1.『枕草子』『源氏物語』は文学作品?――貴族社会は「かっこよさ原理主義」社会――
ここ最近、清少納言の再評価が進んでいるように思う。
「才気煥発」「現代にも通じる感覚」「風景描写を最初に始めた才女」等等、清少納言好きの僕としては、誠に喜ばしい限りの評価である。
とはいえ、試しにグーグルで検索をかけてみると、
検索語 源氏物語 1140万件
紫式部 540万件
であるのに対し、
検索語 枕草子 186万件
清少納言 120万件
という結果である(2019年7月現在)。
世間ではやはり「王朝文学の最高峰」であり、「国民文学」「日本文化の源流」である源氏物語と、その作者である紫式部についての興味が、やはり強いようである。
しかし……と、ひねくれ者である僕は、つい考えてしまうのだ。
紫式部って、そんなにすごい作家なのだろうか?
源氏物語って、そんなにすごい作品なのだろうか?
このような疑念を呈すると、すぐに訳知り顔の好事家が現れ、
「うん、確かに現代の感覚からすると、『源氏物語』はたいした文学作品ではないように感じるかもしれない。けれども、それは現代人が小説として『源氏』を評価するからであって、歴史的価値や教養本としてしての価値を考えるとね……」
うんぬんかんぬん。
要は、「今の感覚からするとつまらないかもしれないけど、昔の人は源氏物語を『近代小説』ではなく、なにか違うものとして読んだんだ。そういう視点から見ると、源氏はやはり、価値のある本なんだよ」ということが言いたいらしい。
が、実のところ、この種の説に、僕はどうにも納得がいかないのである。
というのも、源氏物語が書かれた時代――平安時代中頃の時代状況を考えてみると、貴族社会におけるこの作品に対する評価は、実のところ、それほど高くはなく、むしろ、『枕草子』の方が、比べものにならないほどの高い評価を受けていたのではないか、と思われるからなのだ。
こんなことを言うと、
「そんなバカな、確かに『枕草子』は日本三大随筆の一つ、と呼ばれるほどに素晴らしい作品ではあるけれど、日本文化の精髄を象徴する『源氏物語』と比べれば、どうしたってその内容は劣っているじゃないか……」
などと反論されるのが目に見えるようである。
その種の反論をされる方がおっしゃる通り、、なるほど確かに、『源氏物語』の文学性は、『枕草子』に比べて、非常に高いのかもしれない。が、僕が言いたいのは、そのような「文学性が高い」という評価自体が、現代人たる僕ら特有のものであり、紫式部と同時代を生きた教養人である「平安中期の貴族」は、違う読み方をし、違った評価を下していたのではないか――ということは、『枕草子』も『源氏物語』も、現代人が思うのとは違う意図が込められ、社会に対し思いも寄らぬ影響を与えていたのではないか――ということなのだ。
なぜ、僕がそのような仮説を抱くに至ったのか。
それを説明する前に、蛇足かもしれないが、まず、当時の貴族社会の状況をおさらいしておこう。
当時の(上級)貴族社会――具体的にいうと、「内裏」に出仕することのできた人々は、一種の「サロン」のようなものを、そこで形成していた。
ウィキペディアによれば、サロンとは「宮廷や貴族の邸宅を舞台にした社交界のこと。主人(女主人である場合も多い)が、文化人、学者、作家らを招いて、知的な会話を楽しむ場であった。」とある。西欧の王族や裕福な貴族、貴族婦人がパトロンとして、自らの屋敷を開放し「集合場所」を作る。そこに、パトロンのお眼鏡にかなう作家や音楽家、学者などが集まり、料理をつまみ、酒を飲みながら、哲学や政治、科学から演劇、文学などについて議論する。時には、作家や詩人が新作を披露したり、音楽の演奏が行われたり、ということもあったようだ。
まあ、いってみれば、ある一つの屋敷と、一人のパトロンを中心に、緩やかな文化集団を作っていたわけだ。
このようなサロンには「世間への宣伝装置」という効果があったらしい。
若き芸術家や学者達は、有名なサロンに出入りを認められることで、「あいつはあのサロンのメンバーに認められるほど、才能のある人間なんだ」と評価され、名声と、新たな仕事を得ることができる。一方のパトロンの方は、洗練された文化人が数多く出入りするサロンを営むことで、「あの方は当代きっての趣味人で、芸術文化に理解のある、優雅なお方なのだ」と賞賛され、社会からの――特に、貴族社会からの――評価を高め、上流階級において、なにかと便宜を図ってもらえるようになる。
そのような利点があったため、若き芸術家や文化人は、様々なつてをたどり、どうにかして有名なサロンのメンバーになろうとしたし、趣味の良さを自認する貴族は、居心地よく楽しい接待に心を砕き、なんとかして自らの屋敷に多くの著名な文化人を集めようとした。そしてそのサロンから、多くの新たな文化芸術運動が生まれてきたのである。
平安中期の貴族社会は、まさにこの「サロン」と同じ――どころか、より大規模で徹底的な――システムを持っており、かつ、そこから新たな芸術文化を生み出していたのだ。
平安中期の貴族達はおしなべて、相手がどれほど「できる」人間か評価するに当たり、まず「かっこいいかどうか」を考える人種であった。
顔かたち、姿形が「美形」である、服装の趣味がいい、秀でた和歌を詠み、漢詩を作ることができる、素晴らしい音楽の才能がある、字がうまい、蹴鞠がうまいなどといった、およそ実務的能力とは無関係な「美的・芸術的素養」でもって評価されることが、そのまま貴族社会での出世を大きく左右するという、いわば「かっこよさ至上主義社会」だったのである(ヨーロッパの貴族社会では、政治的に出世するには、やはりある程度実務的能力が必要だったことを考えると、平安貴族たちは、より徹底して「文化的」な――地に足がついていない人間だったと言えるかもしれない)。
このような「かっこよさ原理主義」社会になってしまったのは、もちろん訳がある。
当時の「美形」の第一条件は「色白」で「髪が長い」こと。このような容姿を保とうと思えば、当然外働きなどできない。常に屋内にこもり、直射日光の当たらない場所で生活することになる。つまり、「美形」とは、屋外作業などする必要のない人間――屋内で「事務」作業することで生活を成り立たせることのできる、身分の高い人間であることを示していた。
また、春夏秋冬、四季に合わせて身なりを整え、その身なりに合わせた香をたきしめて生活するには、当然、財力が必要になる。そんな生活のできる人間といえば、やはり、上級貴族のみに限られる。
そして、どれほど才能があったとしても、よい師について鍛錬しなければ――「金とヒマ」のある人間でなければ――芸術的才能を伸ばすことなどできない。
結局のところ、「かっこよさ」とは、どれだけの財力があるか――身分の高い人間であるか――を示す指標であった。そして、実務的能力が高くなければ、それだけの財産を維持することなどできないのだから、「かっこいい」人間は、当然「できる」人間であるに決まっている……おそらくこのような論理展開で、「かっこよさ」がその人間の手頃な評価基準となっていったのだと思われる。
これはこれで、理屈に合っているのだが、平安中期ともなると、この「かっこよさ評価基準」が暴走し、「原理主義」にまで発展してしまう。なにしろかっこよくさえあれば、周囲の覚えめでたく、出世の道も開ける。極端な話、どれほど身分が賤しい者であろうとも、何かしらの芸術的才能さえあれば、貴族社会でもてはやされる、というほどであったのだ。身分の固定化が進み始めていたこの時代、かろうじて都で生活はできていたものの、その内実は火の車、という中級貴族も数多くいた。が、そのような立場の人であっても、何かしらの「かっこよさ」さえあれば、認められ、出世の糸口をつかむことができた。だからこそ、貴族達は皆、とりあえず当時の「政治文書」を作成するのに必須であった漢文の読み書きを身につけると、後はひたすら「かっこよさ」――特に「芸術的素養」を身につけることに精を出したのである。
このような人たちが、毎日毎日集まっていたのが「内裏」であったのだ。
内裏は、今で言う「皇居」と「官公庁」が合体したような機能を持つ場所で、天皇及びその家族が居住する場であると同時に、国政に関わる様々な(事務的)業務を処理する機能を担っていた。
この「内裏」で業務をすることができるのは、一定以上の身分の貴族だけと決められており、それ以外のものは、建物内に足を踏み入れることさえ許されなかった。そのため、天皇の秘書的な役割をする者や、天皇の配偶者の世話をする女官なども、身分の低い者に任せることができず、全て貴族達がその役割を担うことになる(中級貴族達にとって、それら「蔵人」や「女房」になるのは、大変な名誉である上、出世の糸口にもなるので、大歓迎であったようだ)。
幸運にも内裏での仕事を得ることのできたこれらの貴族達は――内裏に住み込みで働いている者を除き――毎日毎日、朝暗いうちに内裏に参集し、夜が明けると同時に仕事を始めていたらしい。などというと、なんと勤勉な、と思われるかもしれないが、実のところ、やっているのは事務仕事ばかりで、それもほとんどがルーチンワークであったようだから、昼前にはほぼ仕事を終えるのが通例であったらしい。
この時代の人は、たとえ貴族であっても、基本的に日が暮れたら寝てしまう、という生活を送っていたのだが……夕方に仕事場を退出するとしても、午後一杯はヒマな時間だった、ということになる。
さらに、これが天皇の配偶者や、その身の回りの世話をする召使い――「女房」達ともなると、さらにヒマだった。
女性は政治に関わってはならないとされていたから、内裏の中で仕事をすることはできない。
かといって、この時代、身分の高い女性はみだりに外出してはならない――下手に外出などして、「悪い虫」がついたりすると大変だから、ということらしい――とされていたので、気軽に出歩くわけにもいかない。なるべく姿を見られないような、屋敷の奥まったところにある部屋で、日がな一日、ぼけーっと過ごさなくてはならないのである。
あまりにヒマすぎるため、なんとかその時間を潰そうと、貴族達は暇つぶしに血道を上げ、結果、貴族文化がどんどん発達していったわけだが、それはさておき。
内裏におけるこの暇な時間、貴族達は何をしていたのかというと、ひたすら「社交」に明け暮れていたようなのだ。
(身分の高い)知り合いの部屋を訪ねては、あれこれとおしゃべりしたり、和歌を披露したり、楽を奏でたり……というと、なんと優雅な、と思われるかもしれないが、そうではない。
何度も言うが、この時代の貴族達は「かっこよさ原理主義者」である。中でも「内裏」に出入りできるのは、生まれつき「かっこよい(=身分の高い)」ものか、そうでなければ一芸を認められ、その方面での「かっこよさ」を極めた者達ばかり。内裏は、いわば、「かっこよさ」代表選手ばかりが集う場だったのだ。
ちなみに、平安中期のこの時代、曲がりなりにも都で生活できていた貴族――「中央」貴族達は、意外なほど少ない。せいぜい二千人程度である。中でも内裏に役職を得て、出入りを許された者――「かっこよさ」代表選手となると、どれほど多く見積もっても、千人いたかどうか、というくらい。
これは、貴族男性のみに限った数で、内裏にいた貴族女性の数は、資料不足のため、定かではない。が、仮に、男性貴族とほぼ同数の貴族女性がいたとしても、せいぜい二千人前後。ちょっと大きめの村か、小さな町程度――都会の高校ならば二校分、ちょっと大きめのコンサートホールの収容人員程度――の人数だ。
全員が顔見知りでも、ちっともおかしくない、ムラ社会のような「場」。ただし、そこに集まった全員が「かっこよさ原理主義者」であり、しかも「かっこよさ」代表選手であることを自認している場。それが、内裏であったのだ。
こうなると、気になるのは「誰が一番かっこいいのか」である。
「そこまでかっこよさにこだわらなくても」とあきれるかもしれないが、そうはいかない。この時代「かっこよさ」は、それだけで出世を左右する重要な要素なのである。周囲がかっこいいやつばかりの中で、埋没してしまうわけにはいかない。そいつらの頭を押さえて、自分こそが最もかっこいいのだ、と周囲に認めさせることで、初めてさらなる出世の糸口がつかめるのである。というわけで、今現在、日本を代表するアスリート達が、オリンピック出場を目指して熾烈な争いをしているように、平安中期の内裏では、「かっこよさ」代表選手が、その中でも最もかっこいい者は誰なのか、常に熾烈な争いをしていたのだ。
生まれつき「かっこいい」人間は、周囲に「今一番かっこいい」人間を侍らせることで、相対的に自分のかっこよさを上げていこうとする。一芸でもって「かっこよさ」を認められた者達は、他の「一芸を認められた者達」と競い合い、我こそがこの分野で最もかっこいい人間だ、と周囲に認めさせ、生まれつき「かっこいい」者の寵愛を得ようとする。一見和気藹々とただおしゃべりをしているだけのように見えるが、水面下でこのような熾烈な争いが進行している――それが、「内裏」における「社交」なのである。
さて、ここで思い返してほしい。
ヨーロッパにおけるサロンとは、若き学者や芸術家が、才能を認められようとして集う場であり、一方サロンの主催者であるパトロンは、洗練された文化人を数多く集めることで、貴族社会内での存在感を高めようとした。
それに対し、平安中期の内裏では、「かっこよさ」代表選手達が、身分の高い者の側に使えることを目指して、誰が最もかっこいいかを競い合い、一方身分の高い者達は、一芸に優れた「かっこよい」者達を数多く身近に侍らせることで、自らの「かっこよさ」を相対的に高めようとした。
「サロン」で重要視されたのは「知識」や「才能」、「内裏」で重要だったのが「知識」や「才能」に加え、容姿や人間的魅力までも含めた「かっこよさ」であった、という違いはあるにしろ、システムとして、この二つの「場」がほとんど同じ働きをしていることに、気づいていただけたであろうか。
さらにいえば、「サロン」は政治とは一線を画した、あくまで個人的な趣味の集まりであったのに対し、平安貴族達は、「かっこよさ」という要素を大きな判断基準とし、それさえ満たすことができれば、実社会での出世も可能であった、という点において、平安中期の貴族社会は、ヨーロッパ社会よりも徹底的な「文化中心主義」「かっこよさ至上主義」であったのである。
まずは、このことをしっかり理解しておいてほしい。