微熱。
その日、俺は熱が出た。
朝、目覚めると同時に襲いかかったのはだるさと悪寒。そして酒でも飲んだかの意識の朦朧だった。
起き上がろうにも起き上がれないこの状況に俺は這いずった。
しかし体力も気力もないこの状況で俺はなにができるのかわからなかったし、グラグラと平衡感覚がないこの体ではまともに何かを考えられるわけがない。
「……雄一? 大丈夫か?」
もちろん第一発見者はルームメイトの一郎太で、一郎太は俺の異変にすぐに気づいた。
「大丈夫か? 風邪でも引いた?」
「わか……ね」
声なんて出るわけがない。助けてと何度も呟いていたかもしれない。
そもそも、俺自身があんまり風邪を引いたことがなかった。だからこの状況を把握できずにいた。
一郎太のその対応が早かった。
体温を測り、熱があるのを確認した直後に俺をベッドまで引きずり寝かしつけた後、冷蔵庫からポカリスエットとアイスノンを持ち込んできて後頭部に押し付けてきた。
ひんやりとした冷たさが茹る脳が冷やされていくと意識がはっきりとしたような気がした。
「なんか……すまんな」
と呟いたと思う。
こんな俺に申し訳ない。という気持ちでいっぱいだった。
「気にするな。熱が出るくらい仕方ないし、誰でもなるから」
そう、俺に囁いてからひんやりとした手が俺の額に触れた。
その手は俺が小さい頃に頭を撫でた母親の手によく似ていると思った。
魘されるような苦しい夢だ。何かに追われて走って逃げ出して、なにもかもを捨てて逃げている夢だった。
俺が走っている道は泥濘んでいて力一杯走っても滑っては転んでを繰り返すようなものだった。後ろからは松明みたいにゆらゆらと揺れる炎がいくつもあり、それが俺を追いかける人間だとすぐに理解した。
手には握りしめているものがあって、それに続いてなにかが付いてきていた。
それが誰だったのかわからない。
でも不思議とその誰かは人生を最後まで一緒にいてやりたいと思うくらいに大事なやつだというのが夢の中の俺は思っていた。
そして俺たちは泥濘みから抜け出せず、炎に囲まれる。
乱雑に捕まえられ、顔を泥に押し付けられて息が出来ない。
そして俺が引っ張っていた奴は捕まって連れ去られようとしていた。
顔が見えない。
名前を叫んだが、誰を呼んだのかわからなかった。
そこで夢が消え去った。
「……」
「あ、目が覚めた。おはよう雄一。調子はどうだい?」
目を開けると隣に座っていた一郎太が本を読んでいた。
ぼんやりとした思考の中で俺は辺りを見回すがいまいち理解できない俺がいた。
「俺は……」
「朝起きた時に雄一は8度の熱が出てたんだ。風邪かなと思ったんだけど、今調子良さそうだし一過性の熱だろうな」
一郎太が俺の額に手を当てて熱があるか確認してくる。すこし熱のある手が気持ちよかった。
「今……何時」
「十三時だ。講義のやつは俺が全部取っておいた」
「……悪いな」
「講師にも雄一は熱が出て倒れているのでお休みしてますって伝えておいたよ」
持つべきはルームメイト。というところか。
普通ならここまで病人の俺を尽くすやつはいないだろう。
「ご飯は? 食うか?」
「……」
すこし黙っていると返事をしたのは大きな空腹音だった。
俺と一郎太はしばらく固まったあと、俺が恥ずかしくなって視線を右往左往しているのを一郎太は腹を抱えて笑った。
「わかった。わかった。ご飯を作ってやろう。一応お粥作っておくからな」
「すまん」
「いいってことよ。病人は寝とけ」
そう言って一郎太は立ち上がり調理台へと移動していく。
「……一郎太」
と呼びかけると、んー? なんだい? と俺に返事をした。
しばらく黙っていると、不思議に思ったのか、一郎太が顔をのぞかせて俺の様子を見にきた。
一郎太の、その屈託のない顔に俺はどうしていいのかわからなかった。
「俺は、どうしたらいいんだ」
「どうしたらって、なにが?」
俺は起き上がり胡座をかく。
久しぶりに起き上がったからなのか、血圧が低いからなのか脳内がスッと血の気が引いていくのを感じた。
「俺は、お前に告白をされた。秘密も、俺への想いとかも、全部だ」
「……」
一郎太は俺の言葉に耳を傾ける。
俺は言葉を紡いだ。
「わからないんだ。お前になにを返したらいいのか。どうしたらいいのか。俺は……お前になにができるのか。全然。わからない」
セクシャルトランスとかも意味がわからない。全然、一郎太のことがわからない。
なにもかも、俺には摩訶不思議すぎて理解が追いつかなかった。
「なぁ、一郎太。お前は俺になにを求めている? お前は俺にどうしてほしい? お前は、なにがしたいんだ」
我ながら意味がわからない質問だった。
漠然としたその質問は答えではない。質問のような暴言でしかない。それに答えなんてなかった。
だが、一郎太は考え始めた。俺はその彼をじっと見つめていると、一郎太は俺の視線に気づき近づいてきた。
思わず、距離を取ってしまった。
「……なんだい? 何かすると思ったのか?」
「……いや、突然近寄られたら誰でも尻込みするだろう」
人間不信だからな。俺は。
そんなことを言っていると彼は柔和な表情を作った。
「別に、なにも求めていないさ」
「……」
「今こうやって一緒に生活をしてくれている。俺が男とか女に性別が変わるような奴でも雄一は分け隔てなく話してくれて、接してくれている」
一郎太は目を伏せて俺の評価を述べてきた。
おそらく、彼が今こうやって俺と生活するまでにいろんなことがあったんだろう。
中学の時とか、高校の時とか。
いろんなことがあって、苦しい思いをしてきたに違いない。
「俺は……私は、そんなお前に惹かれているんだ。だからなにもしなくていい。そのままの雄一でいてほしい」
髪の毛が次第に伸びていき、一郎太の体がどんどん女性化していく。上目遣いで俺を見てくる女体化一郎太に俺は視線が泳いだ。
その変わりように俺はドキドキした。
「わかった? 雄一」
「……」
だが腑に落ちなかった。
求めていないというのがどうも腑に落ちない俺がいた。
「……雄一?」
「看病」
「……?」
俺は腕を組んで、横を向いた。
「今日看病してくれたお礼。……なにしてほしいか?」
俺には一郎太に返してやるものも、あげれるものも持ち合わせていない。
今俺にあるのは一郎太への貸しだけだった。
「お礼……ね?」
「あぁ、なんでも言ってくれ」
その時、一郎太が噴き出した。
驚いた顔をして一郎太を見ると肩を震わせ顔を下に向けていた。
「……な、なんだよ」
「今、なんでもって……なんでもって言ったよね」
「あ、あぁ、なんでもだ。俺はできる限りのことはお前に返してやりたいって思っている」
また吹き出した一郎太に俺は変な顔をしていただろう。
しばらく肩を震わせて笑っていた一郎太が深呼吸を一度した後、顔を上げてきた。
「デート」
「は?」
なんですと?
「デートしようよ。クソ女の復讐。まだ終わってないでしょ?」
「たしかに……そうだな」
昨日以来、俺はあいつと会っていない。あいつはきっと今の彼氏とまたイチャイチャしているのだろう。
「じゃあ復讐が終わっても、私とデートすること。それが雄一のお礼ってことでいい?」
「……そんなんでいいのか?」
安いお礼だな。と思った。
「他に雄一がどんなことができるんだよ」
……しばらく俺は考えた。
「……看病とか?」
「雄一、『私』の時に体拭いてくれるの?」
「……っ!」
また肩を震わせて笑う一郎太がいた。