの間で争うようにしてまわし読みされ、書き写された。
なにせヒマな貴族社会のこと、「面白い物語がある」といううわさは、瞬く間に、貴族女性の間に広がった。まだ読んでいない者は、どうにか写本を手に入れようとし、読み終わった者は、写本しながら、何度も何度も繰り返し読み、ますます物語の虜になっていく。
そのうわさは、男性貴族の耳にも頻繁に入るようになり、作者である紫式部の名は、いやがおうにも高まる。そして、そのうわさはとうとう、時の最高権力者である藤原道長の耳にも入り、式部は、その文学的才能を見込まれ、1006年頃、娘の中宮彰子の女房として出仕するようになるのである。
ここまでの説明でおわかりいただけるように、紫式部は、あくまで「物語作家」として名声を得ている。中宮彰子の女房になる以前、宮仕えの経験があるかどうかは定かではないが、内裏や大臣御殿のような「サロン」的な場において、目立った才気を発揮した、と思われる記録は、見当たらない。そして、この時代、物語とは「女子供が暇つぶしに読むようなもの」という扱いだった。
となれば、清少納言と紫式部、どちらが貴族社会において評価が高かったか、おのずと理解できる。現代になぞらえて言えば、紫式部はさしづめ、「女子グループ内で超人気の同人作家」である。どれだけ「ファン層」に人気があっても、それはあくまで非公式なもの。物語を「(漢籍などに比べ)劣ったもの」として見ている貴族男性からすると、「紫式部?へえ~。そんな作家がいるんだね」程度の評価であったに違いない。一昔前「トップレディ」として内裏に君臨した清少納言――貴族社会の誰もが「かっこよさ」筆頭だと認めていた女性とは、比べものにならぬほどの低い評価である。
そのような立場からキャリアをスタートさせた――スタートせざるを得なかった紫式部だが、中宮彰子を中心とする「サロン」のメンバーに抜擢されることで、いよいよ「公的な立場」を手に入れることになる。同時に『源氏物語』も、単なる「同人小説」から、公的な意味合いを持つ作品へと、否応なくその性格が変化していくのである。