12.「呪い」は今も生きている――『源氏物語』の現代における影響とは――
『枕草子』も『源氏物語』『紫式部日記』も、単なる文学作品ではなく、当時の貴族社会の「価値観」を変革する目的で書かれた「思想書」としての性格を濃厚に持っていた。そして、双方の価値観がぶつかり合った結果、最終的に『源氏物語』『紫式部日記』が掲げる「あはれ」の美学が『枕草子』の「をかし」の美学を駆逐し、以降、貴族たちの常識として定着していった……というのが、僕の結論である。
さらに、その「あはれ」の美学の影響で、日本全国が無政府状態と化し、最終的に貴族社会は崩壊。徹底的なリアリストである武士の時代がやってくるのだが……なんとも恐ろしいことに、「あはれ」の美学は、息の根を止められなかった。それどころか、世の中に平和になるにつれ、『源氏物語』は「日本文化の精髄」として、再び大勢の読者を獲得するようになり、武士や平民の間にも徐々に浸透していく。
その結果、紫式部のかけた「呪い」――現実世界よりも理念を優先する生き方を「美しい」とする思想――は、時に猛威を振るうことになる。
例えば、鎌倉期に吉田兼好らが唱えた、現実的な心配より風流を優先させようとする「風流至上主義」。
あるいは、江戸期の朱子学に基づいた尊皇攘夷思想。
戦前の「天皇崇拝」により起こった軍部の暴走と、太平洋戦争に至る暴走。
時代時代によって、その立脚する理念こそ違っているものの「(ほぼ実現不可能な)理想に殉じて死ぬことこそ美しい」「理想を現実に即したものにする努力など、してはならない。理想は理想のまま飲み込み、(どれほど無茶でも)そのまま体現することこそ、素晴らしいことなのだ」などという、理想に酔っ払っているとしか思えない行動。それらの「理念原理主義」を、我々日本人の心奥で支えているのが、この『源氏物語』によって大々的に流布された「あはれの美学」なのではないかと、僕には思われるのである。
「いや、それは過去の人間が冷静ではなかったからで、情報時代に生きる現代の人間は、そんなものに惑わされたりしないよ」
など、「あはれの美学」を自分とは全く関係のないもののように思っていらっしゃる方も、いるかもしれない。
が、それは違う。
現代にも、「あはれの美学」はしっかりと根づいている。
例えば、平和憲法さえ墨守すれば、戦争は起こらないとする「憲法第9条」信仰。
あるいは、実際にはあまりに過度な除菌はかえって健康を損なう可能性が高いのに、手にするもの、体に触れるもの全てをスプレーなどで除菌しようとする「清潔」信仰。
他にも「叱らない教育」信仰や、最新情報を多量に持っている者は、持っていない者より上位だとする、「情報強者」信仰など、いくらでも「理想を現実より優先する」実例を挙げることができる。
それだけではない。紫式部が作り上げた「受動的で、力弱く、守ってやりたくなるようなヒロイン」像は、現代でも小説やマンガ、アニメのヒロイン像として、確固とした地位を占めている。その典型的な一例が「妹萌え」というジャンルである。この種の作品内において、妹は、たとえどんなに優秀であっても、どんなに生意気な態度を取ろうとも、最終的にはどこか主人公である兄を頼る存在――保護欲を刺激する存在として描かれる。まさに『源氏物語』を源流に持つ「ヒロイン」なのである。
千年という時間の中、社会で生き残り、影響を与え続けていた『源氏物語』。そこで語られる「あはれの美学」「理念原理主義」は、現代でも間違いなく、我々日本人の胸中にべったりと貼り付き、時として、理不尽極まりない行動を引き起こす原因となる。
グローバル化の流れの中、否応なく国際社会の中で生きていなねばならない人間として、我々は、自らのその傾向――外国人からは全く理解できないであろう「集団ヒステリー」を引き起こしやすい傾向――をしっかり認識し、現実ばなれした、頭でっかちの、浮き足だった「暴走」をしないよう、よくよく心がけなければならない。
それにはなにより、「あはれの美学」に身を任せるのではなく、藤原道長や清少納言に習い、自らを磨き、現実に即した「をかしの美学」を身につける努力をすることが必要だ。 古人に「あいつら、また紫式部にノセられてるよ」と笑われないためにも、その努力を怠らないようにしたいものである。